警戒心は働かず
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3.

 住所とカーナビだけで辿り着くのはさすがに難しいだろう。
 若菜は大輝との電話が終わって5分ほどした頃、しっかりとコートを羽織って外にいた。雪雲は会社にいた頃よりも大きく育って空一面を覆っている。夜には荒れるだろうかと、若菜は鼻の頭を赤くしながら思った。
 大輝の車は20分ほどでやってきた。
 コマーシャルなどで良く見かける大手企業の人気車だ。車体が少し丸いその車は女性にも人気が高いという。
 すっかりと冷えた体を抱えながら、若菜は両手を挙げて大輝の車を呼び止めた。
「はい、確かに受け取りました」
 若菜から三枚のフロッピーその他諸々を受け取った大輝は、そう言いながら笑った。
「わざわざごめんなさい。次からは絶対気をつけます」
 猛反省中だ。若菜は深々と頭を下げた。
 大輝は若菜のそんな様子に笑い声を上げる。彼にとってはどんな些細なことも笑いの種になるらしい。
 若菜は落ち込むように視線を落とした。
「誰にでも失敗はあるよ。今回はデータも無事だし、俺がフォローするし、そんなに落ち込まないで」
「……はい」
「もしデータが破損してても現物は書庫にあるんだから。取り返しがつかないことはないよ。まぁ、データが破損してた場合は責任とって入力し直して貰うけど」
「もちろんです!」
「うん。その意気があれば大丈夫」
 大輝は励ますように、若菜の頭をポンポンと軽く叩いた。そんな励ましに若菜は苦い笑みを零す。
「本当、ご迷惑おかけしました」
 もう一度だけ頭を下げて本当の笑みを見せる。大輝も頷きながら笑みを返す。
 安堵して緊張が緩んだのか、それまで落ち着いていた若菜は思い切り咳をした。コートを羽織ってはいたが、外気は酷く冷たい。鼻も耳も真っ赤で感覚がなくなっている。
 咳き込んだ若菜を見た大輝は眉を寄せた。
「もしかして阿部さん。ずっと外で待ってたとか言わないよね?」
 まさか若菜は「その通りです」とは言えずに視線を逸らせた。まだ咳が続いていたのでいい具合に逸らせた。
「……冷え切ってるんだけど」
 大輝は両肩をつかんで険しい表情のまま呟く。
「えっと……つい」
 若菜が歯切れ悪く返すと盛大な溜息が聞こえた。
「何やってるんだよ」
 そんなぼやき声が頭上で聞こえ、若菜は小さくなるしかない。
「病院は? 行っただろうね?」
「は、はい」
 さすがにこの流れで「寝過ごして行ってません」とは言える訳もなく、若菜は反射的に嘘をついた。その後で「しまった」と顔をしかめたが、ついてしまった物は仕方がない。つき通すことにして顔を上げる。目の前にあったのは大輝の険しい顔だった。
 若菜の背中に冷や汗が流れる。
 と、車の中から携帯の着信音が流れ始めた。
 若菜は大輝の呪縛から逃れられて安堵の息をつく。
「会社からかな。そろそろ休憩時間が終わるから……美智子からかも」
「取らなくていいんですか?」
 車を振り返りながらも動こうとしない大輝に恐る恐る訊ねたが、大輝は何でもないように「うん」と頷いた。
 大輝へ向ける印象が僅かに変わった気がした。
 携帯は直ぐに切れてしまう。
「また掛かってくるよ。じゃあ阿部さん。しっかり薬飲んでから寝るんだよ?」
「はい!」
 ついた嘘がばれない内に、と若菜は笑顔で大輝を見送ろうとした。
「あら? 若菜。どちら様?」
 若菜の笑顔が固まる。最も会わせたくなかった人物が裏庭から顔を出す。若菜は舌打ちを堪えながら視線だけで由紀子を振り返った。
 案の定、車に戻ろうとした大輝が戻ってくる。
「あ……仕事でお世話になってる先輩で、萩山大輝さん」
 若菜はぎこちない笑みで大輝を紹介した。
 頼むから余計なことは言うなよと視線で由紀子を威嚇するが、彼女は気付かず大輝に近づいた。土で汚れた軍手はさすがに脱ぐ。
 大輝が笑顔で挨拶した。
「初めまして」
「まぁ。いつも娘がお世話になっています」
「こちらこそ。阿部さんにはいつも助けられていますよ」
「あら」
 どうやら大輝は由紀子に気に入られたらしい。由紀子は頬を染めて大輝を見つめる。
 若菜は胃が痛くなりそうだと思いながら、その場に合わせて笑顔を作る。その裏でひたすら由紀子を睨み続ける。そんな若菜を知ってか知らずか、由紀子は更に会話を続ける。
「今日はどうしてわざわざ? 若菜が早退したからかしら?」
「じゃなくて。そんなことで来て何するって言うのよ。そうじゃなくて、私が帰る時、ボーっとしてて会社のデータ持って帰ってたんだよ。だから、わざわざ取りに来てくれたの」
 説明するのも面倒でぶっきらぼうに告げると由紀子が目を丸くした。
「まぁ。ごめんなさいね、萩原さん」
「萩山です」
 爽やかに訂正が入った。
 由紀子は慌てながらも心底悪いとは思っていないような笑顔で大輝に謝る。
 若菜の胃がキリキリと痛みを訴える。
「もう。若菜ってば本当にどこか抜けてるんだから」
(それはお前だ)
 若菜は胸中だけでツッコミを返した。
「ほら。先輩、わざわざ会社抜けて来てくれたんだから、引き止めないでよ」
 前に出ようとした由紀子を慌てて止めながら若菜は胸中で悲痛な声を上げる。そんな苦労は、由紀子は露ほども知らないだろうと涙まで零す。
 けれど大輝には何か通じるものがあったらしく、苦笑しながら若菜の頭を撫でた。
「じゃあ俺は戻るよ。またね」
「はい」
「これからも若菜をお願いしますね、萩山さん」
 今度は由紀子も間違わない。まるで嫁に出すような台詞を吐きながら頭を下げる。何事もなく終えることが出来て、若菜も安堵しながら大輝に手を振る。
 大輝が車に乗り込もうとした所で由紀子は「そうだ」と手を打った。
 若菜の体が震えたのは安堵した反動か。今度こそ若菜の不安は的中する。
「若菜。風邪薬の買い置きはもうないんだから、薬局行って買って来なさいね。せっかく萩山さんがいらして下さったんだから、早く治さないと」
「だ!」
「え?」
 大輝が扉を閉める間際の台詞だった。どこまでもタイミング良い由紀子に、若菜は本気で涙が出かけた。
 案の定、大輝は閉めようとした扉を開ける。
「阿部さん。薬局って、病院の薬は?」
「そ、それは、その」
「もうこの子ったら本当に抜けてて。バスから下りるの面倒だった、とは言ってましたけど、絶対に忘れてたんですよ」
「お母さん!」
 若菜の声は悲鳴だった。由紀子は不思議そうに首を傾げて若菜を見る。大輝の視線も冷たく若菜に注がれる。
 若菜は冷や汗を流しながら彼の爪先を見つめた。
「病院。つまり行ってないの?」
「えっと」
 大輝の爪先が近づく。若菜はうまい言い訳も思いつかずにただ黙る。
 由紀子が異変に気付いたのかようやく黙ったがもう遅い。車を降りた大輝は助手席の扉を開けると若菜を招いた。
「なら俺が来て丁度良かったね、阿部さん。戻るついでに病院まで送って行くよ」
 若菜は硬直したまま素直に従った。

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