警戒心は働かず
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4.

「何で直ぐ分かるような嘘つくかなぁ」
「いえ、嘘というか、勢いのまま頷いたら嘘になったというか」
 結果的には同じことだが若菜は一応弁解した。コートを着込み、鞄を握り締めて、いつもより更に小さく若菜は助手席にいる。大輝は仏頂面のままぼやいていたが、若菜の様子に苦笑を向けた。
「そんなに硬くならなくても平気だよ。怒ってるけど、少しだけだし」
 ――それは安心してもいい類のものなのだろうか。
 若菜は体を強張らせたままあいまいに頷いた。
「いつも通ってる病院って、街中ので良いのかな?」
 若菜は弾かれたように頭を上げる。拍子に頭の奥が刺されたように痛んだが、何とか平静を装って我慢した。
「はい。そこでお願いします」
「うん、分かった」
 大輝は何も気付かない。笑って頷いたあと、数秒の間をあけて再び若菜に視線を向けた。
「それって、俺の負担を軽くするようにしてその病院が良いって言ってるの? それとも本当に、阿部さんが元から行こうと思ってた病院だから良いって言ってるの?」
 若菜は瞳を丸くして大輝を見た。まさかそんなことを聞かれるとは思わなかった。
 若菜を見る大輝の瞳は真剣だ。いつも穏やかに微笑んでいる表情しか覚えのない若菜はさらに驚く。助手席、という近い場所に座っているせいか、落ち着かない気分にさせられる。普段、他人の車に乗る時は意識して後部座席に乗るようにしていたため、このような落ち着きのなさは久々で居心地が悪い。
「阿部さんって滅多に前に出ようとしないからさ。本当にそれが良いのか、こっちの負担考えて妥協してるのか、分かんないんだよ」
 若菜は視線を逸らした。
(それは慣れてない人のみで、厚志になんかは遠慮なく暴言吐きまくりなんですが)
 吐き出されるのは胸中のみで、伝わるはずもない。伝わっても困る。
「確かに仕事時間には少し遅れるだろうけど、元々そのつもりで出てきたし、課長にも断ってあるから、阿部さんが負担に思うことはないよ」
(でも元は私がデータ持ち帰ったことが原因ですし。断ってあるからと言って、それは戻る時間を遅くしても良いってことじゃなくて)
 大輝に見つめられたまま、若菜は葛藤するように反論を巡らせて苦渋する。なぜこんな展開になってしまったのか恨みたいが、やはり根源は自分のミスであるので恨めない。
 若菜はしばし逡巡して絞り出した。
「――先輩が言った病院にも診察券があるので用は足りますけど、そこから少し裏通りに出た耳鼻科がいつも通ってる病院です。そっちだと喉も専門に診てくれるので嬉しいです――けど、どうしてもと言う訳じゃありません」
「了解」
 大輝は小さく笑ってハンドルを回した。若菜がいつも通う病院へと向かう道だ。
 若菜は視線を落とした。
 言ってしまえば必ず若菜に有利なように働くのだと分かっているから言わないのに。こちらの負担を減らそうとするのは有難いが、逆に心への負担が増える。双方共に負担を掛けないようにするにはどうしたらいいのだろうかと思ったが、答えは見つからない。厚志に向けるような感情で大輝に接することなど出来ないから、これからもきっと見つからないのだろう。
「そう言えばその指輪、この前の親睦会ではなかったよね」
「え、あ、そうですね」
 突然話題を変えられた若菜は驚いたが、それまでの暗い雰囲気を飛ばす明るい声に、若菜は乗ることにした。これが大輝の心遣いならば素直に乗るのが一番いい。
「あの時、ちょうど幼馴染が迎えに来てくれたんですよ。凄い偶然でびっくりしたんですけど……その時に渡されたんです」
「ああ。阿部さんが酔ってたあの日か……」
「はい。酔ってた日ですね」
 若菜は何も考えずただ頷いた。タクシーを使わず帰ろうとしたことは綺麗に省く。これ以上大輝を怒らせたくないと思ったためだが、既に大輝からは不機嫌そうな雰囲気が漂ってきていて戸惑った。何か不味いことを言っただろうかと思考を巻き戻すが、どこも不味い部分は見られない。繕うように明るく声を上げる。
「でも政府って凄いですよね。恋人届け出しただけで全員に指輪プレゼントするなんて」
「まぁ少子化だからね。そこにでも回さないと予算が減らされるんじゃない?」
「ああ、なるほど……」
 まったく考えなかった政府の裏事情に若菜はうなる。しかしやはり、そこへ回すなら現金を自分に回して欲しいと思ってしまう。そう思ったことは隠し、若菜は「そこまで考えてなかったです」と頬をかいて、首から提げている指輪を手にした。
「結婚したら優遇されて、子どもを産んだらもっと優遇されて。何だか、結婚も子どもも望めない女性に対しては風当たりが強くなりそうです」
「うん。そうだろうね」
 十数年前に比べて医学も格段に進歩しているため、病的な意味で産めない女性に対してはまだ望みがある。しかし若菜のように独身を貫きたいと願う女性に対しては辛い世の中になるのだろう。年齢的に結婚ムードに包まれることはあるかもしれないが、このように国全体で結婚ムードに包まれてしまうと抵抗がある。元々天邪鬼な若菜だ。皆がその気なら自分は反対の道を進んでやると、意識せずとも徹底抗戦の気構えが出来てしまう。
「知ってる? 阿部さん。いま上の方で、新しい少子化対策の法案が出てるんだ」
「またですか」
「うん。今回のは更に凄いよ。20歳から35歳まで、まだ1人も子どもを産んでいない夫婦には休暇が与えられるんだって。その人たちが抜けた穴は、まだ働ける団塊世代の人たちを再雇用して就職問題も解決する。これが適用された夫婦には国から援助が出て、休暇中の給料も支払われるんだ。その分団塊世代の人たちの取り分が減ってしまうけど、産んだ子どもに養って貰うのが一般的になるみたい」
「え、え、でも、それって子どもがいない団塊世代の人たちとか、独身の人って」
 更に言えば、20歳から35歳まで、一度も仕事をしていない者たちが職場復帰しても使い物になるのかどうか、激しく疑問である。
「確実に不利だね。さすがにこれは廃案になるんじゃないかな。無茶苦茶だし」
「なって貰わないと困ります」
 むしろ自分で国会に乗り込み廃案にしてやろうかと思う。
 頬を膨らませた若菜に笑い、大輝は「そうだね」と同意を返した。
「でも阿部さんは心配ないんじゃない? ほら。その指輪の人。恋人」
「はい?」
「恋人課に勤めてる奴から聞いたんだけど、偽恋人として登録した人たちの中から実際に結婚に至る恋人たちは多いらしいよ」
 何を言われているのか分かった。若菜は瞬時に紅潮した。厚志の「結婚してくれ」発言までもが蘇り、動揺しているのが丸分かりであるが思い切りかぶりを振った。
「冗談じゃないですよ。いくら情が移るかもしれないとは言え、好きでもない奴と結婚する気は私にはありません」
「うん。偽恋人から結婚に至った人たちも最初はそう思ってたんじゃないのかなぁ」
「私は違います! 絶対結婚なんてしません! 私にとってあいつは敵なんです」
 若菜は喉の痛みも忘れて叫んでいた。
「敵?」
「はい! 私にとってあいつは世界で一番大っ嫌いな奴なんですから!」
 必死に訴える必要はない。けれど脳裏に浮かんだ厚志は憎らしく、若菜は怒りをぶつけるように勢いをつけて身を乗り出していた。大輝にではなく自分に言い聞かせたのかもしれない。嫌いとは言え、長く付き合っていれば情に流されることもあるのだと。
 若菜は、当初の大嫌いだった気持ちを思い出せ、と強く念じた。
 大輝はしばらくそんな若菜を見つめていたが、やがて堪えきれないように笑い出した。
「阿部さんって楽しいよね」
「はい?」
 この流れでなぜそういう言葉が出てくるのか、若菜は眉を上げた。
「一緒にいると絶対に退屈しない気がするよ」
 褒め言葉だろうか、と若菜は複雑にうなった。褒めていると見せかけて変だと言っているのかもしれない、とひねくれてみたが大輝を全面的に信用している若菜は、彼が言うなら褒め言葉だろうと思い直す。
 若菜は大輝の横顔をジッと見つめた。
「いいね。阿部さんの隣を確保してるその恋人は」
「いえ。ですから、先輩……それは絶対に誤解です……」
 脱力して力なく訴えた頃、目指す病院に到達した。途中から目的を忘れていた若菜は苦い顔をしたが、大輝には笑われただけだった。
「じゃあね、阿部さん。ちゃんと療養するんだよ。今度は嘘なしで」
「……はい。それはもう、しっかりと」
 助手席を下りてしみじみ呟く若菜に笑いが投げられる。実は大輝は笑い上戸なんじゃないだろうかと思いながら彼を見つめた。何かにつけて笑われている気がする。
「じゃ、またね」
「今日はありがとうございました」
「いつでも。お安い御用だよ」
 大輝は軽く手を振って走り去った。
 残された若菜は病院の看板を見上げ、肩を落としてため息をつくのだった。


END
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