立ち塞がる壁
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2.

 暦は三月。世間は年度末。会社勤めの若菜は送迎会やら引継ぎやらで忙しい時期だ。
「高岡。あれはまだ?」
「阿部」
「今やってますよ」
「ついでにこっちもお願いします」
「萩山。俺はこっちのプランの方が」
「会場選びは後にして下さいよ、先輩たち!」
 休む暇もなく目まぐるしい仕事の合間、更に仕事とは直接関係ないことまでまくし立てられて、若菜はとうとう叫んでいた。
 そう、今は目まぐるしく仕事を片付けなければいけない時期なのだ。私生活にまで構っていられない。肉体的にも精神的にも休まる暇がない。
 若菜は周囲を慌しく駆け抜けていく足音を聞きながら、ひたすらパソコンと睨み合っていた。最後の文章を打ち切って「よし」と頷く。社外に回せるまでの最終推敲が残っているが、ここまで来れば一段落ついたも同じだ。
 若菜は仕事の1つを片付けられて、首を回した。
 脳裏から仕事が消え、入れ替わるように浮かんできたのは私生活のことだった。義之の姿が浮かんでくる。
 昨日、厚志から強引に引き剥がされた若菜はそのまま自室に投げ入れられた。比喩ではない。義之の大きな腕によって抱えられ、文字通り投げ入れられた。
 部屋の鍵は内側からしか施錠できない。そこで義之は扉を閉めるとつっかえ棒を用意し、部屋の扉を開けられないようにした。突然の事態に呆然とした若菜だ。
 こうなったら窓から出てやる。
 出るなと言われれば意地でも出たくなる天邪鬼だ。若菜はベランダから屋根伝いに外へ出ようと考える。しかし呆然としていた時間が長すぎたのか、娘の考えを読んだ義之が行動を起こすのは早かった。彼はベランダに「決して開かない雨戸」を取り付けたのだ。
 さすがは現職の大工だと感心すべきか。雨戸作成の着手から完成までは早かった。
 若菜はその夜、夢で、トントンと一定間隔で鳴り響く金槌の音に追いかけられた。朝起きると凄まじい疲労感に言葉もない。
 仕事が1つ片付いて休憩していた若菜は時間を確かめた。そろそろお昼の休憩時間だ。さすがに昼食を抜かすわけにはいかない。
 文書作成途中のファイルに途中保存かける。パソコンを閉じ、慌しく駆け回る周囲をよそにポットへ向かう。後輩はいまだ忙しそうに棚と机とを往復し、机にはデータ書類が積みあがっている。若菜がお湯の交換に行ったところで怒られないだろう。
 若菜は両手にポットを持って廊下へ出た。暖房が入っていないため、相変わらず寒い。早足で給湯室へ滑り込む。誰もいない部屋は暗かったが、スイッチを入れると白色色が満ちた。
「今週……いや、来週までかかるかな。どうだろう」
 お湯を注ぎ、壁に背中をつけた若菜は呟いた。考えることが山積みなのに、義之のせいで寝不足だ。営業妨害だと叫びたい。
 若菜は冷え切った手に息を吹きかけて摩擦した。
 若菜自身の仕事はほぼ完了していたが、周囲から任せられる仕事量が多い。他の皆もそれだけ手が回らずに忙しいということだろう。
 コツコツと踵で壁を蹴っていた若菜は、扉が開かれると同時に背筋を伸ばした。
 他部署の者が入ってきたのだろうか。そう思った若菜だが、入ってきたのは大輝だった。驚いた若菜だが、疲れたような彼の様子に笑みを見せた。
「お疲れ様です先輩。終わりそうですか?」
「んー、ぼちぼち。今度新しく入る奴が結構な曲者でね。俺の話聞くよりも、女に愛想振りまくのに夢中になってるんだよね」
 大輝の眉間には皺が何本か刻まれていた。本当に手を焼いているらしい。らしからぬ様子に、若菜は笑ってはいけないと思いつつ頬を緩めた。仕事と私生活の疲れが癒されていくようだ。
 大輝の受け持ちは新入社員の指導だった。大輝には悪いが、新しい後輩ができると思えば若菜は嬉しい。是非とも大輝に頑張って貰い、その後輩を『使える奴』に育てて貰いたいものだ。
 若菜は大輝の肩を叩いた。振り返る彼に笑顔を向ける。
「絶対に負けないで下さいね、先輩」
 大輝は呆れたような表情をしたのち嬉しそうに笑った。頷いて拳を握り締める。再びやる気になってくれたようだ。
「阿部さんこそ大丈夫? 少し顔色が悪いようだけど」
「あー、昨日ちょっと、父親が帰ってきてまして」
 大輝が首を傾げた。
「お父さん? 出張してたの?」
「まぁ、そんなところです。久しぶりに帰ってきたと思ったら、いきなり殴られまして」
「は?」
 大輝は唖然とした。そんな話を突然されても反応に困るだけだろう。若菜としても、なぜ口を滑らせてしまったのか分からない。
「いやあの、父がその、私の……これのこと、知らなかったらしくて」
 若菜は首から提げている恋人指輪を取り出した。大輝は「ああー」と納得し、頷きながら視線を別方向に飛ばした。いつもより大人びて見えて、若菜は瞳を瞬かせる。
「父親にとって娘の恋人って永遠の敵らしいからね」
「は?」
「男にとっても、恋人の父親は最大の難関だよ」
「はぁ……」
 若菜はあいまいに頷いた。
(私にとっても最大の敵に等しいんですけど)
 思いは決して口に出されない。
 今朝もまた、義之と喧嘩してきたばかりの若菜だ。
『斎藤厚志とはどこまでやったんだ』
『それが年頃の娘に向ける父親の言葉かーーっ!』
 そんなやり取りを繰り広げた若菜は精神的に疲れ果てていた。「あの母にしてこの父あり」という気がしないでもないが、そうすると「あの両親にしてこの娘あり」という恐ろしい図式ができあがってしまう気がしたので、考えないことにした。
「ま、少しは望みが見えたかな。じゃあ俺は行くね。阿部さんも仕事頑張って。美智子が大量の書類抱えて捜してたから」
「げ」
 若菜は思わずうなった。
 大輝が明るい笑い声を上げて給湯室を出て行く。そんな彼の後姿に手を振って見送り、若菜はポットの蓋を閉めた。
 意味が良く分からない大輝の言葉を反芻する。やはり良く分からずに首を傾げる。
 思考は再び義之のことに戻り、若菜の表情は憮然と落ち込んでいく。昨日今日で、環境が突然変わってしまった感じである。携帯電話も義之に取り上げられ、厚志に連絡する術はない。こんなことなら厚志の電話番号だけでも控えておけば良かったと後悔する。
 大切な他の人たちの電話番号に関してはしっかりと控えてある。しかし厚志に関してだけは、そんなバックアップは取るだけ無駄だと思って投げていたのだ。そこから後悔は始まっていた。
 これは義之の頭が冷えるまで、しばらく待つしかないだろう。
 若菜はとりあえず目の前の課題から片付けることにした。新たに積み上げられた美智子の仕事だ。ポットを二つ持ち上げ、見通せない未来に溜息をついて、若菜は給湯室を出た。

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