桜の宵夢
前へ目次次へ
2.

 終業を告げるベルが鳴る。
 その音が余韻を残している間に帰り支度を整えた若菜は、帰宅者で込み合う前に外へ出ていた。
 今日は朝から疲れる出来事ばかりが続いていて、頭が痛かった。
 ここ最近、自宅へ戻れば常に厚志がいる。常に口喧嘩をし、常に憎たらしい笑顔を睨み、常に眉間に皺だ。眉間の皺が消えなくなったらどうしよう、と若菜はため息を吐き出した。
 そんな訳で、和人とのやり取りで疲れている今、厚志とのやり取りで更に疲れることは明白なのだ。こうなれば厚志と一戦交える前に、どこかで英気を養いたい気分だった。
 若菜はそんなことを思いながら本気で飲み屋でも探そうとしたが、元々アルコールの類はそれほど好きでもない。無理に行きたい場所も思いつかない。それが“厚志のため”と考えるなら尚更だ。腹の底で、ムカッと力が湧いたのを感じた。
(なんで私がこんなムカつかなきゃいけないのよ。大体あそこは自分の家だ、自分の家。むしろ追い出すべきだ、厚志の方を。まったく。人間づきあいなんて面倒だから距離置いてたのに、何でこんなに人に関わってるんだろう、私。これも全部デメリットだらけの法律のせいだ。私が過労死したら恨んでやる。日本政府め)
 疲労はかなり蓄積されているようだ。思考が前向きとは正反対を向いており、底無し沼にズブズブと沈んでいく。
 若菜は足に鉛をつけたままバス停へ向かおうとして気付いた。
 反対側から会社に向かって歩いて来る、一人の女性。黒い艶やかな長髪を梳き流し、カツカツと高く音が鳴るハイヒールを履いている。ゆったりと余裕を持つワンピースと羽織が、女性の金銭的余裕を表しているようだった。
 意志の強そうな瞳が誰かを捜すように泳いでいる。
 若菜は彼女に見覚えがあった。
「……麻衣子さん」
 若菜はため息とともに呟いた。麻衣子はまだ若菜に気付いていない。
 なぜ私の周囲には事件が頻発するのだろうと、頭を抱えたい。誰かの嫌がらせだとしか思えない。そうであれば原因は厚志に尽きると決定付けられるのだから、奴に対する期待など下降曲線を描き続けるのだ、これからも。
 若菜は無視したい気持ちを抑えて麻衣子に近づいた。彼女の知り合いがこの会社にいるとは思えない。彼女は確実に若菜に会いに来たのだろう。そうである以上こちらから声をかけて止めるべきだ。これ以上彼女を会社に近づけたくない。
「あなた……!」
 足早に歩み寄ると麻衣子が気付いた。整った顔立ちに驚きを浮かべ、次いで嫌悪が浮かぶ。声を緊張させ、何かを叫ぼうとした。
 若菜は慌てて彼女の口を塞ぐ。暴れようとする腕を押さえつけ、まるで誘拐犯にでもなった気分で彼女を引き摺り、会社から離れる。その間中、麻衣子の恨みがましげな視線が突き刺さっていたが関係なかった。
 若菜よりも背の高い麻衣子だが力は意外に弱い。喧嘩慣れなどしていないから、力の出し方を知らないのだろう。
 ここならば注目を浴びることはないだろうと思われる距離を引き摺った若菜は、ようやく麻衣子を放した。
「私に何か用ですか?」
「貴方ね! どういう神経しているの。靴が脱げてしまったではないの」
 若菜は視線を落とした。非難された通り、麻衣子の右足には靴がなかった。視線を巡らせれば、少し遠くに彼女の右靴が転がっている。
「ご、ごめん」
 若菜は慌てて靴を拾った。謝りながら彼女に靴を履かせ、そして「待てよ」と眉を寄せる。自分がへりくだる必要がどこにもないような気がした。勝手に押しかけてきたのは麻衣子だ。
 若菜は思い直すと立ち上がり、背筋を伸ばした。麻衣子を眺めると、まだ不満そうに唇を尖らせている。若菜が履かせた靴の具合を確かめるように、つま先を鳴らせる。
 肩から零れる黒い髪がとても綺麗に光を宿した。
「あの。私に何か用ですか?」
 癖のない真っ直ぐな黒い髪を羨ましいと思いながら、若菜は先ほどの問いを繰り返した。麻衣子は直ぐに顔を上げて若菜に向き直る。彼女もようやく自分が何をしに来たのか思い出したようだ。
 とは言え、若菜には既に、麻衣子の言葉が予想できていた。
 麻衣子が一人で若菜に会いに来た理由は一つ。
「厚志さんと別れて頂けませんか?」
 ほらきた、と若菜は内心でため息をつきながら首を傾げてみせた。
「嫌です」
 即答すると麻衣子は頬を引き攣らせる。自分の思い通りにならないことなどない、と信じきっているお嬢様の瞳だ。
 麻衣子は先ほどよりも少し苛立った口調で続けた。
「お金ならちゃんと用意してありますわ」
「更に嫌です」
 若菜は辟易しながら笑顔を浮かべてみせた。想像の中だけで麻衣子を平手打ちした。本当は厚志などお膳立てして熨斗袋に入れてまで献上したいくらいだが、ここは恋人契約を優先させるべきだろう。
 麻衣子はグッと言葉を詰まらせると形相を険しくさせる。
「引き下がりなさいよ迷惑な女ね!」
「お互い様です」
「貴方、厚志さんのお父様にお会いしたことがありまして?」
「この前、頼んでもないのに会いに来てくれましたよ」
「私には厚志さんが必要なのよ!」
「求められたのは私ですし」
 麻衣子は真っ白な頬を怒りに紅潮させた。
 若菜は笑う。最初は嫌なだけの会話だが、徐々に楽しくなってくる。その会話はいつも厚志と交わしている言い合いに似ていた。
 しかし冗談ではない麻衣子は、若菜に真剣さが見られないと悟っているのか、まるで射殺すように若菜を睨みつけている。涙さえ浮かべて、悔しげに問いかける。
「厚志さんのどこが好きなの?」
 若菜は笑顔で絶句した。残念ながら即答できる所が何もなかった。
 麻衣子はその雰囲気に何かを感じ取ったのか、「おや」というように眉を上げた。若菜を覗き込もうとする。
 若菜は焦った。早く何かを答えなければと思うのだが、頭が真っ白になって何も浮かばない。契約が第一であり、厚志をそういう対象に考えたことがなかった。悪口なら延々と上げ連ねるのに、と冷や汗を浮かべる。
「貴方、厚志さんの恋人なのでしょう?」
「も、もちろんよ」
「それならどこが好きなのかくらい、即答してみせなさいよ」
 麻衣子は直ぐに切り返してきた。詰め寄られた若菜は視線を逸らして泳がせる。ますます不信感を募らせた麻衣子が眉を寄せる。
「それは、だから」
「何ですか?」
「や、優しい所とか」
 苦し紛れに出てきた、ありきたりな答え。若菜の脳裏には、女性社員が休憩中に広げていた恋愛雑誌が浮かんでいたが、麻衣子には分からない。答えながら若菜は鼻で笑いかけた。“優しい男”の称号が何て似合わない男なのだろう、と。
 しかしそれを聞いた麻衣子は悩むように視線を落とす。
「……そうね。確かに厚志さんは優しいわ」
「どこが?」
 思わずツッコミを入れた若菜を、麻衣子は不思議そうに見上げた。
 若菜は慌てて手を振った。
「ええ、優しいんですよ?」
 テンポがおかしいことはこの際気にしてはいけない。ついでに自分を今だけ忘れることにして、若菜は休憩中小耳に挟んだ女性社員達の恋愛話を思い出しつつ、話した。
「笑顔が素敵で私が落ち込んでたら励ましてくれて一緒に遊んでくれるしお金持ちだし足は長いし黙ってれば何もしないし猪突猛進だし自己中だし?」
 レパートリーは直ぐに尽きて途中から皮肉に変わったが、若菜は気付かなかった。代わりに麻衣子が半眼となる。
「貴方、本当に好きなの?」
「ええ、もちろん?」
 若菜は棒読みをやめた。
 麻衣子は先ほどよりも不信感を強めたようだった。
 若菜は愛想笑いを浮かべて誤魔化しながら、必死で厚志の良い所をひねり出そうとする。
(一滴ぐらい出て来いよ、良い所!)
 ただの八つ当たりだった。
「……正義感は強い、らしい。犯罪に巻き込まれたの自分のせいだと思ってたし。そのくせ私に対しては犯罪寸前、ためらわないけど。女一人で夜道を歩かせない所には好感持てるけどそれくらいだったらお持ち帰りしそうだからこれはなしか。厚志父に誘拐された時は真剣に駆けつけてくれたみたいだけど、その後やっぱり自己中な発言してたしな」
 若菜は真剣に考え込む。もはや麻衣子に対する言葉というより独り言だ。麻衣子が呆れたような声を出した。
「貴方、最後に必ずけなすのね」
「ひねくれた愛情表現ですから」
 若菜が断言すると麻衣子は沈黙した。嘘も方便である。なんて便利な言葉なんだろう。
 麻衣子は嘆息する。
「まぁ、いいわ。とにかく、別れて下さい」
「貴方、人の話聞いてました?」
 ごく自然に“別れて下さい”と告げられて若菜は「おい」とツッコミを入れたくなった。今まで必死に厚志を褒め称えた苦労は何だったのか。麻衣子の肩をつかもうとしたが、横から別の手が伸びてきて若菜の腕をつかんだ。気配もなかったその腕に、若菜は息を呑む。
「何してんですか、阿部先輩」
 見上げると秋永和人がいた。彼は若菜の腕をつかんだまま険しい表情で見下ろしている。
 驚いたのは若菜ばかりではなく麻衣子も同じだった。しかし麻衣子はもともと和人と知り合いだったのか、和人を見ると親しげに彼の名前を呼ぶ。
「お久しぶりです。麻衣子先輩」
 和人は柔らかい笑みを麻衣子に向けた。若菜には見せたこともない笑顔だ。
 微笑む麻衣子と和人。非常に腹の立つ一枚絵である。
 若菜は怯えたことを恥ずかしく思うと同時に腹立だしく思い、つかまれた腕を乱暴に振り解いた。背後から突然現われるなよと、渋面を作りながら和人を睨みつける。
(なんか最近は無駄に鼓動の無駄遣いしてる気がする。きっと早死にするんだ)
 若菜は激しく高鳴っている胸を押さえながら呼吸を整えた。
 視線の先では、美女と、それを慕う初々しい部活の後輩、の図柄が展開されている。ここは別世界かと踵を返したくなった。
「何しに来たんですか、麻衣子先輩?」
「この方がいるせいで私の計画は邪魔されてばかりなの。だから」
「ああ、圧力かけておこうって腹ですか」
「やだわ。そんなつもりじゃないのよ?」
「そうですね。そんな黒い性格、麻衣子先輩には似合いませんよね」
「ええ」
 和やかに――とても和やかに会話は進む。たとえ内容に問題があっても、彼らが浮かべる笑顔は心安らぐ。若菜は二人から視線を逸らしてみた。見えない火花が二人の間で散らされている。
 ともすれば、和人の発言は若菜を庇っているとも思える。
 けれど。
「……アホらし」
 若菜は今度こそ踵を返した。
 気付いた麻衣子が声を荒げる。
「ちょっと。まだ話は終わっていませんのよっ?」
「だって私には聞くつもりもありませんしー」
「何て失礼な方なのかしら!」
 若菜は足を止めず、振り返りもせず、ただ肩越しに片手をヒラヒラと振ってみた。麻衣子は案の定、怒ったようだが若菜には関係ない。肩を竦めて遠ざかる。そこに和人の声が割って入った。
「あの人、自宅の雨戸も素手で突き破る怪力の持ち主ですから直接対決は避けた方が良いですよ」
「まぁ!」
「誰がそんなこと吹聴してるのよー!」
 麻衣子が目を丸くするのと、若菜が振り返って絶叫するのは同時だった。

 
前へ目次次へ