四面楚歌の抜け道
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3.

 叫び出したいくらいの自己嫌悪はあるものだ。
 若菜の場合、それは今回仕事に現われた。
 これまでさほど落ち込むこともなく順調に来ていた若菜は、酷い後悔に苛まれていた。どうしようもなくて唇を噛み締める。
 事情は簡単明白、仕事上の失敗。
 出張から戻った課長に呼び出された若菜は、何だろうと思ったのも束の間、怒鳴りつけられた。
 初めての経験に驚き、肩を震わせて硬直した。苛立つ課長の手には、若菜が作成したデータ書類が握り締められている。
「しっかりと見直ししたのかっ?」
 そう叫ばれて言葉も出ない。何度も頷く。課長が出張先で使う大切な資料だと聞いていたため、何十回と見直した。違いを見つけるたび訂正した記憶はまだ新しい。しかし、あれほど確認作業を行っていたというのに、まだ間違えていたというのだろうか。
 若菜は青褪めて唇を震わせた。どこを間違えていたのか尋ねようとして息を呑んだ。怒り心頭の彼は、若菜の目の前で資料をシュレッダーにかけた。
「ひとつふたつなら誤植で済ませられるが、ほとんどの数値がでたらめだった。今回のプレゼンは散々だったよ」
 怒鳴り疲れたのか課長はため息をつくと椅子に腰を下ろした。
 若菜はどうしたらいいのか分からず、震える声で謝った。場所はいつもの課長席だ。職場の誰もが固唾を飲んで注目しているのが分かる。場所も選べないほど、こんなにも強く怒られたのは初めてだった。
 課長のため息に体を震わせる。
 ようやく我に返った課長は固い声で「席に戻れ」と告げた。だが若菜の足は動かない。そんな若菜にかけられる声はなく、彼は自分の仕事へ戻った。多分、今回の後始末だろう。視線はもう若菜に向けられない。徹底的に無視をされた。
 若菜は何とか席に戻ったが、目の前を暗闇に支配され、とても平常心ではいられなかった。激しい後悔ばかりが胸を占める。
 最近は忙しかったが、課長が利用する書類に関してだけはしっかりと確認を重ねたはずなのに。もっと確認を重ねれば良かった。安易に「いいか」と微笑んだ過去の自分を激しく罵る。
 浮かんでくるのは自己嫌悪の言葉ばかりだ。
 パソコンを開き、何とか自分の仕事に戻ろうとしても手につかない。視線は落ち着かなくさまよい、ただ仕事をしているフリだけになってしまう。
 30分ほど経った頃だろうか。
 ようやく怒りを宥めてきたらしい課長に「怒鳴って悪かった」と謝罪され、もう一度、書類提出を命じられた。
 若菜は今度こそ、と慎重に頷いたのだった。


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 ほとんどが退社し、職場に残るのは若菜と大輝だけになった。
 普段はあまり遅くならない程度に切り上げて帰る若菜だが、今日ばかりはそうもいかない。皆もその経緯を知っているために「帰らないの?」とは聞いてこない。労わりを込めて励ましてくれるだけだ。
「阿部さん。ほどほどにね」
「はい」
 帰り支度をしていた大輝は、若菜にそう声をかけた。
 鞄を持って扉まで行き、何と声をかけようか迷う様子を見せながら若菜を振り返る。
 若菜はすでに立ち直っていた。
 皆の心遣いに素直に感謝しながら、彼にも笑顔を見せる。
「お疲れ様です、大輝先輩」
「うん……」
 気兼ねしないようにと若菜から先に声をかけた。
 大輝は後ろ髪を引かれるように、気乗りしない様子で職場から出て行く。その後ろ姿を見送ってしばらく経ってから、若菜は複雑にため息をつく。一人で残されると途端に寂しさが身に染みた。
 課長に頼まれた書類資料はすでにできあがっている。あとは見直し作業を終えるだけだ。以前のときもそうして何度も見直しを繰り返した。内容を朧に記憶しているほど何度も確認した。それなのに、新たな書類と記憶とを比べてみるが、違いが分からないのだ。課長はほとんどの数値が間違えていたと言っていたが、若菜の記憶を辿る限り、間違えているとは思えない。途方に暮れてため息をつく。
「元の書類はシュレッダーにかけられたしなぁ」
 まさかシュレッダーのゴミから探し出し、パズルのように組み合わせるわけにもいくまい。
 若菜は一種の現実逃避をしながらシュレッダーを見つめた。
 温厚な課長があれほど怒るくらいだ。凄まじく間違えていたのだろう。
 正気に返った課長の謝罪を思い出して頬を掻く。間違えたのはこちらなのに、複雑だ。
「……もしかしたらデータの方が間違っているのかも」
 倉庫からパソコンへとデータ入力していたものを指して呟いてみたが、可能性は低い。パソコンに落とされたデータは、今まで何十回と使ってきたものだ。他の人も何度となく使っている。データ自体が違うことはまずあり得ないだろう。
 それでも、他にするべきことがない。
 若菜は、いい機会かもしれないと前向きに考えてデータの確認をすることにした。暗くなる気持ちを努めて明るくして倉庫に向かう。そのとき、角を曲がってきた誰かの影に飛び跳ねたくなるほど驚いた。
「――っ、だ、なんだ……秋永さんじゃないですか。ビックリした。まだ帰ってなかったんですか?」
 角から出てきたのは和人だった。今までどこにいたのか、暗い顔をしている。思えば和人が帰る姿は見ていなかった、と若菜は思い出した。
 和人がためらうように口を開いた。
「俺も手伝おうかと思いまして」
 あまりにも意外な言葉に、若菜は目を見開いた。
 和人は絶対に人を助けようとしないと思っていた。誰かが苦労していてもそれを当然だと思い、自分のことを優先するような人物だと思っていた。
 若菜はそんな偏見を恥じるように笑った。和人に抱いてきた嫌悪感が帳消しとなり、好感度が大幅に上がる。とても有難い申し出だ。だが、この仕事だけは自分でやってしまいたい。
「ありがとう。でもいいんです。私に頼まれた仕事ですから。それに見てましたよね、私が怒られてたの。自分でやりたいから、いいんです」
 そう告げると和人は黙り込んでしまった。真剣な表情のまま何かを考え込んでいる。
 若菜は不思議に思って首を傾げるが、話しかける言葉は思いつかなかった。大輝が声をかけたように「気をつけてね」と和人の肩を叩いて書庫へ行こうとした。
 書庫に入るためには鍵が必要だ。
 扉付近にある保管庫から鍵を取り出そうとした若菜は、和人に手をつかまれて驚いた。腕を引こうとしたのだが、彼の強い力は緩まない。
「な、何ですか?」
「――悪かったと思って」
「は?」
 予想のどれをも裏切る言葉に若菜は瞳を丸くした。窺うように和人を覗き込む。
 和人は若菜をその場に留めて手を放した。見つめる瞳には申し訳なさそうな色が滲んでいたが、そんな瞳を向けることが不本意そうに眉を寄せて唇を引き結び、和人は若菜を見ていた。
 若菜は混乱したまま彼を見返す。
「まさかあれほど大事な場面で使われる書類だとは思ってなかったんです。どうせ直ぐに気付くだろうと思ってて……まさかあの課長が見直しもせずにそのまま使うとは思ってもなくて。すいません」
「な、何が……?」
 ここまで聞かされてしまえば若菜も漠然と悟る。しかし認めたくない。頭では分かっていても、口は勝手に先を促す。混乱したまま和人を凝視する。
「ただの八つ当たりだったんです。すいませんでした」
 若菜は呆然とその言葉を受け止めた。拳を握り締める。静かな湖面に波紋が生まれるように、沸々とした怒りが込み上げる。波紋は広がっていく。
 若菜が課長に提出した書類は和人によってすり替えられていた。意味の分からない、八つ当たりとやらのために。
「八つ当たりって、何……」
 目の前が白くなる。確かに和人を見ているのに、誰か別の人間が自分の口を使って喋っているかのような感覚だ。
 和人が顔を上げた。そこにはいつもの顔がある。殊勝な態度が嘘のように飄々としている。
「俺、本当だったら今頃は斎藤グループの社員として本社勤務だったんですよ。内定も貰ってました。やっと厚志先輩と働けるんだと期待してたんです。それなのに配属をこっちに変えられました。理由を聞いてみれば貴方のお守をしろってことじゃないですか。最悪だ。だから、これは八つ当たりだったんです。悪いと思っています」
 若菜と和人しかいない職場に、風船が破裂したかのような音が響いた。誰がも首を竦めて恐る恐る振り返りたくなるような音だ。
 若菜が和人を平手打ちした音だった。
 奥歯を噛み締め、涙が浮かぶのを必死に堪えて和人を睨みつける。彼の頬を叩いた手が、痛みで熱くなるのを感じて握り締める。
 これまでも大輝関係で恨まれることが多かった若菜は女性社員から様々な嫌がらせを受けてきた。
 若菜だけを無視。大輝に若菜の悪口を吹き込む。大輝から引き剥がそうと、顔の造作が整った男で若菜を誘惑する、といったものだ。
 それらは若菜だけにダメージを与えられるように画策された嫌がらせだった。だが、例え無視をされても仕事に関して質問をすれば的確な答えが返ってくるし、大輝は若菜の悪口など気にしていない。最後の嫌がらせに関しては逆に同情を覚えるほど端的に断った。
 どれも仕事に差し障りない程度におさめてくるため、本気で怒りを覚えたことはない。次は何を仕掛けてくるのかと呆れるだけだ。
 だが、今回の嫌がらせは、悪質すぎた。
「最、低」
 ようやくそれだけを絞りだす。
 殴られた和人は頬を赤くし、勢いのまま仰け反っていた。体勢を戻すと笑う。唇の端だけを持ち上げて若菜を見下ろす。馬鹿にするように。
「厚志に頼まれて、来たの……?」
「そうですよ。聞けば阿部さん、かなり無茶な性格してるそうじゃないですか。基本的に厚志先輩は過保護なんですよね。日華里さん失ってから磨きがかかってる。まぁ、気持ちは分かりますけど。ここ数日見てただけで、阿部さんは強がりだけが一人前みたいだって分かりましたし」
 若菜はグッと拳を握り締める。爪が食い込んで白くなる。
「日華里さんも強い人でしたけど、阿部さんはそれ以上だ。日華里さんには感謝してますけど、それで死ぬんだからムカつく女ですよね」
 和人の口調は嘲笑も露なものだった。
 若菜は怒りを必死で堪えながらそれを聞いていた。日華里には会ったこともないが、彼女のことを悪く言われると、その両親である安西さんたちまでも悪く言われているように感じる。
「厚志先輩を立ち直らせてくれたことだけは感謝してますけど」
 今しも手を振り上げかけていた若菜はすんでのところで勢いを削がれた。
「立ち直らせる……?」
「ああ、阿部さんじゃありませんよ? 日華里さんです。厚志さんが高校に行こうって気にさせてくれた女性なんですから」
「何、それ?」
 初耳だ。怒りを驚きが凌駕した。
 力を抜いて拳を両脇に下ろす若菜を見て、和人は馬鹿にしたように笑った。
「なんだ。あんた何も知らないんだな」
 最後に残った理性の欠片を容易く奪い取る言葉。
 若菜は視界に入っていたハンコ入れの小型金庫をつかみ、和人に投げつけた。

 
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