繋がれる過去
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1.

 ここで遭難したら誰か心配する人はいるんだろうか。
 若菜は、自分にしてはあり得ないほど弱気な思いを巡らせて笑みを洩らした。すべてにおいてどうでもいい、投げやりな気分だ。
「ってかさー。さっきまで快晴だったくせにバス下りた途端に吹雪ってどうなのよ」
 若菜は空を見上げる。
 白く重く育った雪雲が、堪えきれないように切片を舞わせている。乱暴な雪風が攫って吹き付ける。
 若菜は頭の上に雪を僅か積もらせながらため息をついた。
 私は傘も持ってないのよお天道様。
 芝居染みた台詞を胸中で呟き、唇を引き結ぶ。口を開けば冷たい塊が詰め込まれるだけだ。
 会社を早退し、大輝に病院まで送ってもらった若菜は、その足で遠出をしていた。
 病院にはもちろん行った。大輝にあのような迷惑を掛けて送ってもらった病院に背中を向けるほど強情には出来ていない。
 インフルエンザが流行っていると聞いていた通り、待合室は結構な患者数で混みあっていた。辟易した若菜だが気持ちの悪さを我慢して診察を受け、インフルエンザ反応は出ていないという医師の言葉を貰い、明日は胸を張って会社に行けるぞと安心をする。熱があることなどお構いなしだ。
 そうして薬を貰い、外へ出た途端、若菜は思い出した。
 安西紗江からの手紙だ。
 腕時計を確認すると昼を回っていた。昼食を終えたサラリーマンたちが若菜を通り過ぎていく。薬局から出た通りで佇みながら、鞄に入れていた封筒を取り出した。
 時間はある。いつも厚志が側にいるため、1人で行ける機会など今しかないだろう。インフルエンザでもなかった。咳止めも処方して貰った。それに天気は快晴だ。チャンスだ。
 若菜は迷うことなく電車に飛び乗った。
 そして――猛吹雪に遭遇した。
「詐欺。馬鹿。田舎っ。嘘つきっ。誰もいねぇーーっ!」
 若菜の叫びは吹雪に消されて誰にも届かない。電車とバスを乗り継いで辿り着いたそこは、本当に何もない広い土地だった。
 厚志と共に来たときは車だったため現在歩く道に覚えはない。ルートが違うのだ。頼りになるのは紗江から送られた地図だけで、若菜は何度も読み返して確認した。
 バスから降りた若菜は、外が吹雪となっていることに気付いて休憩所に入った。しかし傾いた休憩所だ。扉もないため風が容赦なく吹き込んでいる。雪が入り込み、生き埋めは確実と思える。
「やばい。早く安西さんとこ行かないと。私はしもやけ確実だ」
 果たしてそれだけで済めばよいが、若菜はそう呟いた。コートの襟を合わせて休憩所から出る。今日は早退したとバスの中で島田に告げた時、安西家からの送迎をキャンセルしてしまったことを今更ながらに悔やんだ。
 過ぎたことは仕方ない。
 若菜は数メートル先も見えない白い吹雪の中、遭難してたまるかとばかりに全神経を張り詰めて歩き出した。


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 辿り着けたのは奇蹟に思えた。延々と続く白壁と竹林を発見した時は、自分の幸運さに感謝した。しかし玄関まで果てなく遠いことに気付いて不運に嘆いた。
 ようやく辿り着いた若菜は震える手でインターホンを押し、向こう側から聞こえた優しい声に涙ぐんだ。遭難者になったようだ。涙ぐんだ先から涙が凍り付いていくほどの、凄まじい冷気。
 飛び出してきた紗江は驚いた様子だった。若菜は寒さに強張る唇を何とか笑みの形にして頭を下げた。
「突然すいません。届いた手紙には1人で、と書いてありましたので……都合のいい日は今日しかなかったんです」
 着物姿の紗江はしばらく放心したように若菜を見つめていた。上着も羽織らず、寒くないのだろうか。それほど今回の訪問に驚いたということか。
 若菜が咳をすると、紗江はようやく我に返った。慌てて門の中へと招き入れる。
 誰かが雪かきでもしていたのか、門から玄関までは歩きやすかった。外は膝まで埋まり、まともに歩ける現状ではなかったので、雲泥の差だ。門から玄関までの途中には職人技らしい雪だるままでも設置されていた。
「こんな雪の日にわざわざ……」
「あ……突然、本当にすいません」
 紗江の声に忌々しい響きはない。けれど若菜は慌てて頭を下げる。
「いいえ、違うのよ。まさか若菜さんがここまで律儀だとは思わなくて」
 玄関前で雪を払いながらの言葉に、若菜は眉を寄せた。良い方向に解釈してもいいのか分かりかねる。紗江という人物がいまいちつかめずに首を傾げる。
「こちらこそ無理を言ってごめんなさいね。寒かったでしょう」
「ええ、まぁ……。向こうを出るときは快晴でしたから」
「まぁ、そうなの? こちらでは朝からずっと雪でしたよ。それは驚かれたでしょうね」
 向けられた微笑みは温かなものだった。若菜も綻ぶようにして笑みを返し、出てきたお手伝いさんらしき女性にコートを預けた。
 やはり屋敷の中は暖かい。
 コートの襟で隠されていた頬が熱を帯びている。コートを脱ぐと冷やされたが、反発するように強い熱が顔全体を覆った。
 視界が揺れる。
「若菜さんは眼鏡でしたのね」
「そうですね。前に来た時はコンタクトで……」
「まぁ。そうでしたの」
 前はコンタクトで来たのだと思い出した若菜は、一瞬「不味いかな」と厚志を思い浮かべた。しかし直ぐにどうでもいいと思い直す。厚志の行動に何の意味があるのか、考えるのが馬鹿らしくなった。
 紗江が楽しそうに笑う。
「直ぐにお茶を出します。どうぞ温まっていて下さいね」
「ありがとうございます」
 板張りの廊下を見つめていた若菜は顔を上げた。足元がフワフワとしておぼつかない気がしたが、帰るまで紗江に心配をかけてはいけないと、敢えて笑顔を作った。
 紗江に案内されるまま部屋に通される。先日と同じ部屋だ。今回は厚志も邦光もいないため、畳張りの部屋はとても閑散として見えた。
 振り返ると雪に埋もれた庭園が見える。風もない今は音もない。
 ひどく――切なくなった。
「邦光さんは、今日は……?」
「あの人は今日はお出かけ。引退したっていうのに頼りにされちゃって、時々こうして行ってしまうのよ。仕方ないなぁって言いながら。それでも嬉しそうな顔をしながら出て行くものだから、私も呆れて何も言えなくなってしまって」
「そうですか……」
「ふふ。最近はお手伝いさんもなかなかいなくて、1人でいるのが多いのよ。今日ももう帰ると言うし……若菜さんが来てくれて嬉しいわ。あの人もそろそろ戻るから、ゆっくりしていってね」
 そう告げると紗江は部屋を出て行った。
 少し経つと、遠くからお茶の用意をする音が聞こえてくる。
 若菜は庭園をただ眺めていた。積もる雪は深い。
 喉の痛みが少しだけ強くなった気がした。

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