繋がれる過去
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3.

「私のせいなのよ! 私が無理を言ったから、若菜さんは……!」
「紗江」
「どうしましょう。若菜さんがこのまま……」
「大丈夫だよ。大丈夫」
「日華里だって、そう言って死んでしまったではないの!」
 温和な顔を悲しみに歪めて、紗江は泣き崩れる。邦光は困ったように紗江を抱き締めて、否定されてもひたすら告げ続ける。何の根拠もない「大丈夫だよ」という言葉を。
 二人の姿が、瞼を閉じていても浮かんでくる。
 若菜は二人の声を聞きながら腕を伸ばそうとした。邦光さんの言う通り、私は本当に大丈夫だからと、紗江を説得したかった。彼らを悲しませているのが他ならぬ自分であるということに、ひどく胸が痛んだ。嗚咽と涙が込み上げてくる。
「……あ、つし?」
 若菜は熱い息を吐きながら瞼を開けた。
 目の前に大きな影がある。テーブルに頬杖をつき、眉を寄せて瞼を閉じている。庭園からの逆光を受けて影に沈むその顔が厚志に思えて、若菜は瞳を細めた。もっと良く見たいが、視界がぼやけてしまう。なぜだろうと思った所で、眼鏡をしていないからだと思い至る。
 不意に動悸が激しくなった。
 呼んだ若菜の声は掠れて小さかった。けれど厚志は直ぐに瞼を開ける。不機嫌そうな表情はきっと間違いではない。
「この馬鹿」
 開口一番、怒られた。
「……そうかも」
 若菜は反論できなくて同意した。
 目覚めを促した声の主たちを捜したが、視界に入る場所にはいなかった。紗江の泣き声だけが相変わらず響いている。どこからなのかと探し、それが隣部屋から聞こえて来るものなのだとようやく気付いた。頭上の襖は閉められている。
「熱は」
「さっきよりいいかも」
 若菜は最初に通された部屋に横たえられていた。布団の用意までしてあり、若菜は肩までしっかりと温められている。その布団を口まで引き上げようとして違和感に気付いた。右手に微かな痛みがある。
 気付いて視線を下げると点滴の針が刺さっていた。管を辿っていくと、布団を挟んで厚志の反対側に点滴の袋が提げられている。
「うわー。私、本格的に病人じゃん」
「まだ言うか」
 掠れた声で虚勢を張る若菜に呆れた声が響いた。若菜は静かに笑う。あまり動くと痛みが体に響くので、ままならない。迷惑ばかりかけているなと思っていると厚志のため息が聞こえた。そちらに視線を移すと、厚志が側に近寄ってくる。
 若菜の額に厚志の手が置かれた。その手の冷たさに、若菜は目を見開く。自分の熱が高いためにそう思えるだけなのか。
「何?」
 自分が熱を出していて良かった、と若菜は思った。これならば自分が顔を赤くしても熱のせいだと勘違いされるだろう。
 そんな若菜の胸中は知らず、厚志は重く声を響かせた。
「……よりによって安西さんたちの前で倒れやがって」
 その言葉に若菜は眉を寄せた。紗江のすすり泣きはまだ続いている。
 厚志は声量を抑え、険しい表情を若菜に近づけた。
「安西さんたちは一人娘を亡くしてるんだ。病気で」
「日華里、さん?」
 起きて一番最初に聞いた名前だ。
 訊ねると厚志は頷いた。その瞳が辛そうに思えるのは若菜の気のせいだろうか。
「私と同じくらいの年だったの?」
「……いや。30代半ば。結婚してた。実家にはしょっちゅう戻って来てたみたいだな。だから、病気で倒れた時は2人とも凄い焦燥ぶりだった。倒れてから死ぬまで、あっと言う間だったし」
 日華里が亡くなった時、厚志も側にいたのだろうか。口調はどこか苦々しく、その瞳は思い出すように細められている。
 若菜は、紗江がくれると言った服を思い出した。あの服は紗江が着ていた物ではなく、日華里という娘が着ていた物なのだろう。忘れ形見として取ってあったに違いない。
「亡くなってから3年経った。けどまだ紗江さんは、その時のことを思い出すたびにああして取り乱すんだ。驚いただろ?」
「……うん。少し」
 あと少しで点滴が終わる。熱は大分下がったようだ。吐息はまだ熱いけれど、体全体が熱を下げようとしているのが分かる。汗で少し気持ちが悪い。
「だから、これ以降あの人たちの前で倒れたりするなよ」
「肝に銘じておくわ」
 若菜は頷いて肩を竦めてみせた。
 それにしても点滴までされているとは予想外だ。阿部家では、若菜が顔に出さない性格のためか、どんなに重い風邪でも軽く見る傾向がある。今回もし若菜が由紀子の前で倒れたとしても、彼女はせいぜい水枕を出す程度であろう。救急車を呼ぶなど思いも寄らない。
「……って、うわ。最悪」
 若菜は起き上がろうとして顔をしかめた。
 会社へ行く時のスーツを着たままだ。ズボンにもシャツにも、見事に皺が寄っている。不幸中の幸いか、上着だけは脱がせてくれたらしい。しかし上着だけではスーツの用が足りない。
「明日なに着て行けって言うの」
「その体でまだ会社に行くつもりか」
 厚志が呆れた。
「当たり前でしょう。有給はまだ残ってるけど、あんまり使ってたら緊急の時に使えなくなるんだから」
 そんなことしていたら給料が下がるじゃないかと、若菜は頬を膨らませた。その頬を厚志は容赦なくつねる。
「痛いって!」
「殴りたい」
「殴るな」
 淡々と繰り広げられるその場の雰囲気に若菜は眉を寄せた。連続して喋ったせいか喉が痛む。
 喉を押さえた若菜に気付いて厚志が薬を差し出した。若菜が病院で貰っていたトローチだ。
「……鞄、開けたの?」
「若菜のことだから入れてるだろうと思ってた」
 睨みつけたが厚志に悪びれる様子はない。不満だらけの若菜は唇を尖らせて薬を受け取った。口に放り投げた所で襖が開かれた。
「若菜さん!」
「あ……ご迷惑おかけして申し訳ありません」
「いいのよ! それより、まだ起き上がってはいけないわ。横になっていて」
「いえあの」
「お願いだから」
 紗江の頬には乾いてない涙の筋があった。潤む瞳で懇願された若菜は困惑する。そうしていると、厚志が間に割って入った。
「インフルエンザですから、あまり側に寄らないで下さい」
「インフルエンザ?」
「ええ」
 若菜から紗江を引き剥がした厚志は、彼女を静かに邦光に渡した。
「先ほどの医師が言ってました。若菜は俺が面倒見ますから、紗江さんは入ってきたら駄目です。抵抗力、弱そうですからね」
「まぁ」
 紗江は憤慨したような表情を見せたが、直ぐに相好を崩した。その笑顔に若菜もようやく緊張を解く。どうなることやらと思ったが、無事におさまったようだ。この時ばかりは厚志に感謝する。
 紗江は厚志の体の向こう側から顔を覗かせた。
「取り乱してしまってごめんなさいね、若菜さん。今日はどうか泊まっていって下さい」
「いえ、そんな」
「いいえ、駄目です。これだけは譲れません。ここからご自宅までは時間がかかりますし、負担になります。若菜さんにはしっかり治ってから帰って頂きます」
 きっぱりと言い切る紗江に若菜はうなった。
 自宅ならまだしも、他人の家で宿泊するとなると、明日の出勤は夢に消えてしまいそうだ。そしてこの分だとしっかり完治するまで本当に外出を許して貰えそうにない。
 インフルエンザであるならどこにいようと出勤など許されないだろうが、若菜はそんなことなど忘れてどうしようかと思い悩む。
 紗江は厚志の制止を振り解いて若菜に近づいた。両手で若菜の手を握り締めた。
 まるで祈るようだ。
「お願い若菜さん。私の目の前で、治して帰って下さい。今のままで帰られたら、私はきっと眠れないわ」
 哀しみを混ぜた紗江の瞳に若菜は怯んだ。そんな様子を見せられて断れるほど、若菜も強情ではない。紗江の肩越しに厚志を見ると、仕方ないというように肩を竦められた。
 若菜も仕方ない、と諦めることにした。

 
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