繋がれる過去
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2.

 待たせては悪いと思っているのか、廊下を早足で近づいてくる音がする。
 若菜がゆっくりと顔を上げると障子が開かれる。紗江が笑顔を見せた。
「お待たせしました」
「いえ」
 若菜はかぶりを振って笑顔を返したが、その瞬間、笑顔が固まった。盆を持った紗江が、敷居につまづいて、危うく転びかけたのだ。若菜は腰を浮かしかけたが紗江は何とか持ちこたえる。何でもないと悟ると脱力し、若菜は安堵のため息をついた。もし紗江が持ちこたえられなかったら、若菜は熱いお茶を頭から浴びるか、紗江の体を全身で受け止める羽目になっていただろう。
「大丈夫ですか……?」
「ご、ごめんなさいね若菜さん。私、焦ってしまうとどうしても失敗してしまって――きゃあ!」
 持ち直した紗江は、言い訳のように笑って歩いて戸棚に激突した。まるでお約束のような女性である。その拍子にお茶が零れようとする。
 若菜は素早く立ち上がった。
 お盆の上で茶碗が大きく跳ねる。腕を伸ばした若菜は、紗江が持つお盆を下から持ち上げて茶碗の底にくっ付けるようにする。そのままでは斜めになったお盆から茶碗が零れてしまうので、茶碗が落下する速度に合わせてお盆の位置も静かに下げた。バランスを取ってお盆を安定させる。揺れたお茶も、その安定を受けて波を静める。
 若菜は大きなため息をついた。紗江は目を丸くして若菜を見つめる。
「凄いわ若菜さん。まるで曲芸士みたい!」
「きょ、曲芸士ですか」
 拍手して顔を輝かせる紗江に、若菜は苦笑いを浮かべた。褒め言葉なのだろうが複雑だ。紗江の代わりにお茶碗を並べ終えると直ぐに疲労が襲ってきた。若菜は崩れるようにその場に座り込む。
「助かったわ。ありがとう、若菜さん」
「いえ。慣れていますので」
 何しろ昔は毎日の様に由紀子が繰り返していた。側にいた若菜は必然的に慣らされた特技だ。
 笑みを返した若菜は、その裏で「やばい」と思った。熱が上がっている気がする。やはり病院からそのまま家へ戻れば良かった。
 既に後の祭りである。予想外の大雪が体調悪化に拍車をかけたらしい。悪寒が身を包み、鳥肌が立っている。
「あの、それで、手紙に書いてあったことなんですが」
 早く用事を済ませて帰らなければ、体調はこのまま悪化し続けるだろう。
 若菜は身を乗り出して話を進めた。
 人前では体自身が平常を装うのだが、自宅へ戻った途端に、それまでの皺寄せが倍になって降りかかるという難儀な体質だ。喋るたびに喉の痛みが強くなる。出されたお茶を飲みたいが、猫舌の若菜はそれを飲めない。仕方なく唾を飲み込んだら頭痛に変わる。
 紗江は若菜の言葉に「そうね」と思い出したようだ。
 厚志がいない所で嫌味を言われるのではないかと覚悟していた若菜は、紗江の様子に拍子抜けした。彼女からはとても意地悪な雰囲気を感じ取れない。裏のない笑顔に、警戒しているのが馬鹿らしく思えてくる。
「服をね。若菜さんに譲りたいと思っていたの」
「服……ですか?」
 紗江は隣部屋へ続く襖を開けて、無言で頷いた。
「サイズは合うと思うわ。着て下されば嬉しいのですが、少し……前の服ですから、流行とは無縁になってしまうのよ」
「あ、いえ、そういうことは気にしませんので」
「そう? 良かったわ」
 紗江は安堵したように肩から力を抜いた。そのまま隣部屋の奥へと消え、襖が閉められる。若菜は追いかけようかと迷ったが、そのまま待つことにした。
 体全体が発熱しているように感じた。少しでも動くと頭が大きく傾く。まるで酔っているように視界が揺れて定まらない。頬に手を当てると熱い。
 この分では顔も真っ赤になっているだろうかと思ったが、紗江が気付かない訳はないので、外見は平常を保っているのだろうと肩を竦めた。厄介だが便利な体質だ。この分なら熱は40度に達していないだろう。
 そんなことを思いながらテーブルに手をついた。手の平から気持ち良い冷たさが伝わってくる。
 紗江は本当に服を渡すためだけに“一人で”という条件をつけたのだろうか。有難いことだが、何となく納得がいかない理由ではある。
 そのとき、小さなダンボールを抱えた紗江が襖を開けた。
「量があるから、何回かに分けて運ぶといいわね」
 顔を上げた若菜は「あ」と声を上げようとしたが出来なかった。
 立ち上がろうとして世界が回る。踏みしめていた畳がなくなった。変だなと思った直後に、近づいてくる畳が見えた。
 倒れたのだ。
 そのことに気付いた瞬間、倒れた際の衝撃が頭に響く。若菜は息もできぬほど強く悲鳴を押し殺し、瞼を硬く閉じて涙を堪える。
 倒れた若菜の頭上で重たい物が畳に落ちる音がした。
「若菜さん?」
 紗江の声だ。若菜は聞こえていたが、顔を上げることが出来なかった。
 倒れる直前に見た、ダンボールを持っていた紗江の姿を思い出す。
 やはり今日は来るべきではなかったのだ、と強い後悔が胸を占める。
「若菜さん!」
 近くに膝をつく紗江の気配。悲鳴のような声は若菜の脳髄を強打して意識が飛ぶ。頼むから騒がないでくれ、と懇願する若菜の思いは紗江に伝わらない。それでも、肩に手を掛けるだけで揺すろうとはしないことに感謝した。これで体を揺すられたら更にひどいことになるだろう。
「若菜さんっ。若菜さん、どうしたの!?」
 応えたくても応えられない。ここまで悪化していたのかと、瞼を閉じたまま痛感する。目尻から涙が伝うのが分かる。負荷がかかった喉が激しい痛みを訴える。咳が出ないことは幸いだ。
「あの」
 痛みの衝動をやり過ごした若菜は、掠れた声で応えようとした。
 次の瞬間、愕然とした。
 紗江が慟哭するかのように悲鳴を上げたのだ。その悲鳴に含まれた痛みに、若菜は双眸を瞠った。紗江の声が頭を打って顔をしかめる。何事かと思った。
 遠くで玄関が開く音がする。邦光の声が聞こえた。
「貴方……邦光!」
 紗江は勢い良く立ち上がると若菜の側を離れた。邦光の元へ走っていく。
 若菜はその音を耳にしながら何とか上体を起こした。
 近くには、落とされたダンボールから服が零れていた。その服からは古臭さを感じない。由紀子や親戚から貰った服は明らかに時代が違うと思われる雰囲気があったが、ダンボールの中に入っているのは全て、若菜が着ても違和感を感じさせない物だった。近くの量販店へ行けば普通に飾られていそうな物ばかりだ。
 紗江が若い時に来ていた服を渡されるのだと思っていたが、違うのだろうか。
 若菜は首を傾げた。
 玄関で喚くような声が上がった。
 服に気を取られていた若菜は立ち上がる。大事になってしまったなと顔をしかめ、荒い呼吸を繰り返しながら廊下へ向かう。倒れた直後よりは体の自由が利くようだ。壁や棚に縋るようにして廊下へ出た。
 温度差が体を包む。
 玄関で、困惑する邦光と、彼に縋って泣き崩れる紗江を見た。
 若菜はその光景に強烈な違和感を感じて立ち尽くした。気付いた邦光が若菜を見て、驚いたように瞳を丸くする。
「あの……ごめんなさい。お邪魔してます」
 涙を浮かべて声の掠れと痛みを押して、他に言うべきことはないのか。
 若菜はそんな自分に呆れたが、他に何を言うべきなのか分からない。その場に座り込んだ。
「若菜さんっ?」
 邦光が慌てたように叫んだが、泣き崩れている紗江を脇に寄せて駆け寄ることができない。騒ぎに気付いて出てきた手伝いの者が若菜に向かった。
 瞼を閉ざすと暗闇が脳裏を包む。何も考えなくて済む。
 そういえばインフルエンザは発症して直ぐだと検査に引っ掛からないのだ。
 若菜は思い出しながら苦く笑い、ずるりと廊下に倒れた。

 
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