警戒心は働かず
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2.

 美智子と大輝に挟まれるような格好で職場へ戻った若菜は、2人に促されながら課長に「帰ります」と告げた。席に戻り、途中まで作成してたデータに保存をかけてパソコンを閉じる。心配する皆に笑いながら手を振って辞した。
 建物から出ると澄み渡った青空が目に入る。少し遠くに白い雪雲が浮いていた。数時間もすれば降り始めるかもしれない。
「……さすがに島田さん呼ぶのは心苦しいよなぁ……」
 彼は一日も欠かすことなく若菜の送迎をしている。いずれ体を壊すのではないかと思うほど、若菜への気遣いを忘れない。
 何かあったら直ぐに連絡を下さいと言われていた。その言葉を無視してバスで帰れば嘆くだろう。そんな様子が簡単に想像できた。しかし昼前の今、彼を呼び出すことはためらわれた。いくら島田の会社が兼業を許していても、このような時間に抜け出されれば困るだろう。そして島田を待つだけの時間を考えれば、バスで帰った方が色々と好都合に思える。
 若菜はとりあえず携帯を開いて島田の番号を探した。けれど眺めるだけで、若菜の心は決まっていた。
 冷たい風に前髪が乱れて手で直す。額に触れると微かに汗ばんでいるのが分かる。
 喉飴を舐めきった若菜は顔をしかめた。直ぐに喉が乾燥してくる。
 職場を出るとき、美智子から押し付けられたトローチを口に含んだ。子ども向けのトローチだと言われた通り、少し甘い。なぜ美智子がそんな子ども向けのトローチを持っていたのかは謎だ。
「さ、帰るか」
 若菜は未練もなく携帯を閉じた。
 コートの前襟をしっかりと合わせ、首を竦めながら歩き出した。


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 バスに揺られていると気分が悪くなっていくのが分かった。強すぎる暖房も原因している。頭の中で何かがガンガンと打ち鳴らされているような痛みを覚えていた。
 ようやくのことで自宅に辿り着いた若菜は、コートを脱ぐことも忘れて居間に倒れこむ。
「……気持ち悪い」
 こうして家に戻ると気持ちが違った。人前では決して気取られないようにと、頭とは別に体が制御していたのだろう。寝転がった途端、強い疲労に襲われる。
「あら若菜。お帰り。安西さんから手紙が届いてるわよ」
 玄関の扉が開き、由紀子が上がってきた。居間に寝転がる若菜を見て驚いたようだが、特に何を追及することもなく封筒を若菜に手渡した。
 若菜は起き上がるのも億劫で、視線だけを由紀子に巡らせる。彼女は裏庭にある畑仕事をしてきたらしい。まるで農家の従業員といった出で立ちだ。軍手には土もついている。先日は具合が悪くて寝込んだが、今の由紀子にそんな素振りは微塵もない。バレンタインの日、朝帰りする羽目になった若菜を鬱陶しいくらいの笑顔で迎え入れた。まるで若菜の体力を由紀子が吸い取ったかのようだ。
「安西さん?」
 渡された手紙を胡乱に見ながら、若菜は渋々起き上がる。
 淡い水色の封筒に、流麗な文字が綴られていた。筆使用の本格的な手紙だ。邦光ではなく紗江が書いたんだろうなと直感的に思った。
「ところで――今日は早いのね、若菜」
「気付くの遅いから。風邪で早退してきた」
 壁時計を見ながら首を傾げる由紀子を一瞥する。その声は掠れて覇気がない。若菜は置き薬のトローチを舐めながら封筒を眺め透かした。
「病院は?」
「行ってない。バス下りるのが面倒だった」
 額の汗を拭う。
 疲れが溜まっていたのか、うっかりとバスの中で眠ってしまい、気付けば目的の停留所を通り過ぎていたという次第だ。戻るのは面倒だった。買い置きの薬で何とか治そうと決意した。
 由紀子は呆れたため息をついたが何も言わない。裏庭にやり残したことがあるのか、直ぐに居間を出て行った。
 残された若菜はしばらく封筒を眺めたあとに封を切る。
「昨日の今日で……というか一昨日だけど。まさか厚志が何かしたんじゃないだろうな」
 疑心暗鬼になるのも仕方ないことだ。
 相変わらずの自己中心ぶりを発揮して結婚話を持ち出したのは一昨日のこと。怒鳴りつければ慌てて訂正した厚志だが、若菜の不信感を煽るには充分な要素だ。
 封筒には二つ折りの便箋が入っていた。手触りのいい便箋で、封筒でセット売りされていたらしい素材だった。小さな花柄が散らされているその便箋は、人柄が表れているかのようだ。
「……えっと」
 若菜は指先の感覚がないことに気付いて唇を尖らせた。汗はいつの間にか消えている。代わりに寒気がした。熱が上がっているのだと思いながらため息を吐き出す。
「参ったなぁ……」
 熱だけならば普段の鉄面皮で隠し通せる自信がある。しかし咳き込めば駄目だ。今日、大輝や美智子に見破られたのも咳があったからに他ならない。明日は何が何でも超強力な咳止めを飲んで出勤してやろうと思う。とは言え、薬局に行くつもりは皆無なのだが。
 若菜は便箋を開いた。
 封筒と同じく綺麗な文字で簡単な文章が綴られている。ただし封筒の筆書きではなく、こちらは鉛筆書きだ。古風な武家屋敷に似合いの、昔の人が使っていたと思われる文章だ。
 若菜1人で是非遊びに来て下さい、という意味合いのものが書かれている。
 読み解くのに少し苦労した。
 2枚目の便箋には最寄の停留所や道順を示した地図が書かれている。バスや電車の種類まで調べられているようだ。
 ――暖かく優しい笑顔を持った紗江と、貫禄溢れる邦光。
 彼らの前で大失敗をした若菜としてはあまり関わりたくない人たちだ。彼らも同じくそういう目で見ていると思ったが、このような招待状を送ってくるとは、それほど気にしていなかったのか。それとも、1人でという但し書きがあるため、厚志には知られぬよう忠告をするのが目的なのか。
 若菜は便箋を睨んだ。そのような姑息な手段に及ぶには見えなかった2人だが、厚志が絡むと思考がねじくれる若菜はそんなことを思う。
 痛む喉を押さえて封筒を戻し、鞄に入れた。
(そういや安西さんたちって、厚志が父親嫌いなの知ってるのかな。保護者代わりって言ってたけど)
 そのとき携帯が鳴った。
 若菜は重たい鞄を引き寄せて携帯電話を探す。そうしながら時計を見ると、お昼を回っていると気がついた。帰ってきたばかりであるのに休む暇もない。
「発信源……あれ。会社だ」
 携帯を探し当てた若菜は寝転がって出ようとしたが、目を瞠って座り直した。誰が見ている訳でもないのに居住まいを正して携帯に出る。
 意外なことに、大輝からだった。
「先輩? どうしたんですか?」
『ああ。せっかく休んでるのにゴメンね、阿部さん。俺が預けたフロッピー、どこにしまったか覚えてるかなと思って』
「え?」
 電話口からは雑多な音が入り混じって聞こえていた。賑やかな休憩時間を過ごしているようだ。そんな賑やかな音に紛れそうな大輝の声を拾い、若菜は顔をしかめた。痛みを訴える頭をひねって思い出す。
「引き出しに入ってませんでしたか?」
『開けさせて貰ったんだけどないんだ。パソコンにも入ってないし、どこか別の場所に挟まってるのかなと思って』
「あれー……一番上の引き出しにもないとなると……」
 その日に使うであろう資料やフロッピーは大抵、一番上の引き出しに入れておく。若菜は天井を仰いで声を上げる。眉を寄せて時間を遡り始めた。
 作りかけのデータを保存し、フロッピーをパソコンから抜いたのは間違いない。データ入力に利用していた書類の束の隣に置いて、その書類を元の場所に戻そうとまとめて重ねた。その時フロッピーはまだ机の上にあったはずだ。
 若菜はそのまま帰り支度する時まで思考を遡った。
「……あ」
『阿部さん?』
 聞きとがめた大輝が呼びかけるが、心当たりを見つけた若菜は聞いていない。耳から携帯を外し、慌てて鞄をまさぐる。その手に触れたのはフロッピーだった。
「……持って帰ってました……」
『え?』
「あああごめんなさい! 多分、早く帰らないと、って焦ってて、良く確認しないまま机の上の物、引き出しじゃなくて鞄に詰め込んでたみたいです!」
 そんな訳で、大切な記憶媒体はカバーも掛けられず、鞄の中で揺られていたのである。
 若菜は冷や汗をかきながら小さくなる。
 鞄には、他にも電卓やその他の資料冊子まで入っている。重くて当然だ。財布を出す時に気付かなかったのはさすが風邪、と言えよう。
 青褪めて叫んだ若菜に沈黙が返された。
『やってくれるなぁ』
 しばらく黙り込んだ後で大輝が零す。
『じゃあもしかして阿部さん、美智子から渡されたデータも持ってる?』
「も、持ってます。はい、ごめんなさい」
 若菜は鞄から取り出した三枚のフロッピーを掲げながらひたすら謝った。
 電話の向こうから大輝の大きな笑い声が聞こえた。
「あ、あのっ。直ぐ戻りますから。ごめんなさい!」
『え? いいよ、せっかく戻ったのに。また出てくるの辛いでしょう?』
「でででもっ。多分、美智子先輩は今日中の仕事があったはずで!」
『あー……そうみたいだね。美智子が睨んでる。でも、それなくても書庫の奥を引っくり返せば大元のデータはある訳で』
 大輝の声を遮って『大輝が私の代わりにかび臭い書庫を漁ってくれるって訳ね!』と憤然とする美智子の声が聞こえてきた。大輝の苦笑も聞こえたが、若菜はもう立ち上がって鞄を引っつかみ、外へと飛び出す勢いだ。
「直ぐ戻りますから!」
『あ、待って待って』
 携帯を切りかけていた若菜は不安に眉を寄せる。
「まだ何か、ミスしてましたか……?」
 風邪の時は思ってもみないミスをやらかしてしまうらしい。こんなことならもっと早く早退するんだった、と若菜は自己嫌悪に陥りながら訊ねた。
 大輝の吹き出す声が響いてくる。
「先輩……」
『あ、ごめん。いや、大丈夫。後は平気だと思うよ』
 堪えきれないのか、大輝の声は震えている。それを繕うように声を重ねた。
『阿部さん、今からバスで会社に戻るつもりだろう? それなら俺が取りに行こうかと思って』
「え?」
『休憩時間はまだあるし、少しくらい遅れても課長は事情を汲んでくれるよ』
「で、でも!」
『バスよりも車の方が早いと思うよ? ほら、美智子がまだ睨んでるしさ』
 ありがたいが非常に心苦しい申し出だ。けれど、駄目押しのように付け足された若菜は、迷いながらも頷いた。
「そ、それじゃあ、あの、ごめんなさい。お願いしてもいいですか?」
『もちろん。今から行くから、待ってて?』
「はい。よろしくお願い――って、私の家、知ってましたっけ?」
『大丈夫だよ。住所は課長に聞けば分かるし、カーナビもついてるからね』
 任せて、と頼もしく告げる大輝だが若菜は再び迷った。
『もう決定だよ。じゃあ、また後でね。阿部さん』
 若菜が反論する間もなく通話は切れた。切れた途端に若菜は脱力する。
「だ、駄目じゃん私……。足引っ張ってるよ、絶対」
 仕事上、褒め言葉も沢山貰うのだが、それらはどれもコチラを思いやっての嘘なのじゃないかと疑ってしまう。叱られもしないというのは少々心苦しい。
 若菜は携帯を握り締めながらそのまま床に倒れてうなり声を上げ、そのまましばらくむせた。

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