四面楚歌の抜け道
前へ目次次へ
4.

 確かに私は何も知らない。それでも、それは課長に恥をかかせたり、暴言を黙って受け入れる理由にはならない。
 若菜は衝動のまま職場を飛び出した。机の下に置いてある鞄をつかめば帰宅準備は完了だ。机の上に散らかしていた荷物を脇に追いやり、和人の顔を一度も見ないまま憤然と飛び出した。
 島田の送迎は断っている。帰りがいつになるか分からないまま島田を待たせておくわけにはいかない。断りの連絡を入れたとき、それならば代わりに厚志の送迎を待つことと約束させられた。しかし外に出て、携帯にかけても厚志は出ない。何コール目かに留守電へと切り替わる。
 肝心な時に出ないのだ。そんな些細なことも、今は大きな怒りとなって蓄積する。
 自宅に電話をかけ、厚志が来ていないことを確認した。再び彼の携帯にかけてみたが相変わらず留守電に切り替わってしまい、若菜は苦々しい思いで携帯を閉じた。
 タクシーを停めて厚志のマンションへ行くことにする。朧な記憶を頼りに運転手に指示をするが、道に迷った分、料金も高くついて、それもまた忌々しい。
 ここだけ別世界のような雰囲気を醸す高層マンションを見上げ、若菜はひとつ息を吸い込むとマンション内に入った。以前は誰もいなかった管理人部屋に、今は年配の管理人らしき男性がいた。不審者だと追い返されるわけにはいかない。
 若菜は「厚志の恋人です」と笑顔を浮かべながら指輪を掲げて説得する。管理人はなぜか喜んで若菜を招きいれ、厚志の部屋の鍵まで授けてくれた。サービス精神旺盛な老人だ。
 若菜は獲得した鍵を握り締め、エレベータなど待っていられるかとばかりに階段を駆け上がった。見覚えのある廊下に出て、表情を強張らせたまま厚志の部屋へ辿り着く。
 ここまで勢いできたが、徐々に頭が冷えてきた。沸々とした怒りが、まるで溶岩が冷やされたかのように固まって、心の片隅にあった。
 若菜は厚志の部屋の前で呟く。
「なんかもう、何を怒ってるんだか分からなくなるくらいムカついて気持ち悪いんだけど」
 部屋の前でもう一度だけ厚志の携帯にかけてみる。再び留守電になるだろうと思ったが、今度は電源を切ってあった。着信履歴が残っているはずなのに、何の連絡もなしに電源を落としたのかと、唇を引き結ぶ。
 もしかしたら居ないのかもしれないと思いつつ鍵をあける。扉を開く――途中で止まる。ガン、という音がした。
「チェーン……」
 若菜は暗く笑う。これで厚志が中にいることは確定された。
 チェーンを忌々しく睨みつけ、若菜は腕まくりをする。
「私の腕の細さをなめるな」
 良く分からない挑戦的な言葉を吐いて、わずかに開いた扉の隙間から腕を伸ばした。腕が変な方向に曲がりそうなくらい無茶をするとチェーンに指がかかる。若菜は腕に食い込んでくる扉の痛みに顔をしかめながら、何とかチェーンの解除に成功した。侵入者のできあがりだ。腕を見ると、扉に挟まれていた部分が赤くなって跡が残っていた。
 若菜は廊下に置いていた鞄をつかんで汚れを払う。できるだけ気配を殺して玄関に滑り込む。
 玄関には厚志の靴が脱ぎ捨てられていた。慌てて帰って来たのか、揃えられてもいない。何となく、爪先で厚志の靴を踏み潰してみた。
 暖房がつけられていて、家の中は暖かい。厚志の気配がする。
 若菜は声をかけないまま上がりこみ、明かりがついているリビングへ向かった。そこにいるであろう厚志に、リビングの扉を開けざま文句を言おうと口を開き、そして、固まる。そこにいた意外な人物に目を疑った。
「厚志さん」
 嬉しげに若菜を振り返ったのは、厚志ではなく、女性だった。
 一度だけ見たことのある、可愛らしい女性だ。バレンタインデーの日に会った。麻衣子と呼ばれていた。
 彼女は若菜の存在が不思議だったらしい。状況を理解できないのかきょとんとしていたが、我に返るのは麻衣子の方が早く、彼女は表情を一変させると若菜を睨みつけた。
「チェーンをかけていたのに、貴方、どうやって入ってきたの? 卑しい人ね」
「厚志は?」
 若菜は聞き流した。麻衣子は不機嫌そうに眉を寄せる。
 しかし呆然とする若菜を見て少し気が晴れたのか、麻衣子は艶めく黒髪を掻きあげて微笑んだ。化粧を施し、瞳を細めて微笑むその姿は、女である若菜がドキリとするほど嫣然として見えた。妙な焦燥が若菜に生まれる。
「厚志さんなら今、入浴中よ」
 その言葉に動揺するのもどうかと思った若菜だが、考えとは裏腹に心臓が強く鳴った。持っていた鞄を握り締めてそのまま立ち尽くす。
 電源を切られた携帯。チェーンをかけられた部屋。迎えに来ない厚志と、その部屋にいる麻衣子。そして彼は、現在は入浴中だという。
 それらの符号から導き出されるものは1つだけのような気がした。
 裏切られた、という思いが強く刻まれる。単なる契約だけだったのだから『裏切り』は言いすぎなのかもしれないが、哀しくなる。
 感情が胸の内で激しく交錯していたが、鉄面皮のため表面上は何も変わらない。そんな若菜を見て、麻衣子はつまらなさそうに唇を尖らせると腕組みをした。
「貴方、邪魔だから出て行ってくれる? これから私は厚志さんに抱かれるんだから」
 勝ち誇ったように高飛車な態度。
 バレンタインデーのことを思い出した若菜は「まさか」と一笑しようとしたが、反して動悸が激しくなった。悔しい思いが湧き上がる。何も言わずに踵を返す。
 廊下に出れば、先ほどは気付かなかった水音が聞こえてきた。
 若菜は風呂場に向かい、明かりが零れる扉の前に立つ。近寄ると、厚志と思われる影が遠くにぼんやりと浮かんでいる。
 若菜は声をかけようと口を開く。しかし先に声をかけたのは厚志だった。
「麻衣子か?」
 そう、問いかけられた。
 若菜は双眸を瞠ってその場から逃げ出す。そのまま家を飛び出した。聴覚が失われて、真っ暗な中に放り込まれたような気がした。
 春とはいえ、まだこの地方は肌寒い。マンションから出た若菜は直ぐに体が冷えていくのを感じる。好意から鍵を出してくれた管理人に礼を言い、そのまま外へ出る。管理人は何か聞きたそうな顔をしたが、若菜は無視をした。
 体を震わせて空を見上げる。無数の星々が夜空を彩り、非常に綺麗だった。しかし、次第に視界が滲んで見えなくなる。
 確かに私は偽りの婚約者だけど、と視線を足元に落として唇を噛み締めた。俯いた拍子に一滴が頬を滑って落ちた。
 大通りから外れていたためか、街灯もない夜道を歩き出す。
 桜はまだまだ蕾が小さい。満開となるにはかなり待たなければいけないだろう。
(去年は5月に親睦会でお花見をやったよね。今年も、来月あたりにはお花見開くんだろうな。……そこには秋永和人もいるわけか)
 苦く思った若菜は足を止めた。
 麻痺していた、夜道への恐怖が唐突に蘇った。
 和人のことを思い出したからだろうか。若菜は彼につかまれた腕をもう片方の手で包み込むように抱く。感じた男の力を思い出して体を硬直させる。ストーカーに殺されかけたことまで連想され、若菜は視線を周囲に巡らせた。
 春の夜道といえば露出狂の生産地帯。彼らは明るい街灯の下を好むらしいが、街灯がないならないで危険に変わりはない。それに気付いてしまったら恐ろしく、若菜は硬直して立ち尽くした。
 島田さんに連絡したら迎えに来てくれるだろうか。
 若菜はそう思ってためらった。彼は厚志の部下だ。例え彼が来てくれても、八つ当たりをしてしまいそうな気がする。
 厚志とはただ契約をしていただけで、それ以上の感情など抱いていない。傷つく必要はない。それなのに、なぜこうも苦しいのだろうか。痛みと恐怖で動けそうにない。長く一緒にいたため情が移ったとでも言うつもりなのか。
「なによ、もう。なんで私があんなこと言われなきゃいけないのよ。冗談じゃないよ」
 風が吹いて木の葉を揺らした。葉ずれの音がやけに大きく聞こえ、若菜は震える。夜闇に目を凝らすと余計なものを発見してしまいそうな気がして足元を見つめる。しばらくそうして、若菜は顔を上げた。両手を胸に組んでぎこちなく振り返る。近くに公園があることに気付き、そちらに足が動いた。
 夜の公園などさらに危険だ。気付かない若菜ではないが、今は忘れていた。単に『ベンチで休もう』としか思っていない。明かりに引き寄せられる。休んで少し落ち着けばいつも通りに戻れるはずだと信じ込む。それでもまだ動けないようなら、由紀子に連絡を取ってもいい。
 公園に向かっていた若菜はそこまで考えて我に返った。
「そうだよ。携帯があったんだ」
 滅多に活用しないため、存在自体を忘れていた携帯。
 携帯って便利だな、などと若菜は現金にも頬を緩ませて家の電話番号を押そうとした。
 その瞬間、心臓が音を立てて飛び跳ねた。
 誰もいないはずの通りに強い足音が響いたのだ。
 早く連絡しなければと、携帯を握る手が震えていた。いつもなら笑い飛ばせるはずのそれが、今は恐怖を煽るものでしかない。足が動かない。殺されかけたことも思い出し、振り返って相手を正視するなどできそうもない。
 響く足音は歩いたり走ったり、不規則に近づいてきていた。比例して若菜の心臓は破れそうなほど早く鼓動を刻む。恐怖で息も切れ切れになる。流れ落ちる汗が冷たい。
 嫌だ。誰か助けて、と携帯を胸に握り締めた。
 俯いた若菜は、足音が何かを見つけたように早まったことに気付いて、背中を震わせた。足音は真っ直ぐに若菜に向かってくる。
 若菜は双眸を瞠って奥歯を噛み締めた。いざとなったら携帯を投げつけて怯ませようと考える。けれど、若菜は肩を叩かれた瞬間にもその場に崩れていた。
「若菜っ?」
 悲鳴すら出せなかった若菜は、驚く声にゆっくりと顔を上げた。
 若菜のそばにしゃがみこんできたのは厚志だった。その顔を見た瞬間、若菜は彼の頬を殴りつけていた。緊張がプツンと音を立てて弾けた。
 和人を殴ったときは平手だったが、今回は拳だ。目測誤り手首で殴ってしまったため、手が痺れるように痛む。
 厚志は絶句したが、若菜が泣いていることに気付いて表情を改めた。
 若菜は睨みつける。恐怖で顔が引き攣り、さぞや酷い顔になっているだろうと思う。けれど、自分ではそれを止めることができない。言葉の代わりにしゃくり上げる。酸素が切れたように息が上がる。
 ただ睨みつけていると、厚志はためらったように抱き締めてくる。風呂上りのせいか、湿った匂いが鼻につく。
 首に腕を回すと抱え上げられた。力が抜けていて、自力で歩けないことを見越しての行動だ。若菜は小さな声で「ムカつく」と吐き出した。笑い声が服越しに響いてきて、さらに『ムカつく』、と思った。
 若菜は厚志の肩越しに見える路地の暗闇を見つめる。彼の首に回す腕に力を込めた。

 
前へ目次次へ