桜の宵夢
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1.

 職場の一角から珍しい怒声が上がった。
「だから、その端末に自動識別機能なんて入ってないんだから手作業確認は必須なんだって言ってるでしょう! 若年性痴呆症なんじゃないの!?」
「誰が若年性痴呆症だ! この端末だけで本サーバーアクセスも兼ねてデータ照合できるように俺がプログラミングし直したって言っただろうが! まだ本完了じゃないから触るなよって言ってたのにアンタが触って初期化させやがったんだろう!?」
 朝礼が終わり、仕事に取りかかろうかと皆が席に着いた矢先のことだった。
 何事なのかと職場の全員が振り返る。その視線の先には若菜と和人がいる。2人は注目されていることに気付かず怒声を重ね続ける。その声は窓を突き抜けて通りにまで舞いそうだ。
 職場全員を代表し、課長と大輝が2人に近づいた。
「阿部さん。どうしたの?」
「そんな大声で。何があったって言うんだ」
 普段から“大人しい”という印象を植えつけていた若菜の怒声。その様相に課長は目を丸くしている。だが若菜は気付かず、怒り心頭のまま彼に向き直った。
「課長、秋永さんの配属変えて下さい! 物覚え悪すぎる上に仕事が粗末です!」
「俺からも配属先変え――って、待てよ! 最後のは聞き捨てならねぇ!」
「そもそも私は上司だよ。その言葉を聞き捨てようとする精神からして叩き直してやりたいくらいだ!」
「おーお、やってみろ。お前の貧弱な身体じゃ俺に傷一つつかねぇ」
 若菜は絶句して睨みつけた。見下ろしてくる憎たらしい顔に、拳を握り締める。対する和人も似たようなものだ。殴り合いへ発展するのは必然ともいえる雰囲気だった。
 少々険しい顔をした大輝が割って入った。
「2人ともね。ちょっと待ちなよ」
 我を忘れていた若菜はその声に怒りを削がれた。大輝の横顔が静かな怒りを湛えており、その声音は若菜の顔色を奪う。頭に昇っていた血が見る間に下がり、残るのは後悔だった。
「お互い気に入らないのは分かったから、少し落ち着いて。仕事くらいは割り切って考えてくれないかな」
 大輝の手に宥められた和人も渋々と怒りを抑える。しかし理性総動員なのは明らかだ。彼は鼻息荒いまま若菜を睨み続ける。
 若菜と和人が話を聞く体勢に入ると大輝は軽く嘆息した。戸惑う課長を振り返る。
「2人の上司は私ですから、私が聞かせて頂いてよろしいですか?」
「ああ。私も立ち会って」
「いえ。課長は仕上げなければいけない企画書があるでしょう。結果は報告しますし、判断に困りましたら指示を仰ぎますので、仕事に戻って下さい」
 課長はどこか納得がいかないような顔をしたが、有無を言わせぬ大輝の声に頷いた。大輝の言葉通り、現在の課長はとても忙しい身だ。
 課長の視線が若菜に向けられた。そこに含まれていたのは純粋な心配。若菜は直視できなくて視線を逸らせた。後悔ばかりが湧き上がる。
 和人に対する反省は微塵もないが、周囲の同僚を騒がせたことに罪悪感が湧く。大勢の前で和人を怒鳴りつけたことにも自己嫌悪だ。
「課長。会議室をお借りします」
 大輝は一応の承諾を取ってから会議室の扉を開けた。若菜たちを促す。そして思いついたように美智子も呼んで、彼女も一緒に会議室へ招き入れた。
 なぜそんなことをするのか不思議に思った若菜だが、直ぐに納得した。男2人に女1人の密室を作らないため、彼なりに気を配ったのだ。
 気付いた若菜は肩を落とす。いつも迷惑をかけているのに、さらに迷惑をかけてしまった、と。
「さて、と。それで。どうしたの?」
 会議室には4人がそれぞれ席に着く。大きなテーブルの四方に1人ずつ腰掛けた。
 大輝は机の上で手を組むと本題に入った。彼も課長を手伝い忙しい身だ。若菜は申し訳なさ過ぎて口など開けない。そのまま無言でいると和人が先に口を開いた。納得など微塵もしていないと分かる、怒りを含む声音だ。
「いま使ってるデータ用のパソコンって、本サーバーとの連結機能が取れてないじゃないですか。落とせる情報量が少なすぎるし、認証画面開いてID入力して確認して――ってやってるのが凄く面倒で、時間がかかり過ぎるんだ。作業効率も悪い。だから、俺が本社からデータ取り寄せて端末回線開いてインストールしたんですよ。すべての情報が反映されるように。でも本来はそれ向けのパソコンじゃなかったから他のソフトと相性が悪くて、微調整繰り返しながら使えるようにテストしてたんです。週末かけても完全には終わらなかったから、プロテクトかけて。一応、守秘義務に繋がる端末ですから、もし誰かが触ったら初期化されて元に戻るように。それなのに」
「嘘だ! だってそんなこと、一っ言も言ってなかったじゃない!」
「俺は本来アクセス権限がない奴にだけプロテクト働くようにセットさせたんだ。正規パス入れてたら初期化なんて起こらなかった。俺が朝一番に触るはずだったのに、あんたが押しのけて触って、挙句にパスワード間違えるなんて誰が思うかよ」
 皮肉がふんだんに織り込まれた毒だった。怒りが湧くが、和人の言葉を信じるなら悪いのはこちらだということになる。こちらも朝一番で仕上げなければならない仕事があった、ということは言い訳にしかならないだろう。
 悔しくて腹が立って、何か言い負かす道がないかと探したが、頭の中は真っ白だった。意地悪げに口の端をつり上げる和人を見ながら、若菜は何も言えずにただ拳を握り締めるだけ。先ほどは冷静になれたと思ったが、勘違いだったようだ。言葉が何もでてこない。殴りたくて堪らない。
 状況が分かった大輝と美智子は複雑な表情で顔を見合わせた。
「両者共に配慮が足りなかった。ということで今回はいいかな。二度目はないけど」
 大輝はため息混じりに吐き出しながら立ち上がった。若菜も和人も目を丸くする。
「それだけですかっ?」
「あのパソコンは秋永の所有物じゃない。ここにいる奴らなら誰でも開くことができる共有物だ。朝一番に自分がやるから断りの言葉は要らないと思ったのは秋永の勝手だろう? 絶対に初期化させるつもりがなかったなら、皆に一言あってしかるべきだったね。少しの労力惜しんだだけでこうなるって、良い教訓になったじゃないか。これからは気をつけるんだね。そんな便利なものを開発してくれるっていうなら更に」
「貴方たちは優秀だと思うけど、つまり意識した連携が足りないのよ。会社って、同じ目的持った赤の他人の集まりなんだから。貴方たちが持ってる情報も私たちに公開して共有させなきゃ同じこと繰り返すわよ。自己完結してないで、これからは私たちに報告すること。課長たちが良く使うでしょう、“ホウレンソウ”って」
 美智子も立ち上がり、しっかりと厳しい言葉を投げかけた。
 因みに“ホウレンソウ”とは、報告、連絡、相談、の略語だ。
 若菜は肩を落として唇を引き結び、俯きながら「はい」と答えた。しかし和人は返事をしない。横目で窺うと納得していない顔がそこにある。今しも口を開こうとした和人だが、その前に大輝が振り返って口を開いた。
「そうだ」
 扉を開けようとした手を下ろし、大輝は和人に向き直る。
「前に阿部さんがミスした課長のプレゼンだけどさ。相手側に理由は通しておいたから、秋永は自分の立場を自覚しろよ。こっちの課長には報告しないつもりだが」
 美智子が怪訝そうに大輝を見つめる。和人は絶句して大輝を睨む。若菜も、なぜ大輝がそのようなことを知っているのか信じられない気持ちで凝視した。あのときのことは、過ぎたことはどう言い訳しても何もならない、と若菜は誰にも相談していない。漏れるとしたら和人からしか考えられないのだが、彼の驚きの表情から、それはあり得ないようだ。
 聞いてもいいものか、若菜は迷いながら口を開こうとした。
「そうですか」
 和人が面白くなさそうに吐き捨てる。
「ああ」
 大輝が簡単な同意だけを返すと和人の機嫌は悪化していく。雰囲気は険悪になり、若菜が訊ねる隙もなくなった。美智子が呆れたように声を張り上げる。
「ちょっと。大輝が喧嘩吹っかけてどうするつもりよ。やるんなら会社外でやりなさいよね。私たちを目撃者にしないでくれる?」
 言い切る美智子を、若菜は唖然と見上げた。
 美智子は鼻を鳴らすと若菜の手を取る。憤然と扉を開け放つ。彼女の声で二人の険悪な雰囲気は飛んだらしい。引きずられるように外へ出た若菜は、二人が一緒に出てくるのを見て安堵する。
 そうしながら若菜は、美智子の指から“恋人指輪”が消えていることに気付いて表情を翳らせた。念のために首まわりも窺ってみたが、彼女からは恋人の気配が消えている。本当に別れたのだろうかと寂しく思ったが、それは自分が気にかけることではないと唇を引き結ぶ。
 会議室を出た瞬間にも浴びせられた視線の豪雨に、憂鬱なため息を吐き出した。


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 若菜はお弁当を片付けながら険しい表情をし続けていた。
 一度は大輝に宥められて落ち着いた。しかし怒りは時間が経つに連れて復活してくる。このまま和人の顔を見たら、問答無用で殴りかかってしまいそうだ。周囲が春陽気のせいで気持ちまで高揚して血の気が多くなっている。早く秋にならないかと、若菜は腕まくりしながら勝手なことを思った。
(これも全部厚志のせいだ)
 おやつ用に持参していたフランスパンを握り締めた。
 厚志を思い出すと、ついでに純一の顔まで蘇った。
 斎藤純一。厚志の父親だ。本人にとっては挨拶代わりでも、若菜にしてみればただの誘拐と代わりなかった初対面。そのときの恐怖までも蘇り、若菜はますますフランスパンを握り締めた。
「阿部さん。午後からこっち手伝って貰ってもいい?」
「はい」
 自分の世界に飛んでいた若菜は慌てて振り返った。
 大輝が書類の束を指して笑っている。毎月恒例の会計作業だ、と気付いた若菜は、もうそんな季節かと思いながら笑い返した。先ほどから握り続けて小さくなったフランスパンを噛み砕き、立ち上がって廊下に出る。気持ちを切替えないと仕事でミスをしてしまいそうだ。普段なら決して行かない屋上へ行くことにした。
 残りの休憩時間も半ばを過ぎた。屋上からは昼食を終えた人々がまばらに下りてくる。すれ違う人たちに笑顔で挨拶を返しながら屋上へ出た若菜は、そこに和人の姿を見つけた。
「げ」
 柵にもたれて景色を眺めていた和人が振り返る。若菜を見つけると、彼もまた嫌そうに顔をしかめる。
「人の休憩時間、邪魔しに来ないでくれませんか」
「誰が。いるって知ってたら来るもんか」
 若菜は憮然と吐き捨てた。
 和人は興味を失ったように肩を竦め、視線を元に戻す。この辺りは開発が進んで田舎のイメージとは掛け離れた高層ビルが並んでいる。数年前に広がっていた山々はビルに塞がれて見えなくなっている。便利にはなったが、少々寂しい風景だ。
 若菜は直ぐに踵を返そうとした。しかしそのまま立ち去るのは癪に感じられ、休憩用のベンチに腰を下ろす。振り返った和人が嫌な顔をする。
「何よ。まだ休憩時間はあるんだから、どこにいようと私の勝手でしょう。嫌ならそっちが戻ればいい」
 深く座り、顎を反らせて高飛車に言い放った。嫌な癖だとは思うが、なかなか治らない。
「……厚志先輩と仲直りしたんですか」
「残念だったね。目論み外れて」
 腕組みをし、若菜は笑って。
「……大輝先輩って、貴方の何なんですか」
「は?」
 若菜は目を丸くした。
「上司に決まってるでしょう」
「それだけですか」
 和人の瞳は真剣で、若菜はなぜか落ち着かない気分になりながら答えた。彼がどんな意図で問いかけてくるのか分からない。
「それだけって、他に何があるって言うのよ」
「大輝先輩って明らかに……いや」
 和人は途中で言葉を濁らせた。その態度に若菜は眉を寄せる。続きを待ったが、彼からはもう何も続かなかった。
「何? 途中で言いかけて止められるのって凄い気になるんだけど」
「……アンタは大輝先輩のことどう思ってんだよ」
 口調を変えた和人は苦々しく問いかけた。
「何よ。悪口でも言いたいわけ? 大輝先輩は私が入社してからずっと面倒見てくれてる人だよ。嫌うのは勝手だけど大輝先輩に迷惑かけないでよね」
 和人の真意が分からず、ひとまず釘だけでも刺しておこうかと告げた。彼の雰囲気が一変する。戸惑いから冷徹な態度へと、若菜を見る視線までも冷たくして、持っていた缶コーヒーを握り締める。
 その悪意に怯んだ若菜だが、負けるかと唇を引き結んだ。和人が小さく舌打ちする。
「俺、アンタみたいなタイプが一番嫌いだ」
 和人は言い捨てると若菜の言葉を待たずに階段へ消えた。
 若菜は彼の背中を呆然と見送る。やがて沸々と湧き上がってきた怒りに拳を握り締める。強く息を吐き出した。
「何なのよ……!」
 刺さった棘は抜けずに深い。
 気晴らしに来たはずの屋上で、ストレスが積み重なった。
 若菜はベンチに戻りながら盛大なため息をついた。ふと視線を周囲に巡らせたが、誰もいないようだ。和人とのやり取りを誰にも聞かれていないと安堵する。ベンチに座り、足を遊ばせながら目の前に並ぶビルを見上げる。そちらのオフィスも休憩時間らしく、社員たちの寛ぐ様子が窓ガラスに映っていた。
「お前に嫌われたって痛くも痒くもないわ……!」
 若菜は苛々と吐き出す。
 空は晴天だが心は重い。首から掛けている指輪を手繰って目の前に掲げる。シンプルな銀の指輪が光を弾く。
「なんて厄介なもの送り込んでくるのよね……!」
 若菜は指輪を握り締めた。

 
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