繋がれる過去
前へ目次次へ
4.

 若菜は真夜中に目が覚めた。
 結局あれから3日、若菜は安西家で寝込む羽目になった。全快したのは3日目の夕方頃だ。けれどまだ「心配だわ」と眉を寄せる紗江に縋られ、若菜はずるずると安西家に泊まり続けていた。どうせもう2日も3日も変わらないだろうと諦めている。
 紗江は若菜から徹底的に遠ざけられていたが、厚志と邦光は頻繁に若菜を訪ねた。二人はどうやらインフルエンザの予防接種をしていたらしい。それを聞いた紗江は悔しがり、若菜は呆れた。
 厚志と邦光が共謀したこともあり、紗江は感染しなかった。
 全快した若菜はそれを聞いて安心する。これでもし紗江に感染していたら、罪悪感で居た堪れない。
 熱が下がった今、厚志は側にいなかった。インフルエンザに罹っていた頃の記憶はあいまいだったが、振り返ると厚志はいつも心配していたような気がする。病人の側にずっといることは、家族でも容易くないだろうに。
「根は……悪くないんだよね。多分」
 暗闇の中で体を起こした若菜は呟いた。
 寝込んでいる間、若菜が喉を潤せるように、側には水差しが置いてある。探ると今もそれはある。置いていったのは邦光だ。その際、心配そうな顔をしていた彼を思い出して若菜はため息をついた。
 この恩はどうやって返せばいいのだろうか。コップに注いで一口飲む。水はハーブの匂いがして心が安らいだ。熱が下がった今だからこそ分かる気遣いだ。
 立ち上がった若菜はスリッパに履き替えた。庭へ繋がる障子を開ける。
 前の日に積もった雪はいまだその姿を残している。満月から少し欠けた月が明るい光を注いでいる。何の音もしない静かな夜だ。青い影に目を奪われて、若菜はただ眺め続けた。
「何やってんだよ」
 低い声がした。
 振り返ると、庭に面した廊下を突っ切って厚志が歩いて来ていた。打ち掛けを羽織る姿はまるで温泉旅館に来たかのようだ。ひどく似合って見えて、若菜は思わず笑った。
「何」
 笑われた厚志は不愉快そうに訊ねてくるが、若菜は笑うだけで答えない。旅館の支配人のようだと言えば、厚志は更に不機嫌になるだろう。
 厚志は苛立ったようにため息を零し、若菜を部屋の中へ押し込んだ。乱暴な力だ。
「うわっ」
「病み上がりのくせに起きるな」
 部屋へ押し込むだけではない。厚志は容赦なく布団まで追い詰め、手際よく寝かしつける。
 布団に入った若菜は、その手付きの良さに思わず「保父さんが目標?」と呟いてみたが、厚志に凄まれて首を竦めた。冗談も通じないらしい。
「熱はぶり返してないな?」
 厚志は言いざま手を伸ばして若菜の額に触れる。
 相変わらずの仕草に若菜は目を瞑った。そして、当てられた手の冷たさに眉を寄せた。「よし」と呟き離れていく厚志の手を素早くつかむ。
「何この手。厚志の方こそ寝ないで何してたんだよ。冷え切ってるじゃんか」
 両手でその手を握り締めると、素早く手を引っ込められた。結果的に振り解かれた若菜は顔をしかめる。開け放たれた障子の向こうに月が大きく控えている。厚志の顔は月明かりの影に沈んでいたが、その表情は怯えているように思えた。
「厚志?」
 呼びかけると我に返ったように、厚志の肩が揺れ動く。
 「――俺のことはいいから、若菜は黙って寝てろ」
 気まずそうにする厚志を見た若菜は追及するのをやめた。
「今まで散々寝てたんだもん、もう無理だって。起きたくて起きたくて仕方ない」
「それでも黙って寝ろ」
 理不尽な要求に若菜は頬を膨らませた。視線を逸らされ続けているのも気に入らない。
「厚志は寝ないの? 睡眠不足のくせしてさ」
「若菜が素直に寝たら俺だって寝る」
「何か――子どもの言い訳みたい」
「誰がっ」
 厚志はカッとして怒鳴りかけたが、深夜だと思い直したのか直ぐに憤りを宥めた。憎々しげに若菜を睨んだあと、背を向ける。胡坐をかいたまま腕を組むその後姿は、まるでどこかの頑固親父だ。
 若菜は笑いが込み上げてきて、布団に口を押し当てた。声は殺しているが、気配で察知しているのか、厚志の不機嫌さが増していくのも分かる。
 若菜は、今まで燻っていた何かがゆっくりと氷解していくのを感じた。笑いが込み上げてきて止まらない。
 笑みを零しながら厚志に提案する。
「いいよ。それじゃあ私が眠くなるまで会話しよう」
 目が冴えて眠れないのは明白だ。何かしていなければ時間潰しにならない。厚志がそれを邪魔するなら、奴を時間潰しの材料にしてしまえと、若菜は布団から顔を出した。
 その提案は意外だったのか、厚志は若菜を一瞥した。
 寝返りを打った若菜は笑う。
「何から話そうか」
 そう言いながら、もう話題になりそうな物は浮かんでいた。
「幼稚園の頃さ。図書室が隠し扉の向こう側にあったこと覚えてる?」
 厚志はしばらく不機嫌そうな表情をしていたが、ため息をつくと苦笑した。
「覚えてる。服かけてる棚どかしたら出てきた扉だろう?」
「そうそう。古臭い扉で、私たち、その向こうに宝の山が眠ってると思ってたんだよね」
 懐かしい子ども時代に厚志も頬を緩めた。
「先生が開けたらすっげぇ狭い階段があって、皆してはしゃいで上ったな」
「かなり老朽化が進んだ幼稚園だったからね。そうでもしないと設置場所も何もなかったんだよ」
「苦肉の策」
「そうそう」
 実際、図書室がどのような場所だったのかは覚えていない。図書室に至るまでの行程が印象的で、その部分だけが記憶に刻まれている。
 階段は一段一段の段差こそ低いが、かなりの急勾配だった。図書室から戻る時、その階段を皆が一斉に、歓声を上げて走り下りるものだから、歓声が途中から悲鳴に変わったこともある。先生の顔が青褪めたあと真っ赤になり、大声で怒鳴られたことも良く覚えている。
「そう言やぁ傷んでたもんなぁ。あの幼稚園」
「でしょう? それで、私たちが卒園した直後に改装されたんだよ」
 思い出せば未だに腹が立つ。若菜が憤然とすると厚志が笑った。何か思い出したのかもしれない。背中を向けていた厚志は、体ごと若菜に向き直った。
「改装された新しい幼稚園には、地面のコンクリートに大きいガラス玉が埋め込まれてたんだよな」
 若菜は顔をしかめた。思い出したくない記憶に触れた気がした。
「屋上にはプールまで作られて、図書室も凄く広く、明るくなってた」
「……そうだね」
 若菜は、工事現場を示すブルーシートを思い出した。自分たちが通っていた幼稚園がどのように生まれ変わるのか、毎日、男友達と一緒に通っていた。そして遂にブルーシートが剥がされ、新たな幼稚園を目にした時、若菜は強い衝撃を受けたのだ。記憶にある幼稚園と、あまりにも違いすぎて。綺麗すぎて。
「改装されてから入園式が始まる前の、誰もいない時にお前は乗り込むぞって言って」
「……悔し紛れに、気に入ったガラス玉をほじくり返して貰ってったんだよねー……」
 若菜が遠い目で呟くと、厚志は声を上げて笑った。
「犯罪だわ、あれ」
「今更だな」
「本当。今更」
 子どもとは言え、なんてことをしていたんだと、無謀さに呆れが湧いた。今では絶対に不可能だ。むしろ今やったら確実に捕まるだろう。
「他にも、俺らと学区が違う近くの幼稚園にも遊びに行ったなー」
 厚志が何を指しているのか悟って、若菜は勢い良く体を起こした。
「もともと私たちの先生だったじゃん、体育の。あの先生。えーと、名前、忘れたけど」
「俺も名前忘れた。あのガタイがいい先生」
「そうそう」
 若菜は厚志に再び寝かしつけられた。
「久しぶりにさ、先生に会った帰りに、その幼稚園の裏にキャベツがごろごろしてるのが見つかったのよね」
 厚志は笑いを堪えきれないように、喉を鳴らせながら頷いた。
「そう。で、またお前が目を輝かせて言ったんだぜ。捨ててあるのもったいないから、持って帰ろうって」
 若菜は耳を塞いで「ぎゃー」と小さく叫んだ。思い出の場面がはっきりと脳裏に蘇った。厚志に先を越される前に、まるで言い訳のように素早く告げる。
「あの時は本当に捨ててあると思ったんだよ。誰もいなかったし、近くにはゴミ捨て場もあったし、無造作に大量に山積みされてたしさ!」
 厚志は何も言わずにただ笑うだけだ。そのことがさらに若菜の羞恥心を煽る。
「俺らの自転車カゴに、一つずつ積んで帰ったな」
「そうなんだよね」
 若菜はため息をついた。
「次の日、まだあったら持って帰ろうと思ってもう1回行ったんだよね。そしたらそこの幼稚園生と先生たちが一緒に、キャベツを畑に植えててさ。多分、子どもたちに“キャベツを収穫させよう”みたいなことをさせるために買ってたんだな、って気付いて」
「蒼白だったよなー、お前の顔」
「厚志は相変わらず笑い転げてたよね」
 若菜は冷たく厚志を一瞥した。
 衝撃の新事実を知った後、若菜は涙声で『返そう。ねぇ返そうよ』と厚志を揺さぶったが、昨日のキャベツは既に2人のお腹の中だった。結果、若菜はキャベツを植える子どもたちを見ながら胸中でひたすら謝り、何も言えずにその場を後にしたのだった。
 しばらくその幼稚園には近づけなかった。
「ああ。蘇る悪夢……」
 記憶の底に葬られていた過去。
 若菜は両手で顔を覆いながら苦々しく呟く。そんな若菜を見ながら厚志は笑う。反省の色が見られない。
 若菜は厚志を忌々しく見ながらふと真剣な表情に戻った。
「厚志さ。日華里さんを好きだったんでしょ」
 ピタリと厚志の笑い声が止んだ。
 若菜は体を厚志に向けたまま、開け放してある障子向こうの庭を見た。月明かりがとても綺麗だ。
 沈黙は数秒続いた。
 静かな光が注ぐ中で肯定の声が聞こえた。
 若菜は一度瞼を閉じ、開ける。苦笑を洩らした。
「さすがにこれだけ条件揃えられたら気付くって言うか」
 厚志が恋人を望んだのは、もう日華里に囚われていないということを、邦光と紗江に示したかったからではないのか。邦光も紗江も、日華里に向ける厚志の気持ちを知っていたのだろう。その上で、日華里を失くした後も厚志を見るたび、心を痛めていたのだと推測する。
 厚志は2人に、偽りの恋人を望んでまで示したかったのだ。
 若菜にはその気持ちが分かる気がした。
 邦光と紗江は、偽りを掲げてまで安心させたいという雰囲気を持っていた。優しすぎて、絶対に壊してなるものかという雰囲気を醸していた。
 紗江が日華里の服を渡す時、一人で来て下さいねと指定があったのも、こういう理由があったのならば頷ける。彼女も彼女なりに厚志を気遣っていたのだろう。
 すべてを見透かした上で重ねられる偽り。美しく優しい関係。けれど誰も救われない。
 若菜は鼻の奥がツンとなるような悲しさが湧きあがってきた気がして、静かに瞼を閉じた。第三者である自分にも彼らの思いやりが強く伝わってきて、泣きたくなった。
「日華里さんって結婚してたんだよね」
「最低の男だった」
 厚志の拳が固められる。
 それって嫉妬からくる思いなんじゃないのかと呆れてからかおうとした若菜だが、厚志の表情は真剣で、口に出すのがためらわれた。
「日華里の資産目当てに結婚しただけだ。日華里が死んだら多額の保険金と、幾らかの資産を持って逃げやがった。浮気だって平気で繰り返してた。最低の男だ」
「それって、日華里さんから聞いたの?」
 じろりと厚志に睨まれる。
「自宅に浮気相手連れ込まれてるからって、何回も里帰りしてたんだからな。離婚すればいいだろって言うと、困った顔して笑うだけで――未だに日華里は良く分かんねぇ」
 若菜は寝返りを打って厚志に背を向けた。
 何となく、日華里のことで怒りを露にする厚志を見たくなかった。
「好きだったんじゃないかな。最後の最後まで信じたくて、だから離婚できなかったんじゃないかな、日華里さん」
 背中を向けたまま呟くと沈黙が下りた。厚志がどんな顔をしているのか見たくなくて、若菜は振り返らない。しばらく沈黙が続いた後に厚志が立ち上がる気配がする。畳から床へ、音の軋みが変わった所で若菜は振り返った。
「熱出てる間、傍にいてくれてありがとう」
「……おう」
 若菜に背中を向けたまま、厚志は微かに振り返って障子を閉めた。
 厚志の影が月明かりに浮かび上がる。遠ざかるのを見送った。
 厚志が眠れないのは、日華里さんを思い出しているからだろうか。
 そんなことを思いながら、若菜は瞼を閉じた。


END
前へ目次次へ