立ち塞がる壁
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3.

 会社を出た若菜はため息をついた。目の前には義之の姿がある。珍しく背広など着込んでいる。厚志に張り合ったつもりなのだろうか。いつも厚志が迎えに来る場所には、まだ誰の姿もない。携帯を取り上げられているため帰宅時間を知らせる術もない。
「……レンタカー借りてくるお金なんて良くあったよね」
「よけいな心配はしなくてもいい」
 心配したくなくてもその皺寄せは巡り巡って若菜に降りかかるのだから、無理な話だった。
「それで? 熱はいい加減に冷めたの」
「こっちの台詞だ。解約届けは貰ってきたから、帰ったら即サインするように」
「はい?」
 後部座席に詰め込まれた若菜は眉を寄せた。バックミラー越しに義之と目があう。
「俺だって仕事抜けてきてるんだ。そうそう時間をかけてられない」
「誰も頼んでねぇっての」
 若菜は忌々しく呟いた。義之の怒りの眼差しが向けられたが、若菜は簡単に受け流して腕組みをする。出社してから今まで考えに考え、腹は決まっていた。生来の天邪鬼は行動力も旺盛だ。
「お父さんが何と言おうと、私に別れる気はこれっぽっちもない。少しは頭冷やして考えてみやがれクソジジイ」
 久しぶりに吐く罵りの言葉。厚志のところに逃げ込もう、と腹を立てながら決めていた。タクシーも辞さない考えだ。
 若菜は赤信号で停まった隙を見計らって逃げ出そうと扉に手をかけた。
 ――開かない。
「チャイルドロックか貴様ーーっ!」
 内側から開かないように掛けられた仕掛けを瞬時に見抜いた若菜は絶叫し、周囲に停まっていた運転手たちの注目を浴びた。


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「もういい加減にしてよあの馬鹿親父! だいたい、なんで私が進んで借金したみたいな状況解釈になってるわけよ!」
 再び部屋へと閉じ込められた若菜の怒りゲージは最大を振り切ろうとしている。食事を運んできた由紀子に大声で怒鳴りつけた。因みに義之は厚志が忍んでこないように玄関で待機しているらしい。お約束過ぎて涙が出てくる。
 由紀子にとっては若菜の怒鳴り声など慣れたものだ。彼女はあっさりと受け流すと、困ったように頬に手を当てた。それはそれで腹が立つ態度だ。
「ちゃんと説明したのっ?」
「したわよ。厚志君が苦労するのは嫌だもの」
「待てこら我の苦労はどうなんだ」
「でも固定資産税はどうしたんだって聞かれて、若菜が都合をつけてくれたって話したら誤解されちゃって」
 訴えを無視された若菜は唇を震わせたが、ひとまず聞きたいことは別のことだったのでそちらに関する怒りは流すことにした。
「それを解くのがお母さんの役目でしょう!」
「だってあの人、若菜に恋人ができたって聞いたとたんに電話切るんですもの。気付いたらもうこっちに来てたのよ」
 由紀子は言い訳したが、一瞬で来るわけでもない。義之が自宅に向かっている間中、若菜には何も知らせず、何の対策も立てずにただ過ごしていたのだ。
 呑気な彼女に若菜はうな垂れた。額に手を当ててため息を吐く。今に始まったことではないとはいえ、あまりにも自分が哀れでならない。
「やっぱりあれね。若菜が今まで恋人なんて作らなかったから、免疫がなくて動揺してるのね」
「私のせいなのっ?」
 酷い責任転嫁もあったものである。
「もう……そんなこと言ったって、本当に要らなかったし、いまさら後の祭りだよ……」
 どうしてくれようとため息を吐き出した若菜は、別のことに気がついた。なぜか由紀子が感激したように見つめてくる。まるで夢見る乙女だ。
「ということは。今回は本気なのね、若菜?」
「…………は?」
「厚志君ならお母さんは大歓迎よ。お父さんの誤解解くのも頑張っちゃうから」
 弾む由紀子の声を、若菜は何とも言えない気分で聞いた。
「いやちょっと、待て?」
 誤解を解いてくれるのは望むところだ。だが由紀子の期待があらぬ方へ向いていると思うのは気のせいだろうか。
 若菜は呼び止めたが、由紀子はすでに聞いていない。彼女の周囲にはピンクハートが乱舞している。
 これで厚志の目的が達せられ、晴れて婚約解消となった場合にはどんな反応をするものか。既に結構な人数を欺いている若菜は引き攣るが、そんな思いを露ほども知らない由紀子は純粋に喜んでいる。嬉々として部屋から立ち去った。
「……恋人契約、終わったあとも私、何かトラウマ残されそうな気がする……」
 若菜は力ない笑みを零してみるが、洒落になりそうになかった。

 
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