敵の名は
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2.

 若菜は遊園地の入口をチラリと見た。今日は特別な催し物があるらしい。門の向こう側から、先ほどから頻繁に花火が上がったり歓声が上がったりしている。
 和人たちと別れてから30分ほどが経過していた。
 開園時に比べて人通りは減っていたが、休日ということで常よりも人の出入りは多いようだ。彼らの中から大輝たちの姿を捜すのは至難の業といえる。捜す努力は怠りなく、それでも大輝たちから自分を見つけて貰おうと、目立つ場所に陣取って人ごみを眺めている。しかしいつまで待っても大輝たちは来ない。彼らが無断欠席をするとはとても思えず、若菜は不安を大きくする。
 大きな柵から場所を移し、歩道と車道を区切る壇に腰掛けた。自分の身長半分よりも少し高いその壇に登るのは力が要ったが、そこに腰掛ければ視野が広がった。この際、服が汚れるのは構わない。今日は遊ぶつもりで来たのだ。大して高級な服など着ていない。それ以前に、高級な服などスーツぐらいしか持っていない。
 若菜は地面に届かない足を少しだけバタつかせ、落ち着かないように視線をさまよわせていた。
 遊園地内では何が行われているのか。野次馬根性が首をもたげている。一瞬離れるだけだったらすれ違いにはならないだろうかと、若菜は天秤が徐々に傾いていくのを感じていた。それでも何とか我慢する。
 そんな時、近くで突然携帯が鳴り出した。
「うわっ?」
 予想外の大きな音に驚き、弾みで壇から落ちかける。通り過ぎる者たちが胡散臭そうに若菜を振り返る。
「あ。携帯……」
 鞄の中で存在を主張していたのは、滅多に使われない携帯だった。いつの間に音量を最大にしていたのだろう。若菜は慌てて鞄を探る。指先に当たった塊を引っ張り出す。
 小さな液晶ディスプレイには『萩山大輝』と名前が点滅していた。
「先輩?」
 携帯を耳に押し付けた途端、大輝の焦る声が聞こえてきた。ただひたすら謝っているようだ。雑音が強くて聞き取れない。
 若菜は突然のことに、何が起こっているのか分からないまま眉を寄せた。携帯のアンテナを伸ばし、大輝のそばに美智子がいることも知った。
「どうしたんですか?」
 受話器の向こう側から「わあっ」という大輝の声が聞こえた。
 乱れるノイズ。
 次いで、思い切り嗄れた美智子の声が響いた。
「若菜! 今日は自棄酒よ!」
「……はぁ?」
 美智子の台詞はくだを巻いていて良く聞き取れない。
 若菜は眉を寄せ、ますます怪訝な声を上げるだけだ。そんな若菜の様子はお構いなしに、美智子は受話器の向こうで笑っている。一体どういう状況なのだろう。
「阿部さん? 連絡なしで悪いんだけど、俺と美智子は行けそうにないよ。ごめんね」
「いえ、分かりましたけど……美智子先輩、どうしたんですか?」
 飲み会で羽目を外した美智子を思い出しながら、若菜は恐る恐る訊ねてみた。自制心の強い彼女が酒に溺れるなど滅多にないことだ。
 大輝は複雑そうなうなり声をあげて沈黙が横たわる。
 そんな背後で、美智子が口汚く誰かを罵っているのが聞こえてきた。
 いわく「浮気なんてサイテー」とか「私のどこが悪いっていうのよー」とか「あんな女、地獄に落ちろ」という類のものだ。どうやら美智子は恋人の浮気現場を目撃したらしい。
 若菜は、美智子が嵌めていた恋人指輪を思い出しながら、複雑に「先輩……」と呟くしかできなかった。けれどその呟きで美智子の暴飲理由が伝わったと分かったのか、大輝は苦笑した。
「ごめんね、阿部さん。すっごく聞き苦しい奴で」
 謝る大輝に若菜も苦笑を零す。その後、大輝は殴られたのか「いてっ」と悲鳴を上げた。美智子をたしなめる声が聞こえてくる。
 若菜は慌てて「あの」と呼びかけた。
「こちらなら心配要りませんから。美智子先輩についててあげて下さい」
「本音言えば、俺はそっちに行きたいよ」
「なんだと大輝ぃ。薄情者ぉー」
 もう何が何だか混乱状態である。
 大輝は観念したのか、ひとまず若菜に「やっぱり行けそうにない」と告げて携帯を切った。切る直前、美智子がまだ何か言っていたような気がしたが、何を言っていたのかは分からない。
 若菜は切れてしまった携帯を見つめ、腕を下ろした。ため息をついて空を仰ぐ。
「そっかー。先輩たち、来られないんだー……」
 美智子が振られたという話はにわかには信じられない話だが、電話の向こうでの荒れぐあいを思えば本当なのだろう。
 若菜は唇を尖らせてため息をついた。
 彼らが来られないとなると、今日の遊園地は若菜にとって、もはや無意味でしかない。
 どうしよう、と顔をしかめながら足をパタパタとさせてみた。
 今更、一人で中へ入ることもためらわれる。どうせならこのまま他の人たちが出てくるまで時間潰しでもしていようかと考えてしまう。そろそろお昼時で小腹が空いていたが、食べ処は全て、入場料を払った門の向こう側にしかない。
 期待はしていないが和人が戻ってくる様子もない。若菜は真剣に悩むのだ。
 と、そこへもう一度携帯が着信を告げた。もしかして大輝だろうかとディスプレイを見た若菜だが、次に顔をしかめた。
 無感動な機械文字で“敵”という一文字が存在を主張している。厚志からだ。
 無視してしまうには、通り過ぎる人たちの視線が痛い。それにどうせ暇なのだし、と若菜は渋々取り上げた。不機嫌な声で「なに」と訊ねようと思っていたが、それよりも先に厚志が口を開いた。焦った様子の彼に、若菜は勢いを削がれる。
「若菜。今どこにいるっ?」
 そんな第一声に顔をしかめる。今日の予定はあらかじめ報告済みだ。
「ちょっと和人に代われ!」
 高圧的な態度に腹を立て、勢いをつけて壇から飛び降りた。背中を壇につけて、負けず横柄に「いない」と告げる。
「は? いないって、どういうことだよ。今日は会社の親睦会って言ってただろ?」
「そうだけど、近くにはいないよ。他の皆と一緒に、先に入場させたから」
 厚志は納得したのかしていないのか、うなり声を上げた。どうしたのだろうと思いながら妙案が思いつく。
「そうだ。厚志もくれば? どうせ中に入ったら皆バラバラなんだし、帰りたい奴は勝手に帰るってことだから気にしなくていいし」
 若菜から誘うのは非常に珍しい。しかし大輝たちも来ない今、ただ時間を潰しているのが苦痛に思えてきた。来る時は会社で待ち合わせた同僚に乗せて貰ったが、帰りの足はない。美智子か大輝に頼もうと思っていたが、その綱も断たれてしまっていると気付いたのだ。
 厚志は考え込むように沈黙した。
(安西さんたちに何かあったのか?)
 若菜はそう思いながら黙って待った。
「てことは、若菜は今、1人なんだな?」
「んー、そうそう。暇で暇で。このままここで皆が出てくるまで寝ててもいいくらい」
 さすがにそれは冗談だが沈黙が流れる。せめて笑い飛ばして欲しかった。
「……分かった。西口の入口か?」
「どこだかは知らない。この前厚志が来たのと同じ場所にいるけど……何。まさか本気で来る気?」
「若菜が来いって言ったんだろ」
「そりゃそうだけど……」
 若菜は複雑な気持ちだった。
 来なくてもいいよという呆れた気持ち、ワクワクするような高揚感が同時に湧いた。
「いいか。俺が行くまで絶対にそこから動くなよ。話はそれからだ」
 厚志は強い口調で釘を刺し、若菜の反論も許さず一方的に電話を切ってしまった。
「何、あいつ」
 切られた携帯を唖然と眺める。再び鳴る様子はない。本気で向かってくるつもりなのだろうか。自宅からこの遊園地まで、どれほどの距離があると思っているのか。
 若菜は呆れたが、嫌な気分ではなかった。特別親しくない同僚たちとアトラクションを乗り継ぐよりも、厚志と舌戦を繰り広げながら回った方が、心は遥かに軽い。
 親睦会の意味など彼方に消えている。
 背の高い花壇に背中を預けながら、若菜は脳内地図を展開させた。前に来たばかりだ。まだ忘れるには早い。
 若菜は前回の順路を思い出しながら、今回は何をどういう順番で攻略して行こうかと計画し始めた。

 
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