育ち行く想い
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2.

 若菜を家まで送り届けたあと、厚志はそのまま帰って行った。いつも通り上がっていくことはない。今の状態で上がられても由紀子に不審を抱かせるだけだろう。若菜は緊張でしばらく動きがぎこちなくなっていたが、時間が経つにつれて思考回路が繋がってくる。
「つまりなんだ。私は流されたのか?」
 部屋の床にぐったりとうつ伏せになる。床に頬をベタリとくっつける。
 初夏の陽気に見舞われた今日は、北に位置するこの地域でも特別に暑い。夏でも滅多に肌を出そうとしない若菜だが今は半袖だ。どうせもう夜中で誰も見ないのだから、いいだろう。
 若菜の表情は険しくなる。思考回路が正常に働くにつれて怒りも湧き上がる。唇を尖らせた。
「だってあの場面で誰に演技する必要もないじゃん? なんでいきなりキス? は、そういえば私、あれが初キス!」
 グルグルと言葉が脳裏を巡ってガバリと起き上がる。一瞬だけ貧血に陥って、目の前が真っ暗になった。
「ああ目が回る。私ってこんなに流されやすい奴だったっけ。というか厚志相手になに遠慮してるんだ。血迷うな私」
 座り込んだ若菜は、今度は敷いてある布団に横倒れになった。頭だけを布団に埋め込んで後悔に身を委ねる。頭が痛くなってくる。眼鏡が軋んだのでいち早く外し、固く瞼を閉じた。
 得体の知れないわだかまりが胸の奥に生まれた。意味もなく拳に力を入れる。
 厚志と一緒に行った遊園地で貰った巨大人形を引き寄せてもたれかかる。
「元は幼馴染だし、あんまり長くいると情が移りそうなだけだ。あと少しで別れられるんだし、気にするな私」
 気持ちがスッと楽になる。しかし直後に、まるで言い聞かせているようだと気付いて顔をしかめる。冷ました熱が再び顔を覆っていく。瞼を閉ざしたまま過去を思い出す。
 初恋を粉々に砕かれた瞬間。
 若菜はその時のことを思い出し、怒りが湧いてくるのを確認する。この怒りさえ忘れなければ私は大丈夫なんだ、と言い聞かせ、その怒りを更に思い出そうとする。
「それにしても暑い……なんで我が家には冷房が一つもないの。電気代がかかるから。ああはい、そうですねっ。もう、独り言も多くて嫌になる!」
 若菜は再び床に転がった。蝉の声でも聞こえてきそうな暑さである。まだ五月だというのにこの暑さは異常ではないだろうか。それでも徐々に眠気を覚えてきて、若菜は布団に移動する。瞼を閉じると意識が闇に溶けていく。
 その時、部屋に大きな着信音が響いた。
 若菜は体を震わせて起き上がる。眠気など一瞬で吹き飛ぶ大音量だ。
「うるさっ」
 十二時を回った深夜では由紀子も眠っている。
 若菜は顔をしかめて起き上がった。明日は日曜日なので夜更かしは構わないが、近所迷惑だ。
「こんな時間に誰よ」
 そうは言いながら脳裏には男の顔が浮かんでいる。こんな真夜中に、若菜ですら番号を覚えていない携帯にかけてくる者など限られている。家族からの緊急連絡か、厚志か純一か。
 携帯の液晶画面を見た若菜はため息をついた。
 七色に変色させながら音を響かせる画面には『敵』の文字。斎藤厚志を示す言葉だ。
 若菜は先ほど別れたばかりの顔を思い出して複雑な気分になった。いっそのこと眠っていることにして無視しようか。そう思いながらも携帯を開く。
「――何?」
 もう意識は冴えている。携帯を無視してもしばらくはまた眠れないだろう。それであれば携帯に出て、この暑さを少しでも紛らわせた方がいいかもしれないと思った。
 何を言っていいのか分からないまま、ひとまず不機嫌を装って出てみると沈黙が返される。
「――厚志?」
 無言電話かこの野郎。
 若菜は眉を寄せて緊張を解く。布団の上に胡坐をかいて「もしもーし?」と投げやりに問いかけた。それでも沈黙が続き、これは本当に厚志だろうかともう一度液晶画面を見直そうとした時にようやく、声が返された。それは予想していたよりも暗いもの。
『……若菜?』
 名前を呼ぶその声には動揺が含まれている。
 若菜は顔をしかめた。どこからかけているのだろうかと耳を澄ませてみたが、情報は何も聞こえてこない。
「なに。どうかしたの?」
『あー……』
「人語を喋れ」
 強く遮ると苦い笑い声が聞こえてきて、若菜も表情を緩める。しかし次に聞こえてきた言葉は、若菜の表情を奪うに充分な威力を持っていた。
『安西さんが倒れた』
 何を言われたのか理解できなかった。
『会社で倒れて、救急車で運ばれたんだ。今は病院』
「え……って、邦光さん? 紗江さんじゃなく? 倒れたって……なんで?」
『原因はまだ分かんねぇけど……今、検査中だ。東病院に運ばれて結果待ち。一応、若菜にも知らせておいた方がいいと思って』
 若菜はなにを言っていいのか分からない。ただ口を空回りさせる。
 厚志の口調は落ち着いていたが、声は沈んでいた。顔は見なくても動揺していることが分かる。何かを話さなければと思うが言葉がでてこない。自分の無力さに悲しくなる。東病院は自分の家から近い総合病院だったなと思い出す。病院が近いため救急車の音も頻繁に聞こえる。先ほども聞こえてきていた。もしかしたらあの音が邦光を乗せた救急車の音だったのかもしれない。そう思うと胸が締め付けられる。
『紗江さんにはまだ知らせてないんだ。心配かけたくない。今日は会社に泊まることにしておいたから、もしも紗江さんから電話があっても、口裏合わせてくれな』
 若菜が倒れたときも酷い焦燥ぶりをみせた紗江だ。邦光が救急車で運ばれたなどと聞いたらどれほど取り乱すのか分からない。
 若菜は口の中が乾いていくのを感じながら頷いた。
「わかった」
『結果が出たらまた連絡する。じゃあな』
「ちょっと待て――って、切りやがった」
 追いかける若菜の声は届かず、通話は無情にも途切れた。耳に押し付けた携帯からは何の音もしなくなる。若菜は腕を下ろして呆然としながら携帯を見下ろす。どうしたらいいのかと眉を寄せる。耳の奥で厚志の声が木霊している。
 幼い頃を思い出した。
 厚志は叫んでもどうにもならないと知っている子どもだった。最初はそうでもなかったが、若菜の初恋を邪魔してからしばらくして、そんな風に変わってしまった。無意味なことに感情を曝け出したりしない。誰よりも悲しんでいるくせに。
 ――倒れた。検査中。東病院にいる。
 端的な情報を脳裏で繰り返しながら、若菜は携帯を握り締めたまま玄関に向かった。
「いや待てよ? 私、別に来て欲しいって言われた訳じゃないよな?」
 由紀子を起こさないように玄関を潜り、外に出てからそう呟いた。
「動揺はしてたけど厚志の声はしっかりしてたし――邦光さんの容態ってそんなに重症って訳じゃないのかもしれない――」
 視線を落として呟いた。
 一瞬、考えるような沈黙が下りた。
 若菜はかぶりを振る。
 玄関前にとめてある自転車の鍵を外して跨ると、勢いよく走り出す。
(心配なのは私も一緒だ。倒れたって聞かされて、運ばれた病院が近くにあって、それで行かない方がどうかしてる。迷惑そうだったら直ぐに帰ってくればいい話だ)
 若菜は屈み込んで自転車のライトをつけた。後はもう迷わずに猛スピードで走らせた。


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 病院へは五分ほどで着いた。
 正面玄関は当然ながら閉じられている。
 若菜は逡巡したあとに裏口へ回った。救急車が患者の運搬作業に使用している非常口だ。いいのかなと思いつつ若菜はその扉に手を掛ける。まさか警報なんて鳴らないでしょうねと恐る恐る開けてみる。何の変化もないと知ると安堵の息をつく。
 さて厚志はどこにいるのだろう。
 夜の病院はそれだけで不気味だ。緑の非常ランプが灯るだけで薄暗い。長い廊下の向こう側から、今にも点滴をつけた女の患者が目を爛々と光らせて出てきそうだ。そんなことになったら猛ダッシュで逃げるだろう。間違いない。
 手にした携帯の電源を切り、暗闇に怯えながら廊下を歩く。
 距離をさほど歩かないうちに厚志は見つかった。
 備え付けの椅子に腰を下ろし、体を折り曲げて、膝に額を押し付けている。祈りの姿だ。
 声を掛けようとした若菜は立ち尽くした。
 握り締めている厚志の拳は微かに震えているように見える。容態はそんなに悪いのだろうか。
 先日、会ったばかりの邦光を思い出す。純一と一緒に酒を煽って花見をしたのは本当に最近のことだ。穏やかな朗笑が今でも耳の奥に蘇ってくる。
 若菜は目頭を熱くさせた。
 廊下には厚志以外に誰もいない。会社で倒れたと聞いていたから、てっきり同僚などがいるのだろうかと思っていたが、その姿も見えない。厚志は一人でずっとこんな暗い廊下にいたのだ。
 目の前で厚志が身じろぎし、若菜に気付いたように顔を上げた。その顔は酷く憔悴しているようで若菜は奥歯を噛み締めた。
 厚志の瞳が若菜を捉え、大きく見開かれる。
「まだ、結果は出てないの?」
 若菜は携帯をポケットに押し込みながら近づいた。厚志は一言も発しない。目の前に来た若菜を黙ったまま見上げる。そうして数秒の沈黙が続いた後、ようやく唇を開いた。
「どうして来たんだ?」
 不思議そうに問われて若菜は眉を寄せた。
「あんな電話貰って、来ない方がおかしいでしょう。心配なのは私も同じなの」
 深夜の病院内は声が良く響いた。小声で怒鳴りつけて睨みつける。
 厚志はまだ理解できていないように不思議そうな顔をしていたが、不意にその表情が歪んだ。若菜は抱き締められる。強い力だ。慌てて離れようとした若菜だが、背中に回された腕が震えている気がして抵抗をやめた。胸が熱くなる。黙ったまま厚志の肩に手を下ろす。
「怖いんだ」
 独白のように厚志は洩らす。
「安西さんがいなくなったら、俺はまた一人になりそうで」
 自分が転校した後、どのような人生を歩んできたのか。振り絞る声は悲痛なほど弱々しい。縋りついて震える厚志の姿は、いつもの傲然とした態度とは掛け離れている。
「どうしよう、若菜。俺は……」
 若菜は瞳を歪ませると唇を噛んだ。来て良かったと思う。腰を屈め、厚志の頭を包むように抱き締める。彼の背中を優しく叩いて宥める。こちらまで貰い泣きしてしまいそうだ。
「大丈夫。好きな人が倒れて不安にならない奴なんていないよ。安西さんはきっと大丈夫。私も一緒にいてあげるから」
 何の根拠もない言葉だけれど、少しでも心が軽くなってくれればいい。
 若菜は見上げてきた厚志の前髪を掻き分けると唇を寄せた。厚志の腕が緊張するように強張り、唇を離すと厚志は若菜の胸に顔を埋めてきた。更に強く抱き締められる。
 まるで幼子が安全な場所に逃げ込んですべてを拒絶するようなその態度に、若菜は少しだけ哀しくなった。彼を安心させたかったのに、自分にはその力がないらしい。
 けれど。
「ありがとう」
 小さく小さく聞こえた声に、若菜は驚いた。
 腕が解放される。
 思わず覗き込もうとした若菜だが、厚志は俯いたままで表情を窺わせない。それでも心が軽くなった若菜は頬を緩ませた。厚志の隣に腰掛けると手を繋がれる。その手は温かく、強いものだ。若菜も力を込めて握り返す。反対の手で励ますように彼の腕を叩く。
 早く吉報が来ればいい。
 若菜は厚志の腕に寄りかかるようにしながら待つ。
 音のない静かな夜。時々車の音が遥か遠くで、本当に小さく小さく聞こえるくらいだ。一時間ほど経つ頃には眠くなり、若菜は厚志の腕にもたれたまま瞼を閉ざした。
 ――緊急治療室の扉が開いた。
 突然の大きな音に若菜は目を覚まし、出てきた白衣の医師を見た。厚志が立つのに合わせて若菜も立ち上がる。
「ご家族の方ですか?」
「そうです」
 先ほどまで揺れていた声はもうない。強く言い切る厚志に安堵する。安西さんにはやはり何が何でも無事に戻ってきて貰わないと、と若菜は思いながら医師を見つめた。
「こちらにどうぞ」
 そう言って案内されたのは診療室だった。
 医師の机にはCTスキャンで撮られた写真が展示されている。奥から看護士が出てきて明かりをつける。彼女は若菜たちに軽く目礼すると、医師の斜め後ろに佇んだ。
 撮られた写真は脳部分のようだった。
 若菜は眉を寄せる。医師の視線が若菜に向けられた。
「別の医師から説明があったかと思いますが、今回の原因は脳梗塞です」
 示された箇所を見ると、頭の一部が白く塗り潰されたようになっていた。そこが詰まった箇所だということだろう。手を繋いでいる厚志の力が僅かに強まった。
「今回はカテーテルで治療を施しました」
「カテーテル……」
「はい。脳梗塞の原因は、血管にできた血栓です。これが血流を止めてしまう。そうすると脳の細胞は次々と死滅し、最悪の場合は死に至ります」
 医師の言葉を真剣に聞く。テレビ番組で良く特集が組まれているものだ。けれど、まさかこんな身近なところで発症者が出るとは思わなかった。
「今回は早期発見できましたので、血栓部分を直接溶かすことにしました。細い管を血管に挿入し、血栓部分まで伸ばし、血栓を直接溶かすんです。これがカテーテル。恐らく貴方には説明があったかと思いますが……」
「ええ。了承しました」
 医師の視線が厚志に向けられ、彼は淡々と頷いた。
「今回の治療は成功です。血栓を溶かし、脳出血も起こしていない」
 若菜は表情を明るくする。
「まだ麻酔が効いていますので副作用があるか分かりませんが……これまでの統計から見ても、日常生活にほとんど支障を及ぼさない程度に回復するかと思います。ただ、再発の可能性は充分にありますので気をつけて下さいね」
「……分かりました。ありがとうございます」
 若菜は厚志に引きずられるようにして立ち上がり、お辞儀をする。上手く医師の言葉についていけなくて混乱している。厚志も自分と同じく動揺しているのだろうかと思ってしまう。
 厚志に手を引かれるまま診療室を出ると、看護士が若菜たちを呼び止めた。
 長い髪を後ろでしっかりまとめた彼女は、集中治療室から場所を移された邦光の部屋まで案内してくれた。白いカーテンを引くと、白い寝台に横たわって眠る邦光がいる。
「何かありましたら呼んでくださいね」
 看護士は邦光の枕元にあるナースコールを指して告げ、そのまま立ち去る。入院の準備があるのだろう。若菜はその後ろ姿を見送った。
 厚志が静かに邦光の側に近寄る。若菜も同じく近寄り、眉を寄せる。
 邦光からは薬の匂いがした。眠り続けるその姿が痛々しくて視線を逸らせる。
「……紗江さんに何て説明するかな」
 小さく呟かれた声に顔を上げると、厚志は虚ろとも呼べる瞳で邦光を見下ろしていた。そんな表情に若菜は奥歯を噛み締める。手近な丸椅子に力なく座る彼を、為す術もなく見つめる。
「泣くだろうなぁ、紗江さん」
「でも……まさかこのまま伝えないって訳にもいかないでしょう。縁起でもないけど、日華里さんの二の舞になったらそれこそどうなるか分からないよ」
 若菜は厚志の隣に立ち尽くして絞り出した。
 厚志が泣き笑いのような表情を浮かべる。そんな表情を見たくなくて視線を逸らせる。手を引かれ、甘えるように顔を寄せてきた厚志の髪に触れた。ためらいながら抱き締め、少ししたあと若菜は彼の髪をぐしゃぐしゃにかき混ぜた。
「お前なぁっ」
 厚志が小声で抗議する。
 若菜は笑ってそっぽを向いた。
 寝台の下にしまわれていた丸椅子を取り出し、厚志の後ろに並べて置く。そこに座ると厚志と背中合わせになった。体重をかける。
「重い」
「失礼な」
 冷房が入ったのか、家にいたときほど暑くはない。
 時計を見れば既に二時近い。
 若菜は目頭が熱くなるのを感じ、瞳を閉じることでそれを誤魔化した。

 
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