桜の宵夢
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3.

 この二人には付き合いきれない。
 若菜はこれ以上ストレスを溜め込まないうちに、と二人から離れようとした。麻衣子と和人を駐車場に残して踵を返す。地面を見ながらバス停まで早足で進もうとする。迎えなど知らない。
「あれ。和人?」
 前方から降ってきた声に、若菜は顔を上げた。
 今、最も聞きたくない男の声だと思った。
 ――案の定、目の前には厚志の姿がある。どうやら若菜が連絡を入れる前に着いていたらしく、彼の背後にはエンジンが止まった車がある。ボードに本が開いたままうつ伏せてあることから、それを見ながら自分を待っていたのだろうと、若菜は推測した。
 歩いて来る厚志はふてぶてしく悠々としている。その態度はまるで会社幹部だ。
 若菜は眉を寄せて口を開いた。憎まれ口の一つでも叩いてやろうと思ったが、その前に、後ろから追い抜かした二人組みに機会を奪われた。
「厚志さん!」
「厚志先輩!」
 麻衣子と和人だ。二人とも息を揃えて見事な笑顔を浮かべている。先ほどまでとは雲泥の差。まるで飼い主に懐く仔犬のようで、若菜は少し呆然としながらその光景を眺めた。
「……人望は皆無なのになぁ」
 そんな若菜の呟きを敏感に拾い上げたのか、厚志の視線が若菜に向いた。その瞳には不服そうな光が湛えられている。
 若菜は思わず笑った。
 そんな若菜と厚志の様子など意に介さず、厚志を捕らえた麻衣子と和人は必死に厚志の袖を引いた。
「今日こそは私との結婚を承諾して貰いますわよ」
「何だよ、今日こそは、って。しねぇっていつも言ってるだろ」
 うんざり返す厚志の傍から和人が口を挟む。
「厚志先輩。もしかして阿部若菜にこき使われてるんですか?」
「逆だ逆。俺がこき使ってんの」
「あら、使用人なら私の屋敷にも沢山おりますわよ。あのような方より私の使用人をお選び下さい。目の保養に貢献致しますわ」
 散々好き勝手言われるがまま、若菜はそっと拳を握り締めた。今すぐこの拳を厚志の腹に埋め込みたい気分だ。
「でも先輩が自ら運転なんて」
「やはりこき使われているのですね、あの野蛮人に!」
「高貴な野蛮人よりただの野蛮人の方がマシだと思う」
「意味分かんねぇよ」
 麻衣子の怒鳴り声に小さく反論した若菜に、厚志が呆れて笑った。
 厚志は二人を押しのけると若菜の手を取る。背後二人の喧しい声を無視する。
「ほら、帰るぞ」
「……おう」
 若菜はなんだかムズムズとする妙な感覚を覚え、笑いたいのか怒りたいのか、奇妙な顔をしながら頷いた。落ち着かなくなる心臓を不思議に思う。
 その時、マナーモードに設定していた携帯が震えていることに気付いた。鞄の中から微かな震動音がしている。
 若菜は鞄を開けて携帯を取り出し、そして眉を寄せた。そんな表情を見た厚志も眉を寄せる。
「若菜?」
「……凄く嫌な予感がする」
 マナーモードを解除した途端に流れてくるのは、ベートーベン交響曲第五番の運命。厚志の父親、斎藤純一、彼専用に登録している着メロだ。
「何だその音楽」
 何も知らない厚志は馬鹿にしたように笑った。
 若菜は横目で彼を見ると、ボソリと「お前の父」と呟いた。
 厚志の瞳が丸くなる。
「はぁ? なんで親父がお前の携帯に」
「もしもし。阿部ですけど」
 焦って詰め寄る厚志を腕で押しのけ、若菜は不機嫌な声で携帯に出た。麻衣子と和人も興味を持ったように大人しくなる。若菜としては非常に奇妙に思える構図だ。
『やぁ若菜ちゃん。仕事は終わった?』
 “ちゃん”付けで呼ばれた若菜はこめかみを引き攣らせたが、ひとまず耐えた。
「ええ。物凄く丁度いいタイミングで掛けてきますよね貴方」
 厚志の声を少し低くしたような声だ。厚志が歳を取ったら――或いは、厚志がこんな調子で喋れば、同じ声に聞こえるのだろうか。目を閉じたら厚志が今よりも大人になった姿が連想できそうだ、と若菜は思った。
『そこに厚志もいるか?』
「ええ、いますよ。先に言っておきますけど私を伝言板にしないで頂けます? 話したいことがあるならご自分で厚志の携帯に掛けなおして下さい」
「親父からの着信は拒否設定だ」
 若菜の言葉から会話の内容を推測したのか、厚志が不機嫌そうに言い捨てた。その声が聞こえたのか、純一が楽しげに笑う声が聞こえてくる。笑い声まで厚志にそっくりだ。
『ということで、若菜ちゃん』
「何がということなんですか。それでも私は伝言板になるつもりはありませんよ」
『伝えなくても構わないよ。どうせ厚志も一緒に来るだろうからね』
「は?」
 話が見えない若菜はうなる。
『今、安西さんたちと一緒にいるんだが』
「安西さんたち?」
「ちょっと待てよ親父! いい加減あの人たちに迷惑かけるのは」
「うるさい厚志。聞こえない」
 耳元で喚き出す厚志を睨みつけて、若菜は少し離れた。純一の声に再び耳を傾けると、楽しげに笑う声が聞こえてくる。
『今日は風もさほどないいい天気だし、安西たちと花見をしようっていうことに決定したんだ』
「貴方が無理に決定したんじゃないですか? 厚志じゃないけど、私もあの人たちに迷惑かけるのは」
『若菜ちゃんは誤解している』
「はい?」
『安西のことを買い被りすぎている。俺よりもよっぽど曲者だぜ? じゃなきゃ俺よりもかなり年上の奴と、俺がうまくやっていける訳が』
 刹那、受話口の向こう側からうめくような声が上がって沈黙が流れた。
 若菜の脳裏に穏やかな安西邦光の笑顔が浮かぶ。
「……ご冥福をお祈りしますとでも言ってあげましょうか?」
『口が滑っただけだ。気にしないでくれ』
 純一は気を取り直すように咳払いした。
『それでだな。夜桜なんだが、若菜ちゃんも招待しろと安西がうるさくて……いや、俺が会いたいだけなんだけどさ』
 なぜか焦ったような純一の声だ。
 若菜は憮然と聞いていたが、夜桜、という言葉に瞳を瞠った。楽しそう、という想いが瞬時に湧いた。
「……構いませんよ。明日も出勤ですから長居はできませんけど、先週は安西さんたちにお会いできませんでしたし。厚志の襟首引っ張って行きますよ」
「殺す気かお前」
 厚志が呆れたようにため息を零した。大人しかったため存在を忘れていたのだが、隣には厚志がいたのだ。若菜は見上げて笑ってみせる。
「お花見、参加決定」
「……若菜が行くって決めたなら、別にいいけど」
「よし、決定。オジサン、場所はどこですか?」
『オジサン……』
「いや、そんなことにショック受けられても」
『純と呼んでくれれば』
「厚志父。場所はどこですか」
 若菜は半眼になって低く遮った。向こう側には短い沈黙が流れる。
 軽いため息が聞こえた後に回答が来た。
『安西の敷地内だよ。厚志に聞けば直ぐに分かるさ。じゃあ……っと、紗江さんが来た。じゃあな』
 若菜は眉を寄せたが、純一は一方的に電話を切ってしまった。受話口からは途切れたツー、ツー、という音しか聞こえなくなる。
 仕方なく、若菜は携帯を閉じて厚志に向き直った。

 
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