育ち行く想い
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1.

 週末に安西家へ赴くことは既に習慣になっている。
 厚志に連れられ、広い屋敷の中で紗江と談笑を交わす。ただそれだけなのだが、若菜にとってこの時間はもうかけがえのないものに昇格されている。紗江が「楽しくないわよね」と気遣っても思い切り首を横に振り、全力否定できるほどだ。そこに演技が入りこむ余地はない。
「また遊びにきてね。若菜さん」
「はい」
 見送りに出る紗江へと、若菜は笑顔で頷いた。
 両手には大型鞄。中身はすべて古着だ。古着とはいっても一度しか袖を通していないような美品ばかりなので、嫌悪感はまったくない。
 安西家にはいったい何千着あるのだろうか。毎週のように渡される服は、減ることがない。お陰で若菜はここ最近、洋服の買い増しをしていない。経済的にとても助かっている。これらの服がすべて日華里の服だと思うと少々複雑な気分ではあるが、これで自分も相手も助かっているなら無視できるような小さな問題だ。
「そういえば邦光さんはまた仕事なんですか?」
 帰る間際になって若菜は気付いた。いつもなら邦光も紗江と若菜の会話に加わってくるのだが、今回は一度も姿を見せなかった。側にいたのはコタツに入って眠そうにしていた厚志だけだ。
 紗江が笑いながら唇を尖らせた。
「そう。純一が帰国してから二人でつるんで、私はのけ者よ。前以上に家を空けることが多くなってしまったわ。体壊さなきゃいいんだけど」
 なじる口調の紗江だが、少し淋しげでもあった。
 若菜は視線を安西家に向ける。邦光がいなければ、この家には紗江と少数の家政婦だけになる。女ばかりでは何かと心細いのではないだろうか。厚志に紹介されてから、若菜も週末はなるべく顔を見せに来てはいるのだが、その条件なら阿部家も一緒だ。若菜がいなければ家には由紀子一人だけになる。それもまた問題だ。かといって、あの母をここに連れて来るのは絶対に嫌だ。
「厚志父って、昨日外に出たって聞きましたけど……」
「ええ。今度はオーストラリアですって。あの人も忙しいわよね。ちっとも一つ所に留まっちゃいないんだから」
 紗江は片手を頬に当ててため息をついた。困ったような姿はまるで純一の母親だ。
 若菜は苦笑しながら昨夜のことを思い出した。
 眠る間際、純一からの着信が携帯にあった。それは「今からオーストラリアに行く」というような内容のもので、別れを告げるものだった。
 若菜は背後の厚志にチラリと視線を向ける。
 厚志は先ほどから無言で会話拒否を続けている。車にもたれて暇そうに空を仰いでいる。会話は聞こえているだろうが、興味を見せることもない。純一からの電話は厚志にもいっただろうが、彼はそれを取ったのだろうか。
「どっちもどっちな感じがするんだけどね」
 若菜が軽く肩を竦めると、紗江は心得ているように目配せして笑みを浮かべる。
「じゃあまた。来週に来ますね」
「はい。いつでもお待ちしていますよ」
 あまり時間をかけていては帰りが遅くなってしまう。
 若菜は夕暮れが迫る空に気付いて頭を下げた。紗江も気付いたように瞳を丸くして空を見上げ、若菜に頷く。引き止めたいように腕が少し上がったが、直ぐに下ろされる。若菜はもう一度お辞儀をして挨拶をしてから車に乗り込んだ。
「気をつけて、紗江さん」
 ようやく会話が終わったことに気付いたのか、厚志も心配そうに紗江に挨拶をしてから車に乗り込んだ。
 紗江は穏やかな笑顔を浮かべながら二人に手を振る。
 車は静かな走行音を立てて走り出した。紗江の姿が遠ざかる。
 ――若菜は笑顔を崩すと疲れたように助手席へと沈み込んだ。
 演技をしていて疲れた、という訳ではない。紗江を好きな気持ちに偽りはない。それでも、気疲れは溜まる。
「熱出そう」
「せがまれたからって毎週来る必要はねぇぞ」
 気付いた厚志が横目で若菜を見ながら忠告した。どこか八方美人な所がある若菜を知っているからだろう。
「今週は行かないって決めてても、紗江さんから電話がくると何でか頷いてるんだよ」
 厚志に答えるのも億劫だ。瞼を閉じながらそう告げると低い笑い声が寄越される。引き受けると断れないのは長所にも短所にもなる。紗江がせめて男性だったなら言葉を選ばず断ることができるのになと、若菜は妙な逃避をした。若菜に本当に断ることが出来るのかは謎である。
「ところで厚志父って、次はいつ帰って来るって?」
「俺が知るか」
「お前の親だろ」
 それまで優しかった声は一瞬で固くなった。若菜が呆れると険しい表情で睨む。まるで子どもだ。
「俺よりお前との通話時間が長い親なんて面倒見切れん」
「拗ねてるだけか」
 ボソリと呟けば更に不機嫌な沈黙が待っていた。
 若菜は軽く肩を竦め、視線を窓の外へ投げやった。
 日本を発つという純一からの着信のみで、昨夜は着信履歴が一杯になった。一度でも繋がると長々と喋り出し、うんざりして切ればまた純一から着信。まるで嫌がらせだ。どうやら昨夜はそんな純一のせいで厚志からの電話が一度も繋がらなかったらしい。
 携帯片手に険しい顔をする厚志と、携帯片手にご機嫌な純一の顔を、両方とも瞬時に思い描いてしまった若菜は思わず笑った。事情を知らない厚志が不審そうに若菜を見る。
「夏の間は帰ってこない――とだけ聞いていたが」
「ふーん」
 程よく冷房が効いた初夏の車内。
 若菜はおもむろに自分の通帳を取り出した。
「見ても楽しくない残高の確認か」
「黙れ高給取り。お前に庶民の楽しみが分かってたまるか――だからそうじゃなくて」
 ひとまず低い声で噛み付いてから、若菜の声は普段に戻る。視線を通帳の残高照会に滑らせて言い淀む。
「念願の借金返済まであと数ヶ月」
 ピタリと、車内の空気が止まった気がした。冷房の音がやけに強く聞こえる。
 若菜は良く分からないまま緊張して息を吐く。
「最近は欲しい物も我慢してるし。このままいけば厚志父が帰ってくる頃には貯まってそうだな、と」
 軽い音を立てて通帳を閉じる。鞄にしまう。
 顔を上げることがなぜか恐ろしくて、視線をそのまま夜の車道に流した。軽い瞬きを繰り返す。
「私の役目はそこで終わり。厚志父が帰って来るときに、嘘でも婚約披露して別れれば目的達成。ついでに借金を返せれば私としては厚志に負い目を感じることもなくなる――と」
「返さなくてもいいと」
「それはお母さんと厚志が勝手に決めたこと。私はそれじゃ嫌だから返す。心配しなくても最後まで付き合ってやるから、ありがたく受け取れ」
 最後は冗談交じりに投げた言葉だったが、厚志からは無言しか返ってこない。
 意図した雰囲気とは正反対の空気だ。若菜は動揺して視線を揺らす。
 月明かりしかない夜道で車が止まった。誰も通らない時間帯らしく、車道には若菜たちの車しかない。
 若菜の体が緊張した。
「――キスしてもいい?」
「は?」
 あまりにも予想できなかった言葉に、若菜は思い切り問い返した。
 明かりのない車内。
 厚志はサイドブレーキを引き上げると身を乗り出してきた。衣擦れの音がやけに大きく聞こえる。喉が干上がって声が出ない。腕をつかまれ、若菜は瞳を大きく見開かせた。
 間近で相対した厚志は真顔だった。いつものからかうような表情ではない。
 若菜はその顔に目を奪われて悲鳴を上げることも忘れた。心臓の音が頭の中にまで響いてきて、何も聞こえない。厚志が何かを囁いたような気もしたが、それすら聞こえない。
「恋人としてのキス」
 若菜の腕をつかみ、体を大きく助手席へと乗り出した厚志はゆっくりと呟いた。若菜にも聞き取れる音量だ。
 助手席で固まる若菜は拒否することもできず、ただ「恋人」という言葉だけを脳裏で反芻させる。何度も何度も凄まじい速度で脳裏を駆け巡る言葉である。
 ――つまりなんだ。契約解除される前に恋人っていう立場を利用して一回くらいはキスしとこうとかいう欲望があるのかこいつ。
 という訳の分からないショックを受けたが次の瞬間にもそんなショックは忘れたりして、とにかく若菜は混乱のドツボに嵌った。厚志が抱く正確な意味など欠片も理解していないことだけは確かである。
 逃げる隙があったことなど知らない。ただ受け止めなければいけないのだという妙な先入観に捕らわれたまま、若菜は全身を硬直させて受け入れた。
 微かな重みが体にかかる。吐息が聞こえ、柔らかな前髪が額を掠める。
 若菜が固く瞼を閉じると、時間をかけて啄ばむような口付けは繰り返された。
 若菜が奥歯を噛み締めるようにしながら耐えていると熱は離れた。恐る恐る瞼をあけると厚志は既に運転席へ戻っている。
 全身から汗が吹き出て脱力する。破裂しそうなほど高鳴る心臓を押さえ、若菜は唇が震えるのを情けないと思いながら厚志を見た。
「お、終わり?」
 暗闇の中で短い沈黙が流れる。
 不味いことを言っただろうか。
 視線をさまよわせていると微かに笑う声が聞こえた。厚志に視線を戻すと、彼はシートベルトを締め直しながら笑っていた。その姿に若菜は安堵する。
「さぁな」
 からかうように笑いを含んだ声音。
 若菜はまだ指先が震えるのを感じてしっかりと拳を握り締め、助手席に背中を預けた。車は元のように走り出す。
 沈黙が二人を包む。
 どちらも口を開くことはなく、車は阿部家まで走った。

 
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