敵の名は
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1.

 親睦という名目の遊園地。秋永和人が提案したものだ。
 普段は黙々と仕事をする大人たちが満面の笑みで入場口を塞いでいる様は圧巻だった。開園と同時に入って遊び尽くすつもりだ。休日のため人は多いが、場違いに大所帯で騒ぐ彼らは周囲から完全に浮いていた。けれど久々に開放的な休みを満喫するつもりの彼らは気にしない。
 無料券に人数制限がなかったため、家庭を持つ者たちは子ども連れで遊びに来ている。独身者と世帯者たちと、すでに入場口からきっぱりと分かれているため、親睦の意味はあまりないと言えた。
「お早うございます、阿部先輩」
 若菜は眉を寄せて振り返った。
 視線の先には和人の姿。先日の恨みは消えていないが、和人は何事もなかったかのように近づいてくる。同僚たちの手前、若菜も怒りを表面には出さずに唇だけで微笑んで見せた。
 今日は遊びがメインのためスーツではない。多少の違和感はあったが、ついこの前まで学生だった彼にはラフな格好が似合って見えた。
「お早う、鮫島さん」
 若菜は和人を無視し、彼と腕組みしている鮫島にだけ挨拶をした。彼女は和人の“特別”として女性社員から羨望を集めて胸を張っていたが、若菜からそんな感情を引き出すことはできず、少々拍子抜けしたように挨拶を返してきた。もちろん若菜が2人に憧憬など抱くわけがない。抱く感情があるとしたら、殺意だ。
 鮫島に挨拶をしたあと、和人を見る。
 これまで後輩として妥協していたが、これからは違う。彼は自分の意志でこの職場にいるわけではない。厚志に頼まれ、仕方なく、いるのだ。仕事に真剣味が感じられないのも当然だ。浮ついた彼の存在は若菜に苛立ちを募らせ、すでに“迷惑”の域に達していた。
(そんなに嫌なら辞めればいいのに)
 そんな想いが忌々しく胸の奥で渦巻いている。
 口に出したわけではないが、露骨な若菜の態度に和人は笑った。
 和人の登場に歓声を上げた社員たちが彼を迎え入れる。何しろ無料券は彼が持っている。彼がいなければ始まらない。
 現金な者たちの輪に若菜はため息を零す。肩を竦め、本来の役割に戻ろうと周囲を見渡した。職場の者たちは一般客に紛れて判然としない。ひとまず幹事として働かなければと人数を数え始めた。そしてその中に、とある人たちの姿がないことに気づき、首を傾げた。
 萩山大輝と高岡美智子だ。
 職場で出欠確認したときには参加すると言っていたが、2人の姿がない。道路事情で遅れているのだろうか。
「阿部先輩。入りますよー」
 入場口から和人が手を振っていた。彼と一緒に入らなければ無料にはならない。しかしまだ全員が揃っていない。もう1人の親睦会役員は皆に紛れて笑いながら入場していた。彼は人数把握などしていないだろう。
 どうしようかと周囲を見渡しながら迷っていると肩をつかまれた。その力は強く、勢い良く体を引っ張られた若菜は小さな悲鳴を上げた。
「なんですか。悲鳴なんて上げて」
 若菜の肩をつかんでいたのは和人だ。様子を見に来たのだろう。若菜の悲鳴を浴びて、不機嫌そうに片目を細めている。
「ごめん」
「別にいいですけどね。早く入りましょうよ。皆待ってますよ」
「先に入ってて。幹事としては、まだ来てない人たち放って入るわけにはいかないから」
 入場口で待たされている同僚の不満げな視線が突き刺さる。
 若菜は彼らに頭を下げて謝る素振りをしながら和人の背中を押した。因みにこんなときいつも助け舟を出す課長は、今回は休みだった。若菜だけですべてを管理しなければならない。もう1人の幹事、高橋はすでに遊ぶことに心が傾いていて、役立たずだ。
「まだ来てない人たちって、萩山さんたちですか?」
「そう」
 和人も気付いたようだ。若菜が頷くと少しうなり、時計を見る。定めた集合時間は30分も過ぎている。
「来ないんじゃないですか? 入りましょうよ」
「……でも、何か事情があって遅れてて、来て誰もいなかったら困るでしょう。私がここで待ってるから、秋永さんは先に入ってて。皆が待ってるから」
 和人は納得しないようだったが、それでも若菜が言い含めると渋々従った。若菜たちのやり取りを遠くから窺っていた鮫島が唇を尖らせている。積極的に近づいてこないのは和人の不興を買いたくないからか。
 それが少しだけ可愛く思えて若菜は微笑んだ。鮫島に視線を逸らされる。
「皆が適当にばらけたら俺も戻ってくる。それまであんたはここを動くなよ」
 和人は珍しく心配そうな口調で若菜に告げた。そんな態度を意外に思ったが、直ぐに思い当たった。彼は厚志から頼まれてここにいるのだ。今の言葉は単に仕事の延長から出た言葉なのだろう。
「いいから、さっさと行ってよね。私はあんたの顔なんて見ていたくないの」
 不機嫌に告げると和人は一瞬だけ傷ついた瞳をした。そのことに若菜は言葉を詰まらせたが、弁解はせずに彼の背中を押す。
 和人は後ろ髪を引かれたように振り返ったが、若菜は背を向けた。しばらくすると彼が離れる気配がする。同僚たちの元へ走って行ったようだ。ため息をつき、軽い自己嫌悪に陥りながらも振り返ることはしない。近くの柵に背中を預けて遠くを見つめる。
 視界に入るのは恋人や親子ばかりだった。まるで、世界が自分という存在を忘れてしまったようだと思う。若菜はただの傍観者となる。
 遊園地にはこの前来たばかり。親しい者たちもいないとなると、単なる苦痛の場にしかならない。大輝たちが来なかったら、このままここで人を眺めながら1日を過ごそうか。そうするのも悪くない。
 若菜はそんなことを思いながら、流れる人々を他人事のように眺めていた。

 
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