四面楚歌の抜け道
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1.

 年度が変わって心機一転。社会人は新たな人材環境の中で仕事に取り組む幕開けの月。総じてそれは出会いの多い季節。
 帰ろうとしていた若菜は呼ばれた気がして振り返った。
「秋永さん」
 視線の先にいた青年の姿に瞳を瞠らせる。
 若菜より頭一つ分背の高い青年は、四月から同じ部署で働くことになった秋永和人。
 彼と仕事をするようになってから一週間が経った。大輝が先月から仕事を仕込んでいたお陰で、彼は驚くほど早く職場に溶け込んだ。仕事も速いので評判もいい。ただしその好評は、条件付だ。
「もう帰るんですか?」
「ええ。秋永さんはまだ残ってるんですか?」
「このあと鮫島さんと約束してるんで」
「――そう」
 ひくりと頬を引き攣らせた若菜に気付いたのかどうか、和人は微笑むと階段を下りてきた。若菜の体が知らず強張るのは、ここ一週間で感じた彼の人柄ゆえだろうか。怯むのが嫌で無表情を保っていると、彼は隣に立った。
「阿部さんともいずれお話したいですね」
「仕事関係だったら充分お話はしていますけど」
「違いますよ。もっと深いお話です」
 獲物を狙う肉食獣のような瞳。それを隠す穏やかな笑顔を向けられるが、若菜は表情を変えない。誰が変えてやるものかと鉄面皮を保ち続ける。
 入社してから一週間、彼には女関係の話ばかりがつきまとう。
 先月、大輝がぼやいていた通りの青年だという訳だ。
 彼は課長が頭を抱えるほどの問題児ぶりを発揮している。今のところ仕事に支障はないが、いつどこで影響してくるのか分からない。何より彼の行動は、他の女性社員の反感を買っていた。
 ――解雇すればいいのに。
 若菜は何度もそう思ってきたが、社長の決定に逆らえる者などここにはいない。
 無視も排除もできず、つかず離れずの距離を保って今日まで来た訳だが、毎日女性を変えて連れ歩く和人の姿を見ていれば、噂に頓着しない若菜でも警戒心が湧こうというものだ。
「阿部さんって今年の親睦会の役員なんでしょう?」
「そうですね。毎年恒例で、来年あたりは秋永さんに回ってくるんじゃないですか?」
「今は何を企画してるの?」
「さぁ……私は肩書きだけの役員なんで何とも。仕切っているのはほとんどが高橋さんですし」
 若菜はもう一人の親睦会役員、高橋の名前を挙げた。
 本当はしっかりと若菜も役員として活動している。親睦会では和人の歓迎会をしようという案が持ち上がっていることも知っている。しかし教えたりしない。そういうことは本人に内緒で進めた方が絶対に楽しい、と親睦会では暗黙の了解になっているし、教えてしまうのは癪に感じられた。
 若菜は適当にはぐらかそうとした。
 和人は「ふうん」と瞳を細めただけで、大した興味はないような反応を見せる。
 その表情や仕草がいちいち気に障って仕方のない若菜は眉を寄せた。早々に切り上げて帰ろうと思った時、和人の背後に大輝を見つけた。
「大輝先輩!」
 階段の折り返し地点から、若菜は大輝に声を掛ける。
 大輝は驚いたように視線を巡らせ、階段にいた若菜を見つけると笑顔になった。しかし若菜の隣に和人がいることを見つけると、瞳を見開かせて寄ってきた。
「阿部さん、とっくに帰ったと思ってた。秋永と何の話?」
「え……と。何の話でしたっけ?」
 何、というほどのことでもない。
 若菜は窺うように秋永を見上げたが、彼は微かな不機嫌を乗せて大輝を睨んでいた。新しく入った和人にとって、元から女性社員の注目を浴びている大輝の存在は邪魔なのだろう。
 大輝が近づいてくると肩を竦めて若菜から離れる。
「怖い顔しないで下さいよ、先輩。俺は俺なりに皆と仲良くなろうと必死なんですよ」
「女性社員とだけな」
 大輝に冷たく遮られた和人は、これ以上若菜と話続けることを諦めたようだ。ヒラヒラと手を振ると階段を駆け上がった。
「こら秋永!」
「先輩ったらヒステリー」
 駆け上がった和人はふざけた口調で笑い、そのまま壁の向こう側へと消えた。大輝が忌々しげに舌打ちする。
「あいつは、まったく……」
「ありがとうございます、大輝先輩。ちょっと、どうやって離れたらいいのか分からなくて、困ってました」
 大輝は若菜を振り返ると微かに笑った。
「そう。良かった。じゃあ、気をつけて帰ってね」
「はい。先輩も、仕事はほどほどにして帰って下さいね」
「ああ」
 大輝に浮かぶいつもの笑顔に安堵して、若菜は笑った。彼が秋永を追いかけて階段を駆け上がるのを見送る。
 秋永和人は若菜の下につけられた新人だ。後輩の存在に最初は喜んだ若菜だが、生憎と人選が悪かった。最初こそ打ち解けようと奮起したが、彼のちょっとした仕草や言葉が気に障り、何度殴りたいと思ったか知れない。非情に苦手な人種だということが分かっただけだった。
 和人は女性に対し、総じて人当たりの良い性格をしている。彼が入社してからそれほど経っていないにも関わらず慕う女性が現れるほどだ。けれど女性社員と仲睦まじいその様子を側で見ていた若菜は嫌悪感を覚えていた。彼が浮かべる表情がすべて偽りのような気がしていた。瞳だけがいつも怒りを湛えているように見えていた。仮面を被る姿が自分と似ていると思った瞬間、同属嫌悪が湧き上がり、彼と打ち解けることを諦めた。
「気が重いなぁ……」
 これから同じ仕事をしていなかければいけないというのに。
 若菜は重い足取りまま階段を下りて、そう呟いた。


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 険しい表情で窓を睨んでいた若菜は声をかけられて顔を上げた。
 気付けばバックミラー越しに、島田が心配そうな視線を向けていた。
「お困りごとでもございましたか?」
 島田は今年度から正式雇用されたらしい。前の会社の引継ぎで年度末は若菜の送迎を休んでいたが、今はしっかりとその役目に戻っている。以前にも増して生き生きと若菜の送迎に精を出している。若菜は心苦しかったが、彼が元気であるならいいかと、その立場に甘んじることにしていた。
「新しい人たちには馴染みませんか?」
「あー……と、ええっと……」
 どう答えたら良いものか。
 若菜は常にないくらい言い淀んだ。それが島田の笑いを誘い、車内には明かるさが戻る。相変わらず良い声で、悩みも忘れて若菜もつられる。
「急に馴染めと言われても無理からぬお話です。おいおい時間が解決してくれますとも」
「……そうですね」
 和人の女性関係は時間が経つほど広がりそうな気がした。しかしそんなことを若菜が思い悩んでいても仕方ない。考えるのが馬鹿らしくなって素直に頷く。迷惑が自分に降りかからない限りは放っておくことにした。
「それより島田さん。本当に前の会社、辞めちゃったんですか? 眼鏡屋さん」
「眼鏡屋さん?」
 話題を変えるべく身を乗り出す若菜に、島田は首を傾げた。だが次に、彼は先ほどを上回る朗笑を上げた。若菜が指す言葉の意味に思い当たったのだろう。
「まぁそうですね。前の場所は辞めましたが、根本的には変わっていませんから、私にはそれほど違和感がございませんよ」
「根本的?」
「ええ。どちらにしても私は斎藤グループの社員ですしね」
 若菜の瞳が丸くなった。それを見た島田は微かな含み笑いを見せただけで前を向いた。いつもの送迎ルートを通り、いつもの町並みを眺め、若菜を家まで送り届ける。
「それでは若菜さま。また明日。今日はここで失礼致します」
 島田はわざわざ外に出て若菜の前に立ち、軽い礼をして去っていった。若菜は彼の車が見えなくなるまで見送る。
 安西邦光という後見人がいるくらいだから、厚志はそれなりの者なのだろうと漠然と感じていた。だがグループと呼ばれるものが存在するとは思っていなくて少しだけ驚いた。それほど大規模な世界の住人だったのかと思う。
 厚志を少し遠くに感じるような情報だったが、だからといって今までの態度を改めようとか、これからの接し方を考えよう、とは思わない。厚志は厚志のままだ、と苦笑しながら思う。
 玄関に入った若菜は、そこに男物の大きな革靴を見つけて複雑になった。
 マンションに一人でいたくないという彼の心情は既に知っている。帰れ、と本心から強く告げることはできなくなっていた。
 リビングに入ると厚志が寛いでいる。夕飯の用意をしていた由紀子が気付いて声をかけた。
「お帰り、若菜。お風呂沸いてるから、さっさと入って来ちゃってね」
「……一番風呂はどこの誰」
「もちろん俺」
 若菜の脳裏に“浴槽の栓を抜く自分の姿”が浮かんだ。
 もったいないので実行には移せない。いっそ消毒剤を買って来て浴槽に沈めた方が安いかもしれない。
「プールに沈めてる塩素って、市販で手に入るのかな」
 若菜はぼんやりと呟く。疲労が最高潮に達しているようだ。意味の分からない思考回路に繋がった。
 厚志の無言の視線が突き刺さってかぶりを振る。彼の口が開く前に、若菜は通勤鞄を彼に投げつけた。声を無視してリビングを出る。追いかけてくる気はなかったようで、自室へ戻ると厚志の声は聞こえなくなる。
 若菜は部屋の扉を閉めると背中をつけた。長いため息を吐き出して座り込む。
 インフルエンザに罹って安西宅に泊まりこんだ日々が遠い過去に思えた。それだけ今が忙しくて頭が回っていない。父親の問題までも湧き上がってきたときはどうしようかと思ったけれど、何とかなるものだ。いつの間にか決着はついている。
 しかしそれ以来、厚志に強い拒絶を向けることができなくなった。これまで遠慮なく罵詈雑言を浴びせてきたというのに、今は、いざそうしようとすると、彼が見せた様々な感情が脳裏をよぎってためらってしまう。
 自分の父親を断言した表情。日華里のことを語ったときの表情。昔を楽しげに思い出すときの表情。どれもが、若菜の攻撃的な感情を落ち着かせる何かを持っている。家に入り浸ることを許しているのもその一環だ。
 憎むだけの対象であれば良かったのに、中途半端に過去を知ってしまったから憎みきれない。何て厄介な人物と再会してしまったのだろう。おまけに“斎藤グループ”などという大層な名前まで聞かされて、前途多難に思われた。
 若菜は不意に湧いた気持ち悪さに顔をしかめた。
「顔見てると腹が立つんだよね」
 あえて言葉にする。コートもスーツも脱ぎ、暴れるように投げ捨てる。埃など知るかと深呼吸する。
「何でいつの間にかこっちが一歩引いてるみたいな距離になってるのよ。もう!」
 言葉にしていると沸々と怒りが蘇る。それにつられるように、若菜の手にも勢いが戻ってきた。素早くパジャマに着替え、新たな下着類を持って脱衣所に行く。厚志が一番風呂に入ろうが何をしようが、風呂のお湯に罪はない。
 若菜はブツブツと呟きながら浴室に入り、篭る湯気に眉を寄せた。
 浴槽の蓋をあけて腕を入れ、熱を確かめようとしたが、弾かれたように腕を引き上げた。
 ギリリと奥歯を噛み締める。
「こんな熱湯、熱くて入れるかーーっ!」
 厚志が設定したのは嫌がらせのような高温。
 若菜は苛立ち分も含めて盛大に叫ぶ。遠くで厚志の笑う声が聞こえた気がしたのは、きっと気のせいではない。

 
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