警戒心は働かず
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1.

 若菜は電卓に弾き出された数字と、手元にある書類の数字をつき合わせて顔をしかめた。
(おかしい。何で? 計算が合わない)
 パソコンに入力したデータを印刷し、入力間違いがないか確認をしている最中だった。
 ――しかし。
 若菜はパソコン画面と、印刷した書類とを見比べる。
 単なる自分の計算ミスだと感じてため息をつき、計算機をリセットする。3回計算して3回とも違う数字が出てくればため息をつきたくもなる。普段なら一度で正確にできるのだが、今日は調子が悪いようだ。
 若菜は再び電卓の打ち込み作業へ戻った。数秒も経たずに結果が出る。先ほどとは違う数字だ。
 ――もう一度電卓を打つ。
 更にもう一度。
 腹立つことにすべて違う数字が出てきた。
(あ、合った)
 3回目にしてようやく前回と一致する数字が出された。
 若菜は安堵したが、今までの失敗の回数も多数であるので、もう一度確かめる。
(あ、合わない)
 若菜は憤然とため息を吐き出した。顔が熱い。
「……腹立つな……」
 誰にも聞こえない程度の声量だ。半眼となりながら10回ほど同じ計算をさせられた書類を睨みつける。どうやら風邪は順調に悪化しているらしい。
 若菜は軽く咳き込み、それが長く続きそうな咳だと感じてパソコンを離れた。体をくの字に折り曲げ、両手で口を塞ぐ。衝動を殺そうとしたがなかなか治まらない。こういうときは我慢せずに咳き込みたいだけ咳き込んでしまえばいいと分かっていたが、あえて腹に力を込めて耐えた。
「阿部さん。大丈夫?」
 背後から大輝の声がかけられる。返そうとしたが咳は続き、若菜はそのままの体勢でただ頷いた。涙目を隠すように硬く瞼を閉ざす。
「阿部ー。辛いなら早退しても平気だぞ。熱はないのか?」
 あまりにも長く続く咳に、課長が心配そうに声を飛ばした。
 若菜はいまだ咳き込んだまま、慌てて何度も頷く。喉が異常に乾燥しているらしい。早く止めなければと、引き出しの中に常時用意している喉飴を口に放り込んだ。仕事中に不謹慎だと良心が咎めたが、幸い今は来客もない暇な時間なので構わないだろう。
「そういえば、まだ流行ってるみたいですよ。インフルエンザ」
「ああ……下の娘が学級閉鎖になったらしくて学校休んでたな」
「へぇ。娘さんは大丈夫なんですか?」
「俺に似て健康そのものだ」
 課長の声が引き金となり、子持ちたちの世間話が繰り広げられた。
 喉飴の効果か咳が落ち着いてきた若菜は、話題が自分から離れると立ち上がった。彼らの会話に笑みを見せながら、空になったポットを持ち上げて給湯室へと行く。そろそろコーヒーを淹れる時間なのでお湯が必要だ。職場と廊下を仕切る扉を開けると、途端に冷気が若菜を包んだ。
 お湯汲みは新人社員がするという暗黙の了解が敷かれている。若菜は条件から外れるが、気がついたら積極的にするようにしていた。自分が入社した頃は仕事を覚えるので精一杯で、他のことをしている時間が惜しいくらいだった。後輩たちにはお湯汲みよりも先に仕事を覚えて欲しい。
 若菜がポットを持って廊下に出ると、気付いた後輩が飛んできた。
「すいません、忘れてました! 私がやりますので、阿部先輩は」
「いいよいいよ。咳止め薬飲むついでだし、仕事してて。まだ終わってないんでしょう?」
「そうですけど……」
「私はもう終わってるから気にしないで。暇持て余してたから。えーと、サボらせて?」
 声を潜めて告げると後輩の顔に笑顔が浮かぶ。彼女は頭を下げて「お願いします」と去って行った。パソコン業務が苦手らしい彼女は、不慣れな中でも四苦八苦しながら何とか仕事を仕上げている。若菜は後輩が席に戻る姿を確認してから廊下に出た。
 暖房の効かない廊下はとても冷えている。白い息が確認できるほどだ。壁に触れるとまるで氷のようで、よけいに冷える。
 若菜は給湯室へ急いだ。
 実は咳止め薬など持っていない。単なる口実だ。一度咳き込んでしまえば長くなることを知っているから、職場から逃げてきただけだ。
 若菜は給湯室に誰もいないことを確認して扉を閉めた。そうすれば少しは声が消せるだろう。
 ポットを棚に置くと遠慮なく咳き込む。喉がくすぐられるような苦しさに涙が出る。誰も見る者などいないだろう、と遠慮なく泣いた。
「うーわー、完全に風邪だ……」
 原因は先日の遊園地で間違いない。さらには昨夜のバレンタイン騒動が拍車をかけたのだろう。本気で体力が落ちているなと感じた若菜はうなり声を上げる。先ほど舐めた喉飴はまだ口の中に残っていたが、さっぱり効いていない気もした。蛇口をひねって水を出し、その冷たさに顔をしかめながら両手ですくって飲んだ。
 冷たい水が体の中を滑り落ちていく感覚。
 火照った体が静かに落ち着いていくのを感じて、若菜は深呼吸した。
「咳出ると熱も誘発されるから嫌なんだよな……」
 若菜はぼんやりと呟いた。
 ついで目的で持ってきたポットにお湯を注ぎ、壁に背中をつけながら唇を尖らせる。咳は落ち着いたようで、力を込めた筋肉の悲鳴に悩まされる。咳き込んだ次の日は不思議なほど腹筋がついているように感じる。
 黙ったままお湯の音を聞いていた若菜は、唐突に扉を開けられて、ビクリと体を竦ませた。
「あ、やっぱり咳止めなんて嘘だった」
「先輩」
 笑顔で入ってきたのは萩山大輝だった。彼の姿に若菜の背筋が伸びる。
 給湯室を眺める彼に「しまった」と顔をしかめたが笑われただけだった。
「ポット1つしか持ってなかったから、そんなことだろうと思ったんだ。他の子は重いからって1つずつ持ち運ぶけど、阿部さんはいつも面倒だからって、給湯室行くときには2つ持ってくもんね」
「――そんな気付き方なんですか」
「違う?」
「違いませんけど」
 釈然とせず憮然として肯定すると大輝は笑った。
 大輝は自分でも持ってきていたポットにお湯を注ぐと、若菜を振り返って顔を覗き込んだ。若菜の額に手を当て、心配そうな表情を見せる。
「ちょっと熱いね。やっぱり早退した方がいいんじゃない?」
「だ、大丈夫ですよ」
「でもほら。咳が長引きそうになるたび、ポット持って駆け込むわけにもいかないでしょう」
 若菜は言葉につまった。しかし、ただ時々咳が止まらなくなるかもしれない、というだけで早退するのは嫌だ。どう言葉を選べば大輝を説得できるのかと考えたが、答えが出る前に思考が破られた。
「あれ?」
 大輝が何かに気付いたように声を上げる。
「阿部さん、恋人がいたんだ?」
「え?」
 大輝の視線は若菜の胸元に落ちていた。
 若菜もその視線を辿り、彼が何を見ているのか悟って「ああ」と納得する。襟首から覗く恋人指輪だ。指にはめれば目立つし邪魔だ、ということで若菜はなるべく目立たぬよう鎖に通して首からかけていたのだ。
「はい。一応……」
「ふーん」
 若菜は鎖を引っ張って銀色の指輪を取り出した。
 大輝は興味深そうに手に取り、裏返し、もう一度表に直し、若菜に返す。ポットからお湯が溢れそうだと気付き、蛇口を閉めると「意外だね」と笑いながら振り返った。
「阿部さん、そういうのには興味ないのかと思ってた」
「あー。興味はないんですが、成り行きでいつの間にか」
「成り行き?」
「はい」
 大輝の声が硬く感じられた。けれど、若菜が覗くといつもの優しい声が返ってくる。
 若菜は知らず力を込めていた肩から力を抜いて、ポットを受け取った。
「政府のお見合いで会ったんですけど、それが偶然にも幼馴染で」
 普段なら当たり障りのない返答でその場を後にする若菜だが、なぜか今はそれが出来なかった。嘘をつくことも思いつかなくて正直に話してしまう。奇妙な感覚だ。内心で首を傾げながら、話しても困ることはないだろうと思い直してそのまま続ける。
「ほら。縁談免除って五千円もかかるじゃないですか。向こうは幼馴染だし、気兼ねすることもないかと思って、免除申請代わりに恋人届を出しちゃおうかってことになりまして」
 嘘ではない事実だけを告げて、若菜は明るく笑った。
「へぇ?」
 若菜につられたのか大輝にも笑顔が浮かぶ。そのことに若菜は何となく安堵した。
「確かに五千円は高いよね。俺も結構痛いよ」
「ですよね!」
 若菜は拳を握り締めて大きく頷いた。同意を得られることがこんなに嬉しいとは思わなかった。大輝は楽しげに笑う。
「法律が作られてから、結構そういう抜け穴やる奴はいるみたいだよ。恋人課の奴が笑ってた」
「え。そうなんですか?」
「うん。親友が恋人課に勤めててね。最初は凄い張り切ってたんだけど、最近はそんな抜け穴する恋人しか来なくてつまらないってぼやいてた」
「へー……」
 若菜は瞳を瞬かせた。同じことを考える人はいるのかと、仲間意識を覚えて安堵した。
「でも……恋人課に勤められるなんて凄いですね。あれって一般応募の求人倍率も凄かったって聞きましたけど……あ、それとも、もともと公務員の人ですか?」
「いやいや。それまでフリーターだったの。でも恋人課新設の募集を聞いて、目の色変えて勉強始めてさ。あれはもう執念だね」
「凄いですね。それで受かるなんて」
「うん。俺もびっくりした」
 顔を見合わせて笑った。
 若菜は再び喉が渇いてきたことに眉を寄せる。小さな咳に顔を背ける。気付いた大輝が笑顔を消して、若菜を心配そうに覗き込んだ。
「大丈夫? やっぱり早退した方がいいな、それ」
「え、いや、大丈夫ですって。熱があるのように思えるのは咳のせいですし」
 手を振ったところで若菜は盛大に咳き込む羽目になる。涙目になりながら両手で口を押さえる。苦しくてしゃがみこむと背中をさすられ、若菜は「大丈夫です」と告げようとしたが、その声は咳に埋もれた。
「ごめんね。俺が引きとめてたからかな。ここ、寒いもんね」
 声が出せない若菜は咳をしながらかぶりを振るが、伝わったのかは分からない。苦しい中で給湯室の扉が開く音を聞く。
「若菜?」
 顔を出したのは高岡美智子だった。
 彼女は、しゃがんで咳き込む若菜と、その側にしゃがんで背中をさする大輝とを見比べて眉を寄せた。
「ちょっと若菜、大丈夫なの? いつまでも帰ってこないと思ったらこんなところで」
「美智子。阿部さんはこれから早退させる」
「その方が良いみたいね」
「ちょ、そんな」
 頭上で交わされた会話に若菜は驚いた。慌てて顔を上げるも、年上2人は聞く耳持たない。そんなところも息の合う2人だ。若菜は咳のせいで強い反論も出来ず、とりあえず行動で示そうとすると美智子に怖い顔で睨まれた。
「若菜を甘やかす意味で早退、なんて言ってるんじゃないのよ。その風邪が皆に移る方が迷惑だから帰れって言ってるの。分かるわよね?」
 険しい表情で顔を近づけ、美智子は諭す。もちろん、分からない若菜ではない。そう告げられてしまえば反論もできない。悔しくて俯いたが、黙ったまま頷いた。美智子の手が優しく若菜の頭を叩く。
「よし。迷惑かけたくないって思うなら、さっさと全快して戻ってくることだね」
「……はい」
「素直でよろしい」
 若菜に向けてにっこりと微笑む美智子はどこを見ても完全なる優しいお姉さんの顔で、若菜はこっそりため息をついた。尊敬して憧れている女性だ。綺麗な笑顔に白旗を掲げた。

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