四面楚歌の抜け道
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5.

 目の前にカップが置かれる。その小さな音に若菜は体を震わせた。異常なほど神経過敏になっている。湯気を上げるココアを凝視し、若菜は視界に入った厚志の体に視線を上げた。暖かそうな手編み風セーターを見つめる。
「麻衣子さんは?」
「蹴り出した」
 厚志は忌々しそうに吐き捨てる。その一言で、麻衣子の言葉がただの虚言だと知れる。ココアを飲むついでに胸を撫で下ろす。手足の末端までも熱が染みていく気がした。若菜の鼻が鳴る。
「一人であんな場所歩いてんなよな。殺されかけたこと、もう忘れたのか」
 若菜の正面に座った厚志は軽く睨んだ。口調がそれほど尖っていないのは、先ほどまで泣いていた若菜を気遣ったためか。意外な優しさに、若菜は居心地が悪くなる気がした。
 視線を上げて厚志の瞳に合わせる。そこには苦い色が浮かんでいて、不満を表すように表情は険しい。
 厚志はテーブルに両肘をついて両手を合わせた。視線は若菜から外れないままだ。
 髪は生乾き。先ほど抱え上げられた時もシャンプーらしき匂いがしていた。家に若菜が来たと気付いて、麻衣子を追い出したあとに、髪を乾かすこともないまま追いかけてきたのだろうか。
「お前、聞いてる?」
 カップを持ち上げたまま思考を飛ばしていた若菜は、その声に瞬いた。無言のままカップを置いて視線を逸らす。テーブルに肘をついて頬を抱える。怒っていたことを思い出す。
「秋永和人から聞いた」
「俺も聞いた」
 なんだその返答は、と睨みつけると笑われる。
「だから俺は殴られたんだろう?」
 若菜は唇を尖らせたまま視線を厚志に戻した。彼の頬は少々赤くなっている。口の中は切れていないようで、笑い方も不自然ではない。むしろ殴った若菜の手首の方が痛いくらいだ。
 若菜は憮然と落ち込んで、何を聞きに来たのだっけと思考を巻き戻す。ここへ来る前、確かに開口一番聞こうとしていたことがあった。しかし麻衣子の存在によって言葉はすっかりと失われてしまっている。
 テーブルの下で、床に届かない足を椅子に絡ませた。
「何でそういうことするの」
「心配だから」
 即答。
 その素早さは質問を予想していたかのように思える。
「心配されるようなことなんて、私にあるわけないでしょう!」
 ムキになって叫ぶと厚志は真顔となる。腰を浮かせ、覗き込むように若菜の両手をつかんだ。若菜は逃れようとしたが、その前に引き寄せられる。包み込むように抱き締められる。
「放してよっ。秋永は厚志のこと過保護だって言ってたけどそれ以上だ。何なのよ。異常だよ!」
 背中に回された腕は緩まない。体中の熱が顔に集まっていることが分かる。動悸が激しく、呼吸も揺れる。低い声に眩暈がする。
「若菜がそうやって人一倍強がるから心配なんだ。少しは頼れよ、俺を。子どもの頃よりは頼りになるだろう?」
「知らない!」
 現在の状況が信じられなくて、若菜は混乱したまま叫んだ。立ち上がろうとして失敗する。崩れるように椅子から落ちかけたが、厚志に支えられた。そのまま床に下ろされる。
 テーブルの影で少しだけ体を離されたが、腕は相変わらず若菜を捕らえたままだった。見下ろしてくる瞳に切なさを感じて若菜は視線を逸らす。こんな間近で泣き顔を見られたくない。椅子に頭をぶつけかけたが厚志の手に救われた。
 そのまま厚志の顔が近づいてきた。
 口付けられるのかと思った若菜は拳を握り締めた。耐えるように硬直する。すると厚志はただ若菜の後頭部に手を当てて、抱き締めてきただけだった。
 若菜はとんでもなく早くなった自分の心臓に手を当てて押し黙る。気のせいだろうか、厚志の鼓動も早くなっている気がするのは。
 思考停止状態になってしばらくした頃だ。
「若菜がそうやって人一倍警戒心強くした理由、教えてやろうか?」
 静かな声。耳元で囁かれ、若菜は驚いて首を竦める。
「……なに?」
 厚志の胸に手を置いて力を込める。あっけないほど簡単に離れることができた。見上げると、肩に置かれた手は頬に触れて離れていった。
「由紀子さんに口止めされてたんだけど、知らないより知ってた方がいいだろ。というか今の若菜には警戒心が足りなさ過ぎる。知っとけ」
「……何よ?」
 若菜は眉を寄せた。厚志との距離を保とうとしたが、腕を厚志に捕らえられたままだったので許されなかった。背後には椅子という障害物もあり、逃げ場はない。けれど怯えをこれ以上悟られるのが嫌で、若菜は床に座ったまま平静を保とうと努めた。真剣な表情をまるで崩さない厚志に居心地が悪くなる。
「昔――小学校に上がって直ぐの頃、教室でばらされたの覚えてるだろ」
「忘れろったって忘れるもんか。厚志たちのせいでどんなに純粋さ失ったことか。あれさえなきゃ今頃きっと違う人生開けてただろうと思うよ」
 初恋を蒸し返された若菜は吐き捨てるように笑ったが、厚志は乗ってこない。軽く目を伏せただけだった。
「その直ぐ後、若菜は誘拐されてるんだよ。半日もしない内に見つかったけど、お前はその間のことを全部忘れてた」
 若菜は双眸を瞠らせた。
「誘拐?」
 記憶にない。そんな衝撃的な体験を忘れるはずもないから、厚志は冗談を言っているのだろうと思った。だが彼の表情は真剣なままだった。その表情に若菜は笑みを消す。彼の向こう側に、心配する両親の顔が浮かんだ。記憶が逆行し、あり得ない過去の風景が蘇るような気がした。その中に浮かぶ一点の黒い影。子どもの頃に見た、大人の男。その影が覆いかぶさってきて若菜を飲み込む――そんな錯覚に陥った。
 記憶に飲まれる前に若菜は視線を逸らせた。床を見つめ、つかまれている腕を逆に握り込んだ。心の奥底に秘められた恐怖が膨れ上がる。頑丈な床が抜けてしまうような気がした。落ちたら戻れない。厚志の腕を強く握りこむ。
「精神科にまで連れて行かれて、ちょっとした騒ぎになった。記憶障害は自衛本能だって言われたらしい。由紀子さんは俺にだけ話してくれたんだ。あのとき、一番仲が良かったのが俺だと、由紀子さんはまだ信じてたから。俺がお前を裏切ったなんて知りもしなかったからな。だから登下校はこれまで以上に若菜の側にいてやってくれって、頼まれたんだ。若菜も、それからは必要以上に他人を近づけさせなくなった」
 一拍を置いて、厚志はしぼり出すように告げた。
「俺のせいだろう? 俺が邪魔しなければ、若菜はあいつと登下校繰り返してて、誘拐なんて羽目に遭わなくても済んだんだ」
 悔恨も露な声に、若菜は虚ろなまま納得した。厚志が必要以上に干渉してくるのも、過保護になるのも、後悔に起因しているのだ。過去をやり直すことはできないが、罪滅ぼしならできる。そんな義務的なものであれば、彼がときおり辛そうな表情をすることも納得できた。
「だから……少しは頼ってくれないか。俺にだったら遠慮なくぶつけられるだろう?」
 大嫌いに位置している厚志になら遠慮も必要ない。
 そう告げられた若菜は強く瞼を閉じて眉を寄せ、勢い良く立ち上がった。拍子に膝が厚志の顎に当たったが気にしない。遠慮などしない。
「原因が分かったらすっきりした。でもこの性格はいまさらだから変えられない、悩まない! よし、その意気だ阿部若菜」
 若菜は握りこぶしを作って声を張り上げた。明るい声で緊張を吹き飛ばす。顎に大ダメージを食らった厚志はまだ床に打ちひしがれている。
「……人の言ったこと聞いてたか、本当に?」
「聞いてたから納得したって言ってんじゃない」
 厚志は疑わしげに見上げてくる。その視線の前で若菜は胸を張り、大仰に頷いてみせる。
「……見つかったときの若菜が、意識なくて、裸だったって聞かされても?」
「それも予想の範囲内。思い出そうとすると気持ち悪くなるから思い出さない」
 脳裏を過ぎりそうな黒い影を、若菜は首を思い切り振ることで掻き消した。笑ってみせる。けれどテーブルの端をつかんだ手だけは、必要以上の力が入って白くなっていた。確かめるように凝視してくる厚志の視線がわずらわしい。
 しばらく睨みあったあと、厚志はため息をつきながら立ち上がった。そして、不意に笑う。
「ちっ。泣いて縋りついてくれると嬉しかったんだがな」
「厚志を喜ばせてどうするの。私の幸せは厚志の不幸の上に成り立って――嫌な奴だな私」
 断言しようとした若菜だが顔を歪めて呟いた。勢いだけで言っていることが丸分かりな台詞だ。聞いていた厚志が楽しそうに吹き出す。若菜の頭を撫でるように叩いた。
「さてと。じゃあそろそろ帰ろうかな。お母さんも心配してるだろうし」
 若菜は厚志の手を払いのけると時計を見た。すでに9時を回っている。予想外に遅くなったことに慌てて玄関に向かう。
「送ってくからそこで待ってろよ」
「30秒以内に仕度してきたら考えてやろう」
 冗談を言いながら振り返った若菜は、そこにあった厚志の眼差しに思わず息を止めた。
「30秒な。最速で行ってやるからカウントしておけ」
 厚志は笑ってリビングの奥へ消える。
 若菜は動揺も激しく揺らめき、玄関の棚に足をぶつけて顔をしかめた。剣呑とは正反対の眼差しが脳裏に焼きついている。しばらく離れそうにない。
 とりあえず落ち着こう、と若菜は靴棚に手を伸ばした。しかしあろうことか、置かれていた陶器の花瓶を落としてしまう。落とす寸前に気付いて手を伸ばしたが、花瓶が落ちていく方が早かった。割れる音が響き渡った、その瞬間。
「げ」
 何の警報装置が作動したものか、玄関が嫌な緊急音を鳴らしながら赤く点灯した。
 若菜はひとまず割れた花瓶集めに奔走する。接着剤でくっつければまだ間に合うかもしれないと無謀な挑戦をしかけたが、厚志が何事かと飛び出してくるのは数瞬後のことだった。

 

END
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