立ち塞がる壁
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4.

 階下からのくぐもった声に若菜は目覚めた。普段は由紀子と二人しかいないため、他人の気配に敏感になっていたため気付いたのかもしれない。
 若菜は眉を寄せながら起き上がった。目覚まし時計を見ると深夜を回っている。人の声は扉を挟み、まだ続いていた。しかしくぐもっていて何を言っているのか聞き取れない。もしかして両親が話し合いをしているのだろうか、と思ったときだ。
 何かが殴られて倒れたかのような大きな音が響いた。
「何っ?」
 まだ半覚醒だった若菜は飛び起きて眼鏡をかけた。その勢いのまま部屋を出ようとしたが、扉は開かない。鼻と額を思い切り強打した。
「あーチクショウ、つっかえ棒くらい外しておけよな!」
 これでトイレに行きたくなったらどうするのだろうと思いながら若菜は扉に体当たりした。ドアノブをつかんで激しく揺すってみた。しかし扉は開かない。つっかえ棒があるのは床らしく、扉の上半分はたわんで隙間ができるのだが、とても外に出られるような隙間ではない。外に出るためにはもう少したわませなければいけないが、そんな力は若菜にない。
 若菜は拳を握り締めると苛々と扉を殴り、そして今度はベランダに寄った。窓を開けると、義之が急ごしらえで取り付けた雨戸が視界を塞いでいた。
 不敵な笑みを浮かべる。
「大工って言っても、精神乱れてるとロクな仕事もできてないのよ!」
 若菜は叫んだ。学習机とセットになっている椅子を持ち上げた。回る椅子なので、頭の上でガラガラと支柱が回る。この際、そんなことは気にしていられない。
 器物破損を覚悟の上で椅子を雨戸に叩き付けた。
 一回、二回、と。
 三回目の攻撃で雨戸が微かに破れる。
「よっしゃ!」
 まるでどこかの冒険家になった気分だ。
 若菜は「はっはっは」と、怒りと勢いと寝不足とで、楽しげな笑い声を上げると胸を張った。
「不可能があってたまるか!」
 破れた板の隙間を大きくすべく、今度は拳でぶち抜いた。腕に裂傷が走って痛みを覚える。だが、板に引っ掛かれただけで血は出ていない。それを確かめると若菜はそのまま攻撃を続行した。
 苦労して手を差し出せるほどの穴を空けた若菜は、今度は両手を使って板を裂いた。
 向こう側が見えた若菜は歓喜する。もっと良く見ようと顔を覗かせ、隣家の窓から子どもたちが呆気にとられた様子でこちらを見ているのが分かった。雨戸を破る大きな音に、何事かと思って見ていたのだろう。
 子どもたちの背後では両親だと思われる二人が唖然と口をあけて若菜を見つめている。彼らの手にある歯ブラシが妙にリアルだ。
「夜分遅くにすいません。ただの親子喧嘩なので、直ぐに済みますから!」
 彼らの存在に勢いを怯ませた若菜だが、このまま勢いを失くしたら目的も達せられず、隣家に誤解を植えつけたまま終わってしまう。意気込みを新たにすると、あえて笑顔をつくった。
 今まで築いてきた自分の像が崩れるなら崩れるで構わない。しかしそうなるなら目的は達しておきたい。
 若菜は、裂けた板を更に大きく裂く、という作業に没頭した。自分ひとり潜り抜けられそうな穴を空けるまで、しばし時間がかかった。それでもようやく成功した若菜は満足気な笑みを浮かべる。片足ずつ外に出して、部屋から外へと、体の位置を入れ替えていく。そうして外に出た若菜が振り返ると、小さな子どもたちしか残っていなかった。彼らから拍手を贈られる。若菜はヒラヒラと小さく手を振って笑顔を見せた。
 ベランダから廊下へ続く扉を開く。もしここに鍵がかかっていたりつっかえ棒がしてあったらどうしようと思ったが、杞憂だった。扉はすんなりと若菜を迎え入れる。
 ようやく廊下に立った瞬間だ。
 階下から、まだ終わらない騒動が響いてきて、若菜は顔をしかめた。今の脱出音が下まで届いていないらしいと安堵するが、こんな深夜に大声を張り上げてどうするつもりだと腹を立てる。やはり今日中に、何が何でも決着をつけてやる、と若菜は断固たる決意を胸にリビングへ向かった。
 そして――そこにいた人物に、若菜は双眸を見開いたのだった。
「……いやもしかしたらいるかなとも思ったけど本当にいるとは思わなかったよ厚志」
 棒読みで呟いた若菜は、立ち上がっていた義之と、彼に縋りついて止めようとしている由紀子と、そして二人に対峙して正座している厚志の視線を一身に浴びた。特に義之の驚きようは強かった。
「若菜? お前、どうやって……」
「雨戸突き破ってに決まってるでしょう」
 さすがに義之は唖然としたようだ。若菜の冷たい視線を受けながら口をあんぐりと開く。由紀子もまた同様にして若菜を見つめる。
 若菜は二人の視線を受け流して厚志に近寄った。驚いているのは彼も同じだ。
「……殴り合い? いや、一方的に殴られるのって殴り合いとは言わないよな」
 厚志の頬が赤く腫れている。
 若菜は厚志の隣に膝を着いて手を伸ばした。痛むのか、厚志はわずかに顔をしかめる。それを見た若菜は申し訳ない気持ちになって唇を噛み締めた。悔しく思いながら義之に向き直る。
「お父さん」
 静かな怒りを滾らせる若菜の声に、義之は体を引いて視線を逸らした。一方的に殴ってしまって悪いという思いが今更湧いてきたのだろう。そして、それを娘に見られたという、バツの悪い思い。
「話があるからそこに座ってくれない?」
 有無を言わせぬ若菜の声に、義之は黙ってテーブルについた。由紀子も同様だ。義之の隣に腰を下ろす。
 若菜は相対するように正座をする。義之の顔は強張っていた。
「借金のことを黙ってたのは悪いと思ってるけど、お父さんが考えてるような関係じゃない。その点だけは誤解しないで貰えるととても嬉しいんですけど」
 完璧とは言えないが、一応の形を整えた敬語だ。
 生まれてからこれまで、両親に向けて敬語など使ったことがない若菜から、初めて聞く丁寧語。義之が驚いたように若菜を見たが、若菜は静かにその視線を受け止め返すだけだ。
「返事は?」
 どちらが大人か分からないやり取り。義之は複雑そうな表情をしたが、全面的に悪いと認めているのか、何も言わない。渋々とは言え「ああ」と頷いた。
「それで、私にとっては一応初めての恋人ってことになるわけなんだけど、仲良くしてくれるつもりは全くないんですか」
「それは……」
「お父さんが今まで一所懸命やってきてくれたっていうのは凄く感謝してるよ」
 常なら決して聞けない言葉に、義之はそれこそ心底驚いたように双眸を瞠らせた。そのまま魂まで抜けていきそうだ。
「今まで言ったことも態度に出したこともないと思ったけど、一応、私の親だし。嫌いじゃないから。だから、厚志と仲良くできないっていうのは娘として凄く辛いんですけど」
 こうなったら勢いだ。
 若菜は途中から顔を真っ赤にさせ、睨みつけながら唇を震わせた。
 両親にそんなことを告げたのは初めての経験だった。今すぐ消えてしまいたいとすら思う。恥ずかしさに全員を殴り倒して逃走を図りたい。由紀子も義之も、口をあけて若菜を見ていた。
 膝の上で思い切り握り締めていた若菜の手が震える。
「こうやって、何とか口にできるのも、隣にいる奴のお陰だと思ってるから」
 と、数秒の沈黙が続いた後。
「ああもう恥ずかしいんだからそうやって沈黙しないでくれるっ? 笑い飛ばすなり逃げるなりしてよ、私が一番逃げ出したいんだけど! っていうか明日からどんな顔してればいいってのよ!」
 逆切れだ。恥ずかしさにパンクした若菜はバン、と両手をテーブルに叩き付けた。痛みに沈黙した。
「ね、寝る! 忘れる! 私、今のは忘れるから!」
 若菜は勢い良く立ち上がり、混乱したまま叫んだ。叫びながらその場を離れて階段を駆け上がる。全員の姿が見えなくなったら更に羞恥心が首をもたげた。素直になろうと思えば思うほど反発心が強くなるようだ。
「死ぬ……」
 階段の一番上で、若菜はぐったりと座り込んだ。
 顔を上げると振り返る。誰も追ってこない。まさか本気で逃げ出すわけにはいかない。どうなったのか興味もある。
 若菜は羞恥心を押し殺し、音を立てぬように階段を下りた。
 廊下の影からそっとリビングを窺ってみる。
 正面に座る厚志にだけは気付かれ、視線が絡んで若菜は慌てた。意に反して睨みつけ、不機嫌な顔で「さっさと進めろ」と手信号で訴えてみる。
 厚志は苦笑して義之に向き直った。
「あの」
「な、なんだ」
 動揺も露な声だった。情けないその声に、若菜はガクリと脱力して引きつった笑いを零す。そんな若菜を視界の隅にし、厚志は喋るのが少し辛そうに眉を寄せた。
「腹を立てるのは当然だと思いますが、私は若菜さんとのことをお金の関係だと思っているわけではありません」
「嘘も方便」
 若菜は小声でツッコミを入れた。
「将来を視野に入れながら付き合いたいと思っています」
「恥ずかしい台詞だな」
「このような形でご挨拶に伺うつもりではありませんでしたが、改めてお願いがあります」
「いや……ちょっと待て、厚志?」
 黙って聞いていたわけではないが、ひとまず黙って聞いていることになっていた若菜は、不穏な雲行きに表情を変えた。腰を浮かせて厚志を見る。
「若菜さんと、結婚を前提にしたお付き合いを許し」
「死ね馬鹿!」
 若菜は手近にあった『よい子の学習百科・昆虫編』をつかんで投げた。
 厚志は見事に避けた。
「いきなり何でそこまで話が飛躍してんのよ!」
「そう、だな。若菜ももう二十一を過ぎたしな」
「そこの親父! 今こそ止めろよ悩むなよ!」
 あんまりな展開に若菜は叫んだが、義之に声は届かない。彼は真剣に悩んでいるようだった。
「何しろ口を開けば罵詈雑言しか出てこなかった若菜から、あんな言葉が出てくるキッカケを作った男だ」
「ちょっと……ねぇ」
 嫌な成り行きに沈んでいく若菜とは反比例に、由紀子が表情を輝かせていく。ついでに言えば、誰よりも若菜と共犯であるべきの厚志までもが止めようとしない。
「殴られても呻き声ひとつ洩らさなかったしな。気に入ったよ」
 笑顔で手を差し出した義之に、厚志も手を出して握手した。二人とも笑顔だ。殴り合って芽生える男同士の友情があったらしい。
「そんな和解方法に納得してたまるかー!」
 若菜は力いっぱい叫んだが相手にされない。
 突然の試練は、そんな形で幕を下ろしたのだった。


END
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