敵の名は
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4.

 若菜を誘拐した男は恥ずかしげもなく厚志の父親を名乗った。
 若菜は冷静に『親子揃って私の敵か』と受け止めた――はずもない。
 目の前の男が厚志の父親だと知るや否や、勢い良く立ち上がった。
「いい加減にして下さい! 貴方の息子のせいで私は大迷惑してるんです! どうやったらあんな自己中に育つのかと思ってましたけど、今の貴方見たら納得ですよ。少しは尊敬される大人になって下さい!」
 微妙な丁寧語で怒鳴りつけると純一に指を突きつける。面食らったような顔をした純一は二、三度瞬きを繰り返した。彼は若菜の指に嵌められた指輪を確かめるように眺め、そして、瞳を笑みに和らげると立ち上がった。厚志よりも身長が高い上に、余裕がある。
「まぁまぁ。落ち着こうじゃないか。若菜さん」
「落ち着いていられるか!」
 ダンッと足を踏み鳴らせて抗議する。
 けれど純一は有無を言わさず若菜の肩をつかみ、強引にソファへ押し戻した。痛みを覚えるほどの圧力。たまらずソファに倒れ込んだ若菜は唇を引き結んで彼を睨みつけた。しかし純一は可笑しげに笑うだけだ。毛を逆立たせた猫くらいにしか感じていないのだろう。
「元気な娘だな」
 ふと、純一は若菜に何かを見出したかのように眉を寄せると、顔を近づけた。
 あまりの近さに若菜は顔をしかめて顎を引く。
「どこかで会ったことがないか?」
「知りませんよ。貴方たちみたいな勝手野郎は1人で充分です。増殖なんて、考えただけでも気持ち悪い」
 胸を押さえ、苦渋の表情で吐き捨ててやれば苦笑されただけだった。
 そのときノックの音が響く。
「食事が来たみたいだな。貴方には話があって連れて来たんだ。食事しながらでも聞かせてもらえれば嬉しいよ」
「私に拒否権なんてないじゃないですか」
 唇を尖らせて不満をぶつけたが相手にされない。純一は笑いながら玄関に向かい、若菜はその背中を見送る。
「何を聞きたいんですか」
「もちろん、我が不肖の息子についてだよ」
 返された答えに若菜は軽く瞳を瞠らせた。これまで忘れていたが、彼は厚志の父親だ。厚志との契約では、この父親に自分のことを「厚志の恋人」だと信じさせなくてはいけない。それなのに、思い返せば厚志嫌いも露な行動しかしていない。彼が厚志の父親だと知らなかったのだから仕方ないが、若菜は「失敗した」と小さく呟いた。
 淑女を装って厚志と婚約し、そしてダメージを与える計画だったが、その計画から『淑女』という設定は消え去った。
 けれど、と若菜はため息を零す。
 厚志の父は想像と違った。このような性格だと判明した今では、厚志の言う「婚約披露」でダメージを与えることは不可能に思えた。むしろ彼はそれこそ楽しんでしまいそうだ。厚志にはそれが分からないのだろうか。
 自分の父なのに? と首を傾げて思い出した。日本が久々だという先ほどの台詞から察するに、純一は普段から家を空けていることが多いのだろう。厚志自身、父と過ごした記憶がほとんどないと言っていた。それならば厚志が純一の性格を把握しきっていなくても頷ける。
 若菜は唇に拳を当てると真剣な表情で考え込んだ。
 そのとき、玄関口から悲鳴が聞こえて顔を上げる。中には純一の声も混ざっているようだ。次いで乱暴な物音が響く。
 何事だろうか、と若菜がそちらに顔を出したとき、見知らぬ男が倒れてきた。気を失って倒れたというより、突き飛ばされて転んだといった方が正しい。倒れた彼は直ぐに立ち上がる。多少よろめいたものの怪我はないようだ。まとう制服から、彼がホテルのスタッフだろうことは推測できた。
 何が起こっているのか分からない。
 若菜は「大丈夫ですか」と声をかけようとした。
「若菜!」
 突如、目の前に障害物が現れる。
 死角から出現したそれに若菜は悲鳴を上げて腕を掲げた。
「たた……乱暴だなぁ……」
 緊迫した空気を読まないようにのんびりとした純一の声が響く。若菜は自分の腕をつかむ男を、恐る恐る見上げてみた。険しい表情をしながら若菜を背に庇うのは、厚志だった。
「乱暴してるのはどっちだ! 若菜に何しやがった!」
「私は何もしてないぞ」
「嘘ついてんじゃねぇ! ならこの腕の痣は何だよ!」
「つかんだら勝手についたんだ」
「ふざけるな!」
 父親に噛み付きながら若菜をつかむ厚志の力も相当なものだ。これでは痣も増えるだろう、と若菜はやや混乱したまま呆れた。激しい動悸を覚えて胸に手を当てる。
 どうやら純一は玄関扉を開けたところで襲われたらしい。廊下に立ち、困ったように肩を竦める。
 部屋に突き飛ばされたスタッフはどうしたらいいのか分からないように右往左往している。
 若菜はおいしそうに湯気を上げている料理を見た。手押し車に入れられ、廊下に放置されている。察するに、部屋に入ろうとしていたスタッフを突き飛ばし、純一を外へ放り投げて厚志は入ってきたのだろう。
「帰るぞ」
 厚志は強引に若菜の腕を引いた。急な動作に若菜はつまずく。純一がなぜかにやつきながら若菜の肩をつかみ、引きとめた。厚志は露骨な嫌悪感を顔に浮かべながら睨みつけた。
「若菜に触るなよエロ親父」
「私がそうならお前だってエロ息子だぞ」
「一緒にすんな! いいから手を放せ!」
 若菜としては両者に手を放して貰いたい。しかし頭上で交わされる親子の会話に加わることはできない。
「私が先に誘ったんだ。優先権は私にある」
「なに勝手抜かしてやがる。もともと若菜の優先権は俺のものだ!」
「やれやれ。馬鹿な息子を持つと苦労するなぁ」
「それは俺の台詞だ!」
 顔を真っ赤にさせて怒鳴りつける厚志のそんな姿を、若菜は初めて見た気がした。
 厚志はいつも冷静に上から物事を見て、人を馬鹿にした態度で自己中心的な思考をし、他者が自分の思い通りになるのが当然だと思っている節がある。しかし純一の前に立つ厚志に、そんな気配は欠片も感じられない。まるで猫じゃらしに戯れる猫だ。この場合はおちょくられていると言った方が正しいのかもしれない。
 と、再び緊張を破壊する若菜の空腹音がその場に響き渡った。
 純一は楽しげに。厚志は呆れたように。それぞれが若菜を見つめた。
 だってお腹が空いたんだから仕方がないじゃないか、と若菜は耳まで赤くなりながら俯いた。
「ま、今日のところは厚志に譲ってやるさ。帰って来たばかりで他に挨拶も行ってないしな」
「貴様なんか一生帰ってくんな!」
「怒った姿も可愛いよ、マイスウィートサン」
 ちっとも可愛くないウインクまでつけた台詞に、厚志ばかりか若菜すら鳥肌を立てた。純一は確信犯らしく飄々とした笑顔を見せる。
「貴様なんか帰ってきても家に入れてやんねーからな!」
「いいよ。私には安西の家という手も残されている」
「安西さんたちに迷惑かけたら殺しに行ってやる!」
 そちらの方が安西さんたちにとっては迷惑なんじゃないだろうか、と若菜は思ったが黙っていた。気持ちは分かる。
「仕方ないな。じゃあ未来の嫁、キミの家に」
「本気で殺すぞクソ親父」
 若菜の顎を人差し指一本で持ち上げた純一に声を潜めて厚志が凄んだ。純一の手から取り返して抱き締める。
「ふうん。若菜さんは本意じゃないみたいだけど」
 探るような純一の言葉に、ただ流れに身を任せていた若菜はハッとして顔を上げた。疑われているのだと知って、反射的に厚志の服をつかむ。
「さっきの敵っていうのは嘘だからね! 誤解しないでよ!」
「へーえ?」
 信じていないのは明らかだ。
 若菜はやはり自分の失態だと顔をしかめる。
 分かっていない厚志は2人のやり取りに眉を寄せていた。
 なぜこんなことを弁明しなければいけないのか、若菜は恥ずかしくなって顔を逸らすと厚志の胸に埋めた。
「じゃあ今日のところはここに泊まるか。キミ、変更手続きをお願いできるか?」
 所在なさげに佇んでいたホテルのスタッフが嬉しそうに返事をした。彼こそ真なる被害者だと言えるだろう。
「また後でな、若菜さん」
「貴様に後なんか作らせるか!」
「はいはい。せいぜい繋いだ手は放さないようにしとけよ」
「当たり前だ!」
 売り言葉に買い言葉。
 叫んだ厚志を純一は楽しそうに見つめ、別れ際に若菜の背中をポンポンと叩くのだが厚志に容赦なくその手を打たれていた。若菜は赤くなった顔を必死で冷まそうと試みたが、熱は大して冷めなかった。他のことに気を取られている厚志に突っ込まれないことだけが救いだ。
 残された2人で、去っていく純一の背中に物を投げつけることで鬱憤を晴らした。


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 後日、純一から若菜の自宅に小包が届けられた。
 訝りながら小さな箱を開けた若菜は、自分の携帯が入っていたことに驚いた。純一に取り上げられたままだったのだと思い出す。携帯など滅多に使わないため、不便も感じなかった。
 若菜は恐る恐る携帯を手に取る。純一のことだ、盗聴器でも仕掛けたかもしれない、と充電池パックまで取り出して調べてみる。携帯は新品同様に磨かれていただけで、結果的にはどこも変化はないようだった。
 若菜は次いで携帯の中身を開いてみた。
 覚えている限り、電話帳に登録されている名前や住所に変更はない。誰かの名前が消されていることもない。厚志を示す“敵”の文字もそのままだった。
 安堵した若菜だが、見知らぬアドレスが登録されているのを見つけて眉を寄せた。新たに登録されたメモリは“敵の親玉”というふざけた名前だった。嫌な予感を抱きつつ本名を確認してみれば、案の定、それは斎藤純一だった。
 遊び心がありすぎる彼に苦々しくため息をつく。
 けれど、純一の着信メロディとしてベートーベン交響曲第五番の『運命』が設定されていることを見つけると、苦々しいを通り越して笑い声を上げていた。


END
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