敵の名は
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3.

 厚志に待たされている時間は長く感じられた。
 ――実際に長いのであるが。
 若菜は唇を引き結ぶ。表情は不機嫌さを露呈させていた。体を硬直させながら周囲から意識を遮断させ、視線は自分の爪先に注いでいた。
 先ほどから笑い混じりに声をかけられている。
 男軍団が数回通り過ぎた。遊園地に男だけで来るなど不毛だな、と若菜は胸中で毒を吐きながら、体を強張らせる。彼らはからかい半分で声をかけるのだろうが、若菜には不快でしかない。何で世の中にはこんなに暇人がいるのだ、とわけの分からない怒りに震えるだけだ。
 若菜が黙っていると集団は去るが、若菜から緊張が解けることはなかった。
 このままだと面倒な事態になりかねないと悟り、不意に心細くなった。これなら先に中へ入り、売店で休んでいた方が楽だ。
 声をかけられたのが3回を超えたとき、若菜は携帯を握り締めながら入場口へ向かった。厚志への連絡はあとですればいい。この際、入場料を渋ってもいられない。
 足早に向かおうとした若菜は、丁度良いタイミングで和人が出てくるのを見た。彼のそばに鮫島はいないようだ。もしかして彼の横暴さに鮫島も呆れて愛想を尽かしたのではないかと若菜は足を止めた。なぜなら和人は明らかに不機嫌で、その態度を隠そうともしていない。
 入場しようとしていた若菜は足を止める。気に食わないが、知り合いが1人でもそばにいれば声をかけられることは少なくなるだろう。やはりここで厚志を待とうと決める。
 胸を撫で下ろした若菜は、背後に何かを感じて振り返った。
 黒光りする大きな車が静かに近づいてきていた。
 場違いな高級車。もしかして厚志だろうかと思ったが、雰囲気が異なっていた。送迎時に使う車だが、遊園地に来るのに厚志はそのような車など使わないだろうと直感が告げている。
 そして遊園地の駐車場はここではない。とっくに過ぎている。それなのにこの車はどこへ行こうというのだろうか。そろそろ遊歩道となり、車の往来はできなくなる。
 目の前で停まるその車を、若菜は凝視した。窓まで黒く塗られていて、中は窺えない。
 不穏な空気を感じた若菜が離れようとしたとき、後部座席が開かれた。1人の男性が顔を出す。
 むろん厚志ではない。
 背が高く、スーツが似合う男性だった。そこらの男子生徒など足元にも及ばない何かを持っている。綺麗に整えられた髪や服装から『紳士』を感じ、若菜は目を瞠る。車から下りた彼は若菜を見て微笑んだ気がした。
 あまり見つめていたら失礼だろうか、と若菜は和人に足を向けようとしたが、動けなかった。
 男に腕をつかまれていた。
「……あの、何か?」
 振り返ると、先ほどまで車に乗っていた男がいる。若菜の腕をつかんだまま、温和な笑顔を浮かべている。
「阿部若菜さんだね?」
「そうですけど」
 若菜の中に警鐘が鳴り響く。見知らぬ男性がなぜ自分の名前を知っているのかと、不安に感じて腕を振り解こうとした。
「厚志から聞いてるよ」
 その言葉に若菜は抵抗をやめた。
「そう。そこでちょっと、来て欲しいんだ」
 もしかしたら厚志がこの男を迎えに寄越したのかもしれない。
 若菜は釈然としないものを感じながら思った。
 厚志はあとから合流するつもりなのかもしれない。自分で何でもやりたがろうとする厚志にしては珍しいと思うが、それだけ焦っていたのだろうかと、若菜は受話口での会話を思い出しながら思う。そう考えれば辻褄が遭う。
 手を引かれながら車へ寄る。島田がいるだろうかと運転席を覗いたが、そこにいたのは見知らぬ男性だった。
「あの。厚志が呼んでるんですか?」
 確認のために訊ねたが、男は答えないまま若菜を車に押し込んだ。
 車内から振り返ると和人が唖然としているのが見えた。彼は次いで、慌てたように走って来る。その雰囲気はとても安心できるものではなくて、若菜は不安に駆られた。車から出ようとしたが、男に腕をつかまれて動けない。
「あの。ちょっと連れがいますから、事情を話して……」
「必要はない」
 若菜を車に押し込め、扉を閉めた途端に醸される威圧的な態度。
 直感で悟った危機感から強引に逃げようとした。若菜側の扉を開けようとしたが、鍵がかかっているのか開かない。男を跨いで反対側の扉に手を伸ばそうとしたが、強い力で引き戻される。男は若菜を元の位置に座らせたあと、運転手に「出してくれ」と言い放った。まだ遠い和人を一瞥する。
「ちょっと、待ってよ……!」
 さすがに若菜は青褪め、さらに強引な手に出ようとした。
「大人しくしていろ」
 まるで誘拐犯だ。体を押さえつけられ、動けない。車はそのまま発車した。
 若菜は悲鳴を上げて窓を殴った。だがそんな力では割れもしない頑丈な窓は、ようやく追いついた和人の姿を映し、あっと言う間に遠ざかる。
 若菜は言葉を失くし、力なく座席に沈み込んだ。


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 連れて行かれた監禁場所はどこかのマンション――ではなく、若菜から見ても一流だと分かる高級ホテルだった。
 すれ違う人に助けを求めようとしていた若菜だが、誰一人としてすれ違うことはなく、そのまま部屋に押し込められる。若菜を捕らえる男とはまた別の男がすべての事務手続きを済ませていたようだった。
「私を誘拐してもお金は出ませんよ。可愛くもないし、貴方にとって一銭の価値もないです」
 睨み付けて説得を試みた若菜に、男は驚いたような顔をして破顔した。
「手荒な真似をして悪かったね」
 若菜の腕や足についた痣を見て顔をしかめ、申し訳ないように謝る。足の痣は若菜が逃げようと暴れたときにできた痣で、手首の痣は男につかまれてできた痣だ。手を放したときにくっきりと残された痕に、男は驚いて謝ってきた。
 恐怖に支配されかけていた若菜はそこに僅かな誠意を感じ、辛うじて自分を保っていた。子どもの頃にトラウマ化していた誘拐とは違う、と必死で自分を宥める。それでも不安なことには変わりないけれど。
 部屋には誰もいなかった。若菜を置き去りにして窓辺に歩いていく男を、若菜は壁に寄り添いながら睨みつけていた。
「久しぶりに帰って来たが、やっぱり日本はいいな」
 何階かは分からないが、男が少し窓を開けただけで凄まじい風が吹き込んでくる。春の訪れを感じさせる暖かな風だ。窓は事故防止のため、手を一つ分出せるくらいしか開かない。その窓を限界まで開いた男は若菜を振り返った。
「誤解を解いておこうか。私は誘拐したわけじゃないよ。危害を加えるつもりもない」
 何を言ってるんだこの嘘つき。と、若菜は胸中で吐き捨てた。男は飄々としたまま反省の素振りはない。危害を加えるつもりはない、という下りだけは認めてもいいのかもしれないが、それでも安心はできない。
 先ほどまで鳴り続けていた若菜の携帯は、今は沈黙して男の手にある。奪われる前、ディスプレイに表示されていたのは厚志からの電話を示す『敵』の一文字。出ることは許されなかった。これは誰かなと問われ、腹立ちも込めて正直に答えると、男は若菜が呆気に取られるほど大笑いした。しかし携帯は返されない。連絡手段は断たれたままだ。
 携帯が沈黙しているのは、厚志がかけても無駄だと悟ったためか、それとも男が電源を落としたからなのか。
 若菜はため息をついた。
「なら、何のために誘拐してきたんですか」
「だから誘拐じゃないって言ってるのに」
 男は唇を尖らせた。その仕草が子どもっぽくて、若菜は眉を寄せる。
 男が口を開いたその直後、若菜のお腹が凄まじい音を立てた。反射的にお腹を押さえた若菜だが、音は消えない。まるで飢えた獣のうなり声のように、低く響く。
 時計を見ればお昼を回って二時だった。
 一拍置いて大笑いする男と、耳まで赤くなる若菜。
 両手でお腹を押さえて両者とも顔を背けた。
「ルームサービスでも頼もうか」
 ひとしきり笑ったあと、男はまだ笑いを滲ませたまま室内電話機へ向かった。
 なるほど、携帯は取り上げられたが、連絡手段が完全に断たれたわけではない。
 若菜は希望に顔を輝かせたが、厚志の携帯電話など覚えていない、と落ち込んだ。義之が来たとき、教訓として厚志のバックアップも取ってあったが、それは自室の机の中にある。手元になければ意味がない。
 男がルームサービスを頼むのを横目で見ながら、若菜は窓に近づいた。下を見れば目も眩むような高さだ。走る車が豆粒のように小さい。
 眩暈を覚えて窓から一歩離れ、今度は顔を上げて遠景を眺める。地元にはないような高層ビルばかりだ。どこに連れて来られたのか、分からない。
 ため息をついて振り返った若菜はぎくりとした。ルームサービスを頼み終えた男が、微笑みながら若菜を見つめていた。
「可愛いね」
「は?」
 唐突な言葉に眉を寄せる。外見で近づく男たちには辟易していたため、若菜はその言葉が嫌いだった。同時にこの誘拐が、お金目的ではなく身体目的なのかもと危惧させるには充分な言葉だった。
「とりあえず落ち着いて話をしないか」
 男に寝台を指された若菜は一瞬だけ沈黙したあと、「そうですね」と頷いてソファに腰を下ろした。落ち着くという意見には若菜も賛成だ。ソファに座り、冷静になろうと深呼吸する。そして、この男が自分の名前を知っていたということに改めて気付いた。
「誘拐じゃないっていうなら名乗って下さい。貴方は誰なんですか」
 丁寧語の必要はないと思いながらも訊ねた。こういうとき、犯人を刺激しないように言葉を選ぶべきだと、昔読んだ本に載っていた。
 男は鼻歌でも歌いそうな雰囲気で近づいてきた。隣に立ち、見下ろしてくる。
 若菜は睨みつけながら「負けるか」と背筋を伸ばした。
「キミが暴れるから名乗るのも忘れていたよ。私の名前は斎藤純一。これでも世界に認められているプログラマーだよ」
 男は胸ポケットから名刺を取り出すと若菜に示した。
 正面のソファに座り、長い足を組ませて男は笑う。若菜は名刺を受け取ると硬直した。
「……斎藤、純一?」
 男は笑顔を崩さない。
「……厚志の父親」
 若菜の言葉に、純一は笑みを深めて頷いた。

 
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