策略デー
前へ目次次へ
3.

 車を走らせていた厚志は苦笑した。助手席にはいまだ赤い顔をしながら憮然と無口になっている若菜がいる。何度か「下ろせ」と低い声で脅されたが屈する厚志ではない。いつもの若菜なら隙を見計らって車から下りようとするのだが、今は靴がないため、それもできない状態だ。さすがの若菜でも裸足で家に駆け戻るのは躊躇われるのだろう。
「どうせ今日のことなんて忘れて用意もしてないんだろ?」
「何の話よ」
 若菜は眉を寄せながら厚志を見た。
 ここまで来たら仕方ない、と開き直るように助手席に座り直す。暖房の出力を最大まで上げた。部屋着のまま連れて来られたため寒い。腕をさすり、暖房の騒音に顔をしかめた。
「私、明日は仕事なんだからね。この前みたいにいきなり欠勤させたりしたら、恋人役も放り投げるよ」
「平気だ。そこまで立て込まないはず」
「――“はず”ってなに、“はず”って。だいたいさっきの話も聞いてないし。今日が何だって――あ、そういえばバレンタイン」
 矢継ぎ早な文句のなかで自己解決に至った若菜は間が抜けた表情を浮かべ、両手を打ち鳴らせた。眠ったことで若菜の脳裏からはイベントが消えていた。ケーキの箱を思い出し、あれはどうなったのだろうと純粋な疑問が浮かぶ。
「用事ってそのこと? 期待してたんならするだけ無駄だったね。用意なんて何もしてないよ」
「それは想定内」
「あ、そう」
 若菜は少しだけ拍子抜けした。
 窓に映る賑やかなネオンライトが眩しくて瞳を細める。そろそろ11時を回ろうとする時間帯だが、街はまだ賑わいている。昼間と比べ、往来には恋人たちが激増していた。
 若菜はひと通り街の様子を眺めたあと、厚志に視線を戻した。
「で。どこに連れて行くって?」
 尋ねた若菜に厚志は笑顔を見せる。含みを持つ意地の悪い笑みと、それを裏付けるかのように楽しげな声で、厚志は告げた。
「俺が住んでるマンション」
「手作りチョコレートをあげるから今すぐ家に返そう」
 若菜は棒読みで迫ったが、そんな願いは却下された。


 :::::::::::::::


 車はあっという間にマンションの前に到着した。
「要らない要らないそんな経験値なんて絶対要らない、不必要!」
 決死の表情で訴える若菜だが、厚志は聞く耳持たない。楽しげな表情のままで若菜を軽々抱き上げた。
(今日は薄着だっていうのになんでこんな簡単に捕まるのよっ。恋人経験値なんかより抵抗力の経験値が欲しいよ絶対! 一撃でラスボスも沈める力を我に、って感じだわ)
 若菜は混乱したまま荒い呼吸を繰り返す。肩が激しく上下する。
「ただ家に行くだけね? 恋人役とは言っても見る奴もいないし、必要ないしね?」
 怒鳴り声を上げるだけから一転、若菜は静かに強く、諭す作戦に出た。
 冷や汗を流しながら厚志を見上げたが、彼は視線も合わさずに笑っている。憎らしいことこの上ない。若菜は拳を握り締めた。
 ――その澄ました顔にアッパーでも決めてみせようか。クリティカルだ。カウントだ。リングに沈め、斎藤厚志。
 若菜は奥歯を噛み締めて腕に力を入れる。今にも実行しようかというとき、まるでその攻撃を封じ込めるかのように、若菜に荷物が降りかかった。
「なに?」
「落とすなよ。それはケーキ」
 お腹の上に乗せられたのは大きな箱だ。それが家で見た箱と同じだと気付き、まさか家から持ってきたのだろうかと眉を寄せた。
 続いて小さな袋も渡された。
「これは?」
「お前の着替え」
 袋はグシャリと潰された。
「いま逃げたら、借金に利子つけるぞ」
 暴れかけた若菜を見事に押さえつける台詞だった。
 若菜の脳裏に「完全犯罪ってどうやればいいんだろう」という物騒な考えが浮かんだが実行には移されなかった。脱力し、疲れ果てて何も言う気になれない。諦めてしまうと、途端に熱の塊が胸の奥に生まれた。衝動に逆らわないまま軽く咳き込んだ。
 それまで若菜をただからかっていただけの厚志は表情を改める。若菜に預けた荷物が落ちないよう調整してから車を離れた。
「……でかいマンション」
「買ったのは親父だがな」
 先日の遊園地を思わせるほど大きな駐車場だ。そして、観覧車よりも高いのではないかと思わせる高層マンション。いったい何階建てなのか、数えるのも面倒だ。
 若菜は呟く以外に何もできない。自分の県に都会を思わせるこのような高層マンションがあったなどと、初めて知る事実だ。しかも新築らしい。どこにも古臭さは感じられない。
 立派なマンションに立派な玄関。
 不審人物は何者であろうと通しません、というように立派な管理人室も見えたが、そこには誰もいなかった。
(職務怠慢で明日の朝はみてろよ管理人)
 若菜は厚志に抱えられたままエレベーターに乗り込んだ。
「ああもう。この際、抱き上げるのは許してやるから少しは話せよ! 昨日の成長は嘘だったのかコラ!」
 怒鳴って厚志の髪を引っ張るが笑われただけだ。若菜は怒りと呆れで再び脱力した。
 ふぅ、と頭を垂れて瞼を閉ざす。眉間に皺を刻んで「もういいや」と投げやりな気分になる。
「熱が上がって来てるんじゃないのか?」
「誰のせいだと思ってやがる」
 若菜は睨みつけた。本当に心配しているのなら今すぐ家に帰すべきだと視線で訴えたが伝わらなかった。厚志は肩を竦めると、若菜の額に自分の額をくっつける。両手が塞がっているため、他に熱の測りようがなかったのだろう。ギャアと叫んだ若菜の悲鳴など聞き流すようだ。
「――本当に男慣れしてないんだな」
 今の行動は男に慣れていようがいまいが関係なく悲鳴を上げていい気がするのであります。
 若菜は誰かに報告した。
「駄目だ。この馬鹿には頭が痛い」
 エレベーターを下りた先には長い廊下が待っていた。扉はポツポツとしか見当たらず、部屋はどれだけ広いのだろうと口をあける。明らかに普通のマンションやアパートと違う。
 ――お前はどこの王子さまだ。
 激しくツッコミを入れたい若菜だったが堪えた。
「若菜。ちょっと首に手を回してろ」
「あ?」
「両手が塞がってて鍵が取れない」
「……それなら下ろせ」
「――そうか。じゃあ遠慮なく」
 睨みあったあと、若菜の背中から腕が外される。けれど足を抱えている腕は外されないのだから、若菜はまるで逆立ちでもするような格好になりかけた。体の上に置かれていたケーキや荷物が落ちかけて慌てる。悲鳴を上げて厚志にしがみつく。結局は厚志の言う通り、首へと腕を回す羽目になってしまった。悔しくて唸る。
「だから最初からそうしろって言ってんのにな」
 そんな声まで聞こえて歯噛みする。
 何か言ってやろうと口を開きかけた若菜だが、扉に鍵を差し込んだ厚志が表情を強張らせた気がして眉を寄せた。
「厚志?」
「……いや」
 厚志はそのまま扉を開けた。その様子を訝しく思いながら追及はできない。なぜなら扉向こうに広がっていた空間に、呆気に取られたからだ。
(――広い。広すぎる。なんだこの空間は。お前は何様だ)
 声ならぬ声が脳裏をよぎり、若菜は口をあけて玄関を眺めた。
 厚志は少しだけ屈んで荷物を玄関に置いた。
「……お前、本当に何……?」
 2人が入った途端、玄関の照明は自動で明るくなる。天井はガラスに似た素材だ。蛍光灯の代わりに天井全体が光を放ち、かなりの明るさを保っている。
 若菜は凝視しながら観察した。
 テレビコマーシャルでしか見たことのないような、高級な内装。20代になったばかりの人間が住んで許されるのかと思う。
「何と言われてもな。俺の金じゃない。ほとんどは親父の金だ。俺も相応に稼いではいるけどな」
 厚志の口調は面白くなさそうだった。父親の話題をするのが嫌だということか。だが若菜は厚志のそんな心情などどうでもいい。自分ではこのような場所に決して住めないどころか目にする機会もないだろうと、好奇心を疼かせていた。忙しく視線をあちこちに飛ばしてひたすら感動する。
 廊下を眺めると、誰が使い切るのだというほど部屋数が多い。すべてに最新の設備が整えられているようで興味深い。足元には段差もない。思えばマンションの入口から今まで、一度も段差はなかった。階段と併用するようにすべての箇所にスロープが設置されていた。
(っても老人1人でこんな豪華なところに住みそうもないけどな)
 広さと孤独感は比例するだろう。
(どうか。厚志は1人でこんなところに住んでるのか。お父さんはいるけど仕事でほとんど帰ってこないってんなら1人で住んでるのと同じことだよな。だから毎日のようにご飯食べに来るのか。図体はでかくても中身はまだまだガキだ。そうだ。こんな自己中でわがままな奴を大人だなんて、誰が認めてやるか)
 若菜の想像は果てなく成長していく。同情の篭った視線を向けられた厚志はわけが分からず眉を寄せるだけだ。
「私、これからは厚志が家に来ることに関しては何も言わないことにした。たまには遠慮しつつ遊びに来い」
「……は?」
 ややこしい誘いだ。厚志は顔をしかめたが、若菜の表情は真剣だった。そこに何を感じたのか厚志は軽い笑い声を上げる。
「じゃあ遠慮なく、若菜の優しさとやらを利用させてもらうとするか」
 厚志が開けた扉の先は寝室だった。
 気付いた若菜が叫んだが、厚志は後足で寝室の扉をしっかりと閉めた。

前へ目次次へ