立ち塞がる壁
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1.

 試練というのは時も場所も人の都合も構わず唐突にやってくるものだ。
(とりあえず、今の私はこんな展開、予想もしてなかったぞ)
 若菜は目の前に立つ男性を呆然と見上げながら思った。
 場所は自宅の玄関前だ。
 年度末が近いため、最近は残業が遅くまで続いている。帰宅時間がまちまちなので今は島田ではなく厚志に送迎をお願いしている。自分の都合で島田を何時間も駐車場で待たせるのは気が引けたためだ。彼を休ませるためなら厚志を利用することなど何でもない。気兼ねないわがままを言えて楽だということもある。
 年度が新しくなった暁には再び島田にお願いすると約束をして、若菜は厚志に送迎を頼んでいた。今は肉体的にも精神的にも疲れていて、帰宅したら何もせず安らかに眠りたい。
 若菜のそんなささやかな願いを打ち砕く人物が、目の前で若菜を見下ろしていた。
 阿部義之《よしゆき》。若菜の父親だ。普段は出稼ぎに出ていて家にはいない。
 なぜ、彼がここにいるのだろうか。
「いつ帰って来たの?」
「さっき高速バスで着いたばかりだ」
 玄関で見つめあう父と娘。否、睨みあう父と娘。
 原因はひとえに、若菜の頬が赤く腫れていることに尽きる。
 若菜は「フー」と息を吐き出すと義之を見据えた。
「それで。何でいきなり殴られなきゃいけないわけ」
 玄関に父親がいて驚いたのも束の間、若菜は問答無用で殴られたのだ。拳ではなく手の平だったが、痛いことに変わりない。父親に殴られたのなど何年ぶりだろうか。昔は様々なイタズラをして怒られた。けれど今回はわけが分からない。
 冷静な部分が原因を探るが、腹の底から沸々とした怒りが込み上げてきた。理性が感情に飲まれようとする。若菜は拳を握り締める。
 仁王立ちになった父親は負けじと険しい顔をする。
 娘は父に似るとの言葉通り、見下ろす瞳はまるで鏡に映したかのようだ。
「り、ゆ、う」
 何も答えない義之に低い声を飛ばす。一歩進んで距離を縮める。
 冬の冷気が開けっ放しの玄関から吹き込んでいく。密集地帯の住宅区域で、若菜は声を抑える。あらぬ噂は呼び込みたくない。
 仁王立ちのまま動かない義之の向こう側には由紀子がいた。どうしたらいいのか分からないように、珍しくオロオロしている。
 そんな由紀子に気を取られた若菜は、次の瞬間、左頬も叩かれた。大工をしている義之の手は固く、強い。先ほどよりも力を入れて殴られたようだ。生理的な涙が盛り上がってきた若菜はグッと堪えて睨み続けた。
 何も説明されぬまま義之の手が三度、振り上げられる。今度こそ若菜はその手をつかんで止めた。義之の眉が微かに動く。
「理由もなく殴られるなんて冗談じゃない。理由あっても倍返しするけど」
 義之の腕は強い。止める若菜は全力を腕に注いでいたが、無理をしていると悟られるのが嫌で、無表情を装う。さも「余力を残していますよ」と見えるようにハッタリを通す。
 若菜の鉄面皮が効を奏したのかどうか、義之が引いた。力が不意に緩んで腕が下りる。それを確認してから若菜は腕を下ろす。肩にかかっていた負荷に、肩を回したい衝動に駆られたが耐えた。少しでも余裕を見せておかないと三撃目が来ると確信している。
 静かな睨み合いが再び始まった、と思ったときだ。
「なに騒いでるんだ?」
 若菜の背後から厚志が近づいてきた。義之の表情がこれ以上ないほど動く。若菜は直感的に悟った。彼の怒りの原因は厚志だ、と。
「君が斎藤厚志か」
 義之は滅多に発しない威圧的な低い声を放った。呪いでもかけそうな雰囲気だ。
 娘の若菜にとっては、そんな義之の声はただの虚勢だと知っているが、驚いていた。初対面の厚志を呼び捨てにするなど違和感が湧く。最初から敵意をむき出しにする態度にも疑問が湧いた。
 温厚な義之がここまで怒る理由は何か。若菜には分からない。
「はい、そうですが?」
 厚志は営業用と思われる笑顔と声で近づいてきた。若菜の青い顔に気付いたのか、それとも義之の怒りオーラに気付いたのか。義之の前に立つ彼は堂々としている。背筋を伸ばし、立派な営業マンへと早代わりする。
「初めまして。1月に若菜さんの恋人になりました。斎藤厚志と申」
「私は借金するような娘に育てた覚えはない!」
 厚志の挨拶を遮っての一喝。
 若菜はようやく、義之がなぜ怒っているのか悟って眉を寄せる。横目で由紀子を睨むと、彼女は義之の背後でひたすら手を合わせ、無言で謝り倒していた。この義之にこそ借金のことは伏せておき、恋愛だと思わせておけば良いものを。若菜は忌々しくため息をつきたくなる。情報がどこから漏れたのだと頭を抱えたい。
 昔気質な義之は「子どもに家の心配をさせるなど言語道断」という考えの持ち主だった。そんな義之に、幼い頃は苛立つこともあったが、それが父親としてのプライドだというので、仕方ないなと諦めた。代わりに家のことは由紀子から聞き出すようにしていた。今回はそれが悪い方向へと転がった訳だ。
「君は人の娘を何だと思ってるんだ?」
「それは」
「俺は借金するような娘など知らない!」
 義之は厚志の声を遮って叫ぶ。会話が噛み合っていない。
 若菜は頭が痛くなって額を押さえた。おかげで、義之の腕が振り上げられたことに気付くのが遅れた。
 もう止められない、と瞬時に判断した若菜は腕で顔を庇う。とっさに体を竦めて衝撃に耐えようとする。しかしその前に、若菜は背後から伸びてきた腕に素早く抱えられた。
 誰かが殴られる音が響く。抱えられた若菜にその衝撃が伝わる。
 若菜は、厚志が身代わりになったのだと知った。
「どこ殴られたのっ?」
 若菜慌てて厚志を見たが、厚志は微かに笑っただけだった。若菜を胸に庇って義之には背中を向けているため、殴られたのは背中だろう。それならばダメージはそれほどでもないかと思う。さすがに義之が娘を殴るために全力を込めたわけではないと思いたい。ひとまず大怪我をしたわけではないと悟り、若菜は安堵した。
 一方義之は、娘を目の前で庇われて唖然としていた。しかしその表情は見る間に変わる。これが嫉妬というものか、と若菜は頭の片隅で考えた。これ以上の暴力沙汰は困る。いくら厚志が気に食わなくても一方的に殴られるのを見るのは嫌だ。
 若菜は厚志を押しのけて前に出た。
「いい加減にしてよね! いま何時だと思ってるのよ!」
「そっちか?」
 押しのけられた厚志は不満そうに呟いたが、若菜は無視を貫いた。ここで借金のことについて押し問答を広げていれば、余計に頭に血が昇るだろう。ここは怒りの矛先をまず微妙にずらしてしまう。据わった目で義之を睨みつけ、鞄を握り締めて足を踏み鳴らせた。
「お父さんが考えてるのと私たちの契約は全然違うものなんだから、話し合いくらいさせたらどうなのよ! 一方的に殴って終わりにするつもりなわけっ?」
「誰もそんなことは言ってないだろう! だが、それとこれとは話が別だ!」
「何が別だ!」
 冷静に矛先を変えたつもりだったが、実は若菜も頭に血が昇っているのかもしれない。二人は対峙しながら他が見えていない。由紀子と厚志は止めることもできずに見守っている。
「若菜を犠牲にしてまで守りたいものなんて俺たちにはないんだ! それなのにお前は借金なんてして――お前は両親のことをそんな風に思っていたのかっ?」
(先に私を売り飛ばしたのはそこにいる母親なんですが)
 若菜は白い目で由紀子を見た。
 言わないのが花だと思って沈黙を保つ。それを誤解したのか、義之は更なる怒りに肩を震わせた。鼻息も荒く若菜を睨みつける。そして、様子を窺っていた厚志も睨みつける。
「お前なんか家に入れてやらん!」
 まるで子どもだった。
 義之は言い捨てると力いっぱい玄関の扉を閉める。直後に施錠の音も聞こえた。
 由紀子が何か叫んだようだが、扉に阻まれて良く聞こえなかった。
 若菜は一方的で強引な義之の行動に唖然とする。同じく呆気に取られる厚志と、どちらからともなく視線を合わせる。
 次の瞬間だ。
 錠の外れる音がして扉が開いた。
 由紀子だろうかと思った若菜だが、顔を出したのは義之だった。怒りの形相を見る限り、由紀子が説明して落ち着かせたわけではないらしい。
 今度は何事だと怪訝に思った若菜だが、口を開くより先に腕をつかまれた。先ほど「家に入れない」と断言したばかりの義之は、強引に若菜を引きずり込む。
「ちょ、ちょっとっ?」
「男の家に泊まりこむのは許さんからな!」
 若菜は呆れた。
 どうやら義之は、若菜を締め出したら厚志の家に転がり込むだろうという結論に達したらしい。そんな思考回路を読み取った若菜は途方に暮れて厚志を見る。しかしその視線を断ち切るように、義之は玄関の扉を勢い良く閉めた。

 
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