桜の宵夢
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4.

 安西邦光の敷地は非常に広大だ。庶民の感覚を上回っている。
 若菜はあたり一面、満開になった桜山を見渡しながら、改めてそう思った。
「帰り道が分からなくなりそうなくらいの桜吹雪だね」
「俺を遭難に巻き込むのはやめろよ?」
「厚志が道案内を間違わなければ巻き込まれないよ」
 眉を寄せながら見下ろしてくる厚志の隣で、若菜は明るく笑うと彼の腕を叩いた。厚志はため息をつきながら視線を前に向ける。そんな姿を若菜は横目で窺い、苦笑した。嫌っている父親に会うと思うからなのか、意気消沈しているようだ。彼の横顔には疲れが滲んでいる。足も重い。それでも付き合ってくれる厚志は律儀だ。
 若菜は視線を前に向ける。
 本当に迷子になりそうなほどの桜吹雪だ。この辺りには桜しか植えられていないようで、どの樹も淡い花弁を落としている。一度道を外れてしまったら二度と戻れないような気がする。似たような風景の中を永遠にさまよい続けることになりそうだ。
 若菜は無意識に厚志の袖をつかんでいた。
 背後から敵意に満ちた声が飛ぶ。
「少しベタベタし過ぎじゃなくって?」
 振り返ると麻衣子が険しい形相で若菜を睨んでいた。彼女の隣には和人もいたが、彼は我関せずと、桜を眺めている。厚志の車に強引に乗り込み、ここまでついてきた二人だ。
 その存在をすっかり忘れていた若菜は慌てて厚志の袖を放した。弱味を知らず曝け出してしまったようで気まずくなる。
 袖を放した若菜を見ると麻衣子は満足そうな笑みを浮かべたが、次にはその表情が凍りついた。厚志が若菜の手をつかんで引き寄せたからだ。自然、若菜は厚志に寄り添うような形となる。
「ちょっと……!」
 強引さに若菜は小さく抗う。しかし厚志は聞く耳持たない。彼が腰を屈めると若菜の視界には厚志しか映らず、麻衣子の姿が消える。
「親父の側には座るなよ」
 身をひねろうとした若菜は何を言われているのか分からず眉を寄せた。意味には直ぐ気付き、呆れが湧いた。そこまで父親を嫌わなくてもいいんじゃないかと肩を落とす。背後の二人には聞こえないよう、若菜も小声で囁いた。厚志からは顔を背ける。
「さぁね。場合によりけりでしょう」
「だいたい、なんでいまさら花見なんだよ」
「こっちじゃ今頃がシーズンなの。こどもの日には花見って決められてるのよ」
「聞いたことねぇ」
「私がいま決めた」
 厚志は何か言いかけたようだがそのまま口を閉じた。笑いを堪えて腰を伸ばす。若菜を一度解放したが、再び手を握った。今度こそ振り解こうとした若菜は、前方に人影を見て諦めた。黙ったままその状態を享受する。
「若菜ちゃん!」
 桜並木の向こう側から手を振るのは体格のいい青年だ。遠目なので輪郭は桜吹雪に負け、姿も朧にしか見えない。
 若菜は瞳を細めた。ふと既視感に襲われる。
 手を振るのは純一だと分かっていても、遠目に見るその姿は厚志に思えた。お見合いの席で相手の将来を知るには親を見ろ、という言葉があるが、何となく納得する若菜である。
 桜並木を抜けた先の丘には見事な花畑が広がっていた。桜に負けるとも劣らない風景だ。視線を遠くに向ければ、仄かに色づいた春の山が見える。誰であろうと感動せずにはいられない絶景だった。
「着くのが早かったのね。邦光が迎えに出ましたけど、入れ違いかしら」
 花畑の中に座っていた紗江が振り返って微笑んだ。
 若菜たちは彼女に挨拶することも忘れて風景に魅入った。今ばかりは敵も味方もない。和人や麻衣子までも、感銘していた。
「日華里が一番好きな場所だったのよ。この場所」
 紗江は立ち上がると若菜に近づいた。彼女のスカートから、可憐な一輪が舞い落ちる。
 上品なショールを肩から羽織って胸元で合わせ、小粒の紅玉で留めている。嬉しそうな笑顔で若菜に語りかける。そこに翳りは見られない。遠景に向ける視線には純粋な喜びだけが宿っていた。
「毎年ここでお花見をするのが通例になっていたの。去年は厚志さんだけだったけど、今年はこんなに大勢。嬉しいわ」
 若菜は厚志を睨んだ。先ほどは花見に文句をつけていたくせに、毎年やっていたのではないかと。けれど厚志は若菜の視線など素知らぬふりだ。
 景色から人へと視線を移した紗江は微笑んだ。
 山から入ろうとする夕陽の残照は茜色。雲は染まり、桜の一枚一枚にもきらめきが宿っていた。光を映しながら風に舞う。振り返ると、並ぶ木々も染め替えられていた。太い幹の半分が金緑に輝いている。
「さて。じゃあ人が来たことだし、俺は邦光を呼び戻して来ようかね」
 丘からの眺望に子どもたちが魅入る様を面白げに観察したあと、純一がふざけた口調でおどけながら伸びをした。紗江が振り返って少し笑う。
「ありがとう、純一。でも早くしないと料理はみんな平らげてしまうわよ。少ししたら邦光を放ってでも戻ってきてね」
「そうさせて貰いますよ」
 微かに細められた紗江の瞳に、純一は肩を竦めて笑ってみせた。
 純一はすれ違いざまに厚志の肩を叩く。しかし厚志は嫌そうに振り払う。
「邦光さん迎えに行くなら俺が行く」
 まるで対抗するように純一の前に立ちはだかった。眼差しは剣呑だ。
 純一は彼の視線を受け流す。
「厚志が行ったら若菜ちゃんが一人になるだろう。だからってお前ら二人で行かせたら俺が紗江さんに拗ねられる。邦光は俺が迎えに行くから、紗江さんの話し相手になってやれよ」
 厚志は迷うように若菜と紗江に視線を向ける。
「……親父にあの人のこと任せるのが嫌なんだよ」
「そう言うな。帰ってきてから俺はまだあいつとゆっくり話もしてないんだからな。たまには独占させろよ」
 厚志が顔をしかめると純一は声を上げて笑う。片手を振りながら、桜並木の道へと歩いて行く。去り際に純一は和人と麻衣子に視線を向けたが、特に何を言うでもなく通り過ぎた。麻衣子は緊張していたのか純一が通り過ぎると肩を落とし、そして少し悔しそうに彼の後ろ姿を見送った。
「さぁ若菜さん。完全に陽が落ちてしまう前に、ランプに火を灯しましょう」
 純一と厚志のやり取りを窺っていた若菜は振り返った。
 光よりも闇の気配が濃くなった丘の上。花束から外れたところで、紗江が大きなバスケットの中からランプを幾つか取り出していた。火を灯すと暖かな光が紗江に映り込んだ。ずいぶんと年代物のランプのようで、ガラス部分を回すとキュルキュルと音が鳴る。
「紗江様。わたくしもお手伝い致しますわ」
 紗江はランプの輪に囲まれたまま微笑んだ。
「貴方にはお料理の配膳をお願いしようかしら。離れに料理長がご用意して下さっているはずだから、お手伝いしてきて貰える?」
「ええ」
 紗江は次々とランプに火を灯していく。老人とは思わぬ器用さだ。蓋をすると、炎の色が青や緑に見えるものもあって、若菜は目を奪われた。
 麻衣子が丘を下っていく。荷物は和人に預けたようだ。
 若菜は紗江に誘われるまま彼女の横に腰を下ろした。すると紗江は手本を示すように、新たなランプにゆっくりと火を灯した。蓋を閉めるまでを若菜に見せる。若菜がそれに倣って1つランプを灯すと喜んだ。
「じゃあ男どもはこれの取り付けね。熱いから気をつけなよ」
 若菜は男二人を手招きするとランプを押し付けた。火が入ったランプから次々と脇に寄せていく。周囲の桜には、よく見ると取り付けやすいように紐が通してある。毎年ここで花見をするとの言葉通り、下準備は整っているようだ。あとはそれに合わせて設置していけば準備完了だ。
 すっかり闇へ移行した周囲に視線を向けて、若菜はそっと背筋を伸ばした。
 純一はまだ戻らない。彼が消えた桜並木は闇に沈んでいてとても静かだ。彼が戻る気配はない。
 暗い桜並木を見ていると、不意に叫び出したいような衝動が込み上げてきた。
 若菜は落ち着かない気分にさせられる。
「惑わされては駄目よ。若菜さん」
 静かな声に振り返る。紗江はランプから視線を外さないまま微笑んでいた。揺れる炎に何を見出しているのか、紗江は炎を見続ける。
「こんな夜の闇には魔物が潜むのですって。桜は幻を見せる依代。あまり心を寄せすぎると囚われてしまうそうよ」
 紗江は顔を上げて若菜を見た。彼女の表情は揺れる炎の陰影に彩られている。
 若菜は差し出されたランプを無言のまま受け取った。
 安西さんたちの愛娘。厚志がいまだに囚われたままの女性。純一や和人、麻衣子までもが知る日華里という女性は、一体どのような人物だったのだろう。
 若菜は灯されたランプの火を見つめてかぶりを振り、顔を上げた。
「ほら若菜」
 ぼんやりした思考を打ち払うような声に顔を上げると、差し伸べられた手が見えた。その腕を辿っていくと厚志がいる。直ぐにランプを渡そうとしない若菜に不思議そうな表情をしている。
 若菜はランプを渡すと立ち上がった。
 闇に沈むはずだった花畑は、多く飾られたランプに照らされて穏やかな光を含ませていた。視界を流れる花弁が煌きながら舞っていく。風もさほど動かない夜。花見には絶好の日だ。
「邦光さんたち、遅いね」
「そうか? さっき行ったばっかりだろ。ま、親父はこのまま帰ってこなくてもいいけどな」
 どこまで本気なのだか分からない厚志の口調に、若菜はそっと笑って肩を竦めた。振り返ると和人と厚志が熱心にランプを吊るしている。どこから持ってきたのか、和人が脚立に登りながら位置を調節していた。紗江はまるで遠足のように広げたシートに座って、男たちの様子を眺めている。とても楽しそうだ。
 ランプの準備が終わった若菜もまた、手持ち無沙汰になって男たちの様子を眺めていた。準備が整っていく様子を見るのはとても楽しい。
 若菜はそっと桜並木の通りを振り返った。逸る気持ちを抑えて口を開く。
「私は邦光さんたちを呼んでくるね。麻衣子さんが来るまで時間があるだろうし、それまで暇だから。道なりに行けば迷わないよね」
 厚志と紗江が驚いたように振り返る。
「じゃあ行ってくるね」
 若菜は早口になっているのを自覚しながら踵を返した。小走りになって桜並木に飛び込む。自分でも何をこんなに急いているのか分からない。ただ、あの場所に何もせずに居続けるのが辛かった。あの場所には日華里の思い出があり過ぎる。
 厚志が追いかけてくる声があったが振り返らない。整然とした桜並木の道を逸れて山に分け入る。少し走っただけで桜以外の樹に出くわし、間隔は不規則になる。まるで厚志から逃げるためにこちらへ入ったようだと若菜は思った。それでも義理のように若菜は純一の姿を捜した。
 山を駆け下りた風が若菜に体当たりした。若菜は思わず息を詰めて腕を前に翳す。息ができなくて苦しい。今の風で巻き上げられた花弁が凄まじい量、視界を埋め尽くす。冗談ではなく花弁に埋もれてしまいそうだ。
 ここから抜け出さなければ正常な呼吸を取り戻すこともできない。
 若菜は手を伸ばした。
 安西夫婦に出会ってから常に感じていた息苦しさ。彼らのことを嫌いな訳ではなく、むしろ好きに分類される方だというのに、なぜこんなに苦しまなければいけないのだろう。苦しんでいること自体が彼らに対する裏切りに感じられる。このことを彼らに悟られてはいけない。
 荒れる桜吹雪に自分を見失っているようだ。ここに居る自分は一体誰なのか、分からなくなってしまいそうだ。
「若菜?」
 若菜は腕を引かれた。悲鳴を上げる前に抱き寄せられて、視界から花吹雪が消える。顔を上げれば厚志がいて、気付けば息を乱す自分がいる。桜並木の道を全力疾走して来たのだと、自分でも驚くほど目を丸くして厚志を見つめていた。
「どこに向かう気だったんだよ。道、かなり外れてるだろ。それに、下向いてちゃ人捜しとは言えねぇぞ」
 厚志の声はどこか不機嫌そうだった。
 若菜は彼の声を確かめるように首を巡らせて周囲を確認する。自分が確かに、道のない山の中に入ってしまったのだと自覚する。辺りは既に闇が支配しており、少し先も見えない。
 若菜は厚志を見上げた。なぜだか目頭が熱くなってくる。
 そんな若菜の変化を感じ取ったのか、厚志が焦ったように口を開いた。
「大丈夫、俺だ。他には誰もいない」
 若菜は眉を寄せた。妙な慰め方をするなと思ったのだが、その意図するところに気付いて苦笑した。知らない人に暗闇で急につかまれたら確かに恐ろしい。けれど今はなぜだかその恐怖も湧いてこなかった。もしかしたら自分を捕まえるのは厚志だと知っていたのかもしれない。厚志に恐怖を覚えても仕方ない。それでも今は、厚志のそんな気遣いを確かに嬉しく思う。
 若菜は俯きながら呼吸を整えた。額を厚志の胸につける。抱き締めてくる腕は束縛ではなく、守るもの。安心できて肩から力が抜ける。そのまま厚志にもたれかかりたかったが、敢えて体を離した。
「……私は、日華里さんの代わりにはなれない」
 厚志の腕が動揺を伝えてきた。
「私がここにいるのは日華里さんの代わり? 何のため? 私は、紗江さんたちが望む日華里さんの代わりには、なれない……よ」
 どんなに上手く日華里のように振舞っても、どんなに似ていても、結局は失望される。若菜は日華里とは別の人間だ。
 胸が苦しくて息が詰まる。目頭が熱くなるのを感じながら若菜は厚志を見上げた。何の応えも返らないことに唇を噛む。暗闇のため、厚志の表情が良く分からない。
 恋人契約が、若菜を日華里の代わりにしようとするためだけのものであったなら、もう破棄してしまおうと思った。こうなると若菜にとってはただ辛いだけだ。絶望しきる前に終わらせてしまった方がいい。
 若菜は終わりを告げるために唇を開いた。だが言葉を生むことなく、目を瞠った。暗闇のなかで微かにだが、何かが唇に触れた気がした。思考が止まる。
「代わりなんかじゃない。日華里には誰にもなれないし、若菜の代わりもいない。俺は、若菜を若菜として必要としてる。若菜のままでいろ。悩むな」
 苦しげな声に心臓が軋んだ気がした。言葉を何度も脳裏で繰り返し、口の端が緩むのを感じた。いつもは腹の立つ俺様主義の言葉だが、今はその言葉が心地よく響いた。抱き締めてくる腕に応えて頷く。夜の闇の中で、厚志の心臓の音さえ聞こえてくる気がした。
「厚志――」
 頬に触れた厚志の手が冷たくて、若菜はその体温を感じるように瞳を閉ざそうとした。温かな気配がすぐ側まで迫る。
「――ばかりで勝手な」
 若菜は聞こえた声に瞳を瞬かせて首を巡らせた。拍子に厚志の額が若菜の肩につく。それを感じながら若菜は視線を巡らせ、遠くに灯りを見つけた。目を凝らすと紗江が持っていたランプと同じ光だと気付いた。耳元で厚志の舌打ちが聞こえる。
「邪魔しかしねぇなあの親父」
「は?」
 近くで聞こえた苦々しげな声に視線を向けたが、その時には厚志は離れていた。ほんの微かな星明りから表情が窺えるだけ。
「邦光さんもいるな。一緒に戻るか」
「それはいいけど……」
 若菜は落ち着かない気分であいまいに頷いた。しかし深くは追及しない。厚志に腕を引かれるまま邦光たちに近づく。彼らはまだ若菜たちに気付いていないようだ。
「これでも感謝はしてるんだぞ」
 愉快そうな表情の純一と、不機嫌そうな表情の邦光。
 桜並木のならされた道をいく二人は、ゆっくりと歩いていた。
 何の会話をしているのだろう。若菜は思わず厚志と顔を見合わせてしまう。言葉を交わすことなく盗み聞きすることに決め、彼らの後をそっと追いかけた。
「美嘉と別れて無理にこっちに来させたからな。荒れてたあいつと日華里を引き合わせて宥めてくれたんだろ」
「私は何もしていない。あれは偶然そうなっていただけだ」
 邦光は眉を寄せたまま純一に返した。
「まったく。お前の息子だと知った時には肝を潰した」
 純一は声を上げて笑う。
「偶然って怖ぇよなぁ」
「助かったのはこちらも一緒だがな」
 若菜は眉を寄せた。彼らの話題にのぼっているのが厚志のことだと気付いた。
 厚志に視線を向けると、彼の表情は強張っていた。面白くないことを思い出すような内容なのだろう。厚志のそんな顔を見ていることが辛くて二人の間に割り込みたかったが、同時に知りたいという欲求も強くて迷ってしまう。厚志に何と声をかけるべきか思い悩む。このまま邦光たちの後をつけていけば、厚志が知られたくないと思っている核の部分に触れるだろう。
 悩んでいると厚志の足が止まった。彼に腕をつかまれている若菜も当然ながら止まる。厚志を振り返る。
「――俺はまたしばらくここを離れることになるが、よろしくな」
「お前の息子のことだろう。自分で何とかしろ」
「美嘉のことがあってからは更に強情になったからなぁ……」
 純一たちの声が遠ざかっていく。
 若菜は急かされるように厚志を振り返ったが、厚志の足は動かない。険しい表情のまま佇んでいる。ランプが遠ざかっていく。
 若菜は純一たちに声が届かないように声を潜めた。
「厚志のお父さんって、厚志が思ってるほど嫌な奴じゃないのかもよ?」
「それは若菜がまだ知らないだけだ」
 拒絶するような固い声音に若菜は少し間をあける。
「心配、してくれてるみたいだしさ」
「跡取りっていう肩書きが心配なだけだろ。今まで何もしてこなかったくせに、離婚ってなった時だけ父親面しやがって。ムカつくんだよ」
 厚志は吐き捨てるようにして顔を歪めた。固く握り締められた拳が白くなっている。若菜はその上から自分の手を被せた。視線をその手に落としたまま告げる。
「平気平気。契約はまだまだ続くし私はここにいるから。日華里さん……が、何をしてくれたかは分からないけど、私にだって何かできるでしょう?」
 若菜は見上げた。厚志はただ若菜を見下ろすだけだ。何の声もない。
 沈黙が続くと若菜は落ち着かなくなって視線を逸らせた。まるで見当違いなことを言ってしまったような気になる。恥ずかしくなって頭をかく。
「い、いつまでもここにいたって仕方ないよね。邦光さんたちは戻ったし、私たちも戻らないと」
「若菜」
「な、何?」
 声が上ずった。何を焦っているのだろうと思っていると、抱き締められた。心臓が止まった気がした。けれど若菜が動揺する前に厚志は解放する。若菜は腕を引かれて歩き出す。何が起きたのか分からずに呆けていると、前で笑う気配がした。からかわれたのだと悟って表情を引き締め、手を引く厚志を睨み付ける。効果はない。
「あいつがまたいなくなっても清々するだけだしな」
 厚志はどこか吹っ切れたように明るい声を出す。若菜を振り返って笑顔を見せる。そんな様子に若菜は悔しい思いをしながら低い声を返した。
「元気じゃんか。心配して損した」
 厚志が笑う。
「敵に情けなんてかけて、いいのか?」
「二度とかけてやるもんか」
 視線を厚志から思い切り逸らせて言うと、厚志が楽しそうに喉を鳴らした。若菜は非常に悔しくて唇を引き結ぶ。足元に舞い積もった桜の花弁を踏みしめて鼻を鳴らす。厚志と繋ぐ手に力を込めて呼び、厚志が振り向く隙に軽く走って隣に並ぶ。これで同等の立場だ。
 他人から見れば何の意味もないように思える駆け引きだけれど、若菜にとっては重要な位置。
 不思議そうな顔をして見下ろす厚志に、若菜は勝気に微笑んでみせた。

 

END
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