策略デー
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4.

 若菜は寝台に横たえられた。
 気遣ったのか厚志は優しいが、その優しさは別方向へ向けるべきだと激しく思う。
「待て!」
 そのまま同じ寝台に乗り上げる厚志に、若菜は強張った表情で両手をかざした。
「厚志のことだからまた何か企んでるんだろうとか、話があるんだろうとか思ってたけど、ちょっと待て!」
「残念ながら待てないんだな」
 厚志は若菜の両手をつかんで笑う。
「笑いたいのはこっちだバーカ」
 良く分からない台詞が若菜の口をついた。混乱しているのだろう。
 一瞬の間をあけて厚志が大きな笑い声を上げる。若菜を下敷きにして横たわり、体を震わせて笑う。
「重い!」
「お、お前が余計なこと言うからだろ」
 涙まで溜めての笑いはそうそうおさまらない。
 今のうちに何とか逃げられないだろうかと、若菜は這いずるように厚志の腕から逃れかけたが、途中で止められた。二の腕をつかまれる。腰に腕を回されて、引き寄せられる。先ほどよりも密着した。
「ちょっと待てって! マジでこれはそういう意味なのかっ?」
「他にどんな意味に思える」
 ここでボケなければ私に未来はない。とまで思った若菜だが言葉は出てこなかった。
 厚志は呆然とする若菜を引きとめたまま笑みを見せる。意図して作られた笑みではなく、先ほどの延長のように優しいものだ。
「平気だ。若菜は俺に任せていればいい」
 任せたら大変なことになるんじゃないだろうか。
 反論は脳裏でだけ行われた。唇が震えるように小さく開いたが、言葉は生まれない。こんなことになるならチョコレートぐらい用意しておけば良かった、と若菜は本気でそう思った。
「さて」
 今度はニヤリと意地の悪そうな笑みを浮かべて、厚志が若菜に迫る。上着を脱いで薄着となる。
 若菜に迫った厚志は一瞬、何かに気付いたように部屋の入口へと視線を向けた。若菜が疑問に思う間もなく視線は再び若菜に向けられる。正直、そのままよそ見をしていてくれれば殴れるのに、と思った若菜である。
 見下ろしてくる厚志の瞳が真剣味を帯びた。穏やかな雰囲気を払拭した表情へと変化し、妙な恐ろしさを醸しだす。玄関と違って自動照明の機能はない部屋らしく、部屋には月明かりが満ちている。
 上半身を起こし、両手をついて堪えていた若菜だが、押し倒された。
「好きだよ、若菜」
 両肩をつかむように抱きしめられ、強い声ではっきりと、厚志は告げる。
 ――全身の血が引いていき、再び直ぐに集まって爆発するかのように思えた。それくらい信じられない言葉を聞いたと思った。
「分かった。魂が抜けるっていうのはこういうことを言うんだ」
 厚志は若菜の両肩にかけていた手をガクリとずり下ろし「それはあんまりな」とぼやいた。しかし挫けない。呆れと苦笑を含みながらも再び若菜に近づく。
 若菜はもはやどうしていいのか分からない。混乱するだけで、黙って抱き締められている。いっそのこと、厚志の背中に腕を回してしがみ付いてやろうかと思う。がっしりとしがみ付いていれば、厚志は何もできないかもしれない。
 何かに操られるように、厚志の背に腕を回そうとした若菜だが、その目が点になった。
 厚志の肩越しに部屋の入口が見えた。その暗がりに何かの影が見えた。恐ろしい形相で若菜を見つめる一対の瞳が浮かんでいる。まるでその気配は悪霊のようだ。
 若菜は声もなく厚志に抱きついた。
 幽霊屋敷など怖くない。けれど今回は話が別だ。「作り物」という意識があることが前提で「怖くも何ともない」なのだ。ただし、いくら作り物であろうとも、ビックリ箱のように不意打ちで登場されると心臓に悪い。生きている殺人鬼に向かってこられるよりは余程いいと思うが、今回は“本物”に思えた。
 ――あんなに恨めしそうに、憎々しそうに、爛々と双眸を燃えたぎらせて扉の影からそっと見られていると寿命が縮む。なんて後ろ向きで暗いのだろう。だからこそ悪霊なのか。
「やっと協力する気になったか」
 抱きついた若菜をどう思ったのか、厚志の囁きが耳をくすぐった。
 若菜はそのことに酷く動揺して腕を放す。だがまだこちらを睨んでいる悪霊を思い出してやはり厚志に手を伸ばし、しかし再び思い直して厚志から離れようとして――
「何をやってるんだお前は」
 厚志は呆れたようにため息をついた。待っていられないとでも言うように若菜の腕をつかみ、背中に誘導する。
「き、協力って、つまり」
「黙ってろ」
 声さえ聞こえなければ本物の恋人同士のように映るだろう。
 厚志は楽しげに笑って若菜の唇に指を当てて囁いた。若菜の背中を、悪寒にも似た戦慄が走る。
 ――つまり、また厚志の戦略とやらに踊らされているわけで。
(いや、でも協力って言ったってどこまでが協力。近くに寄られるだけで心臓破裂の危機を迎えてるっていうのに、今は遥かにその状態を凌駕して限界点突破だ。突破したらどうなるのよ。やっぱり破裂したあとは空気に飛散して限りなく薄められるんだよ。となるといまの私は空気か。常に漂っている存在か。必要だけど意識されることはほとんどないっていう存在感のなさか。突破したから私はつまりここにいないっていうことになってるのか。あっはっはっは、わけ分からねぇ)
 乱れるシーツは他人事だった。
 若菜はひたすら現実逃避に努めようと決めた。大人しく瞼を閉じる。服を脱がそうという気はないらしく、服の下に手を伸ばされることもない。視界を閉ざしてしまえば現実逃避完了だ。
 ――さぁ眠ろう。耳を塞ぎたくなるような真剣で強い告白なんて揃って全部、無視だ、無視。
「――さんっ」
「――だろう」
 頑なに人の声を拒否していた若菜は、いつの間にか悪霊が部屋が乗り込んで厚志と会話していることに気付かなかった。気付けば厚志は起き上がっている。若菜も疲れた体で起き上がり、月明かりのなかに3人の姿が沈む。
「今日は私と付き合って下さるという約束だったじゃないの!」
「そっちが勝手に決めたことだろう。さっさと出て行けよ」
 若菜は目の前で展開されていた修羅場に眉を寄せた。腕は厚志につかまれたままだ。
「その女は厚志さんの何っ?」
 ヒステリックな高い声が若菜を打つ。憎悪に満ちた瞳だったが、そんなことよりも「さん付けかよ」と違うところに衝撃を受けた。
 厚志はうるさそうに顔を歪めて女性を一瞥する。そうして若菜に視線を移した。
 若菜はその視線に頬を引き攣らせたが、腕を引かれると黙ったまま厚志に寄り添った。厚志に庇われる格好になる。
 ――恋人契約。
 厚志の瞳はそう語っていた。
「失礼なこと言わないでくれないか。これでも俺の女なんだ」
 頭を抱き締められた若菜は体を強張らせる。楽しげな厚志に拳を震わせる。その口を押さえつけてやりたいと思ったが大人しくしている。厚志の胸に額をつけたまま瞳を閉ざした。熱に包まれてのぼせそうだ。
 背後で女性が息を呑むように悲鳴を上げた。悔しげな気配を背中に感じる。
「何よ! そんな女のどこが良いって言うの!」
「こんな男のどこが良いって言うの」
 女性の声音を真似てボソリと呟く。聞こえたのか、後頭部を抱えていた厚志の手に力が込められた。まるで頭が潰されてしまうんじゃないかと思うような力だ。若菜は痛みを堪えて厚志の背中を殴る。女性からは見えない位置を狙った。
「どうせその女も代わりなんでしょう!」
「――麻衣子」
「……っ」
 厚志の声音が変わった。同時に若菜を抱き締める力が緩み、若菜は顔を上げる。麻衣子と呼ばれた女性を振り返った。改めて見れば非常に可愛らしい女性だと知れる。若菜よりも少し背が高いだろうか。麻衣子は怯えた瞳を厚志に向け、見えない何かに押されたように一歩後退した。
「わ、私は諦めないわよ。いつか絶対」
「出て行け」
 最後まで言わせず厚志の声が遮った。
 麻衣子の顔に朱が走る。その視線が若菜に向けられる。
 厚志に寄り添うように座っていた若菜は、向けられた敵意を臆することなく受け止めた。睨み合いなら得意だ。
 真っ直ぐに受け止められた麻衣子は少々鼻白んだようだ。悔しげな表情を浮かべると、唇を噛んで走り出て行く。廊下を走る音が遠ざかり、直ぐに玄関扉の音が聞こえた。かなり力任せに閉めたのだろう音が残響する。
 麻衣子が去った部屋を沈黙が包んだ。
「……とんだバレンタインだ」
 若菜は苦く呟くと、肩の力を抜いて寝台に倒れ込んだ。厚志への文句は限りなく湧くが、心身ともに疲労困憊していて億劫だった。すべてを忘却に流して眠りたい気分だ。
「本当、厚志の側にいると退屈しなくて人生楽しいわ」
 これ以上ない敵意を込めた嫌味だ。
 厚志は仰向けに倒れた若菜を笑顔で覗き込んだ。麻衣子に向けた剣呑な雰囲気は夢か嘘だったのではないかと錯覚するほど、別人の笑顔だ。
「じゃあさっきの続きでもやるか?」
「……そうだね」
 ふざけた提案をする厚志に、若菜は体を起こして微笑んだ。直後に厚志の脇腹を容赦なく蹴飛ばした。先ほどの続きであれば間違いなくそうなる。厚志は声も出せずに倒れこむ。
「いてぇ……」
 しかし厚志は笑っている。
「今度という今度は呆れて物も言えないよ。良くもまぁあんな馬鹿げた方法思いつくもんだね。見事に私の嫌がるようなこと!」
 厚志は腹を押さえたまま肩を震わせて笑った。
「お陰で俺は大助かりだ」
「昔の彼女くらい自分で精算できるような甲斐性、身につけとけ」
 厚志は慌てたように「違う」と起き上がった。近づいた厚志の顔を叩き払った若菜だが、直ぐにその手をつかまれる。
「誤解だって。俺は麻衣子と付き合ったことなんて一度もないぜ?」
 若菜は眉を寄せて厚志を見た。厚志の表情は真剣で、とても嘘をついているようには思えない。寝台に座り直してため息をつく。緊張感が抜けたのか、軽く咳が出た。
「なら何でいきなり部屋の中に出現してるのよ」
 合鍵まで持っていなければ、部屋に侵入できるとは思えない。特にここはセキュリティ面でも充分な機能を備えたマンションだ。
「だから、あれが親父が選んだ候補者の1人なんだ。前々から顔合わせてたんだが、この時期になると毎年家に押しかけてきて帰らねぇんだよ」
「奇特な女ね。こんな奴のどこがいいんだろう」
「魅力的なんだろう」
 若菜は頷いた。
「超ごく一部のマニアックな人にしか好かれないタイプね」
 厚志の頬が引き攣った。
「本当に抱いてやろうか、お前」
「さっきの彼女を呼び戻してやろうか、厚志」
 若菜は睨みつけながら低い声で脅した。
 厚志は返す言葉に詰まり、ガシガシと頭を掻いて立ち上がる。
「腹減っただろう。詫びに俺が作ってやるからありがたく食え。日付は過ぎたが、まだケーキもあるしな」
「思い出に残るバレンタインだ」
「まったくだ」
 厚志は首を竦めて出て行こうとする。
 若菜も重い体を引きずりながら厚志に続いた。

 

END
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