育ち行く想い
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3.

 暑苦しいという訳ではないが、いつもと違う温度に違和感を覚える。おまけに、何かに押し潰されているようだ。骨が痛い。
 若菜は薄っすらと瞼をあけて眉を寄せた。
 目の前に天井があった。とても低い天井だ。
 腰が痛い。座ったまま眠ったらしいと気付く。それにしても、身動きが取れないのはなぜだろう。
 若菜は身体を起こそうとして、その男に気付いた。
「……って、人を押し潰して悠々快適睡眠か!」
 眼前に厚志の顔があった。
 若菜は顔を赤くしながら怒鳴りつける。
 場所はどうやら車の中。若菜にもたれるようにして眠るのはもちろん厚志だ。若菜は彼に押し潰されるようにしながら車のドア近くへと追いやられていた。肩にもたれて眠るうちに位置がずれてそうなったのだろうとは思うものの、そこで許したくないのが若菜だ。熟睡している厚志に手を伸ばし、その両頬を横に引き伸ばした。
「起ーきー」
「ってぇなっ?」
 台詞の途中だったが厚志は起きた。思い切りかぶりを振って、若菜の手を振り解く。睨みつけられたが負ける若菜ではない。睨み返す。
「先に安眠妨害してたのは厚志だ」
「だーっ、何しやがる貴様!」
 身を乗り出して厚志の髪をかき混ぜると悲鳴が上がる。
 思い切り乱れたその髪に、若菜は笑い声を上げた。厚志はぶつぶつと文句を呟きながら髪を整え始める。そんな様子を横目に、気が済んだ若菜は皺になった自分の服を伸ばし始めた。
 ふと顔を上げた若菜は緊張する。いつの間にか、厚志が真剣な眼差しを向けてきていた。
「な、何よ?」
 やる気か? とファイティングポーズを取ってみたが、厚志はニヤリと笑うと若菜の頬に手を伸ばした。
「思いっきり、よだれのあと」
「先に教えろよ!」
「というのは嘘で」
「はぁっ?」
 よだれのあととやらを凄まじい勢いで拭き取ろうとした若菜だが、即座に否定される。その飄々とした態度に頬を引き攣らせ、若菜は厚志の足を蹴飛ばした。
 厚志は楽しそうに笑うと首を回す。
「そういえば」
 しばらくそんな厚志を睨みつけていた若菜だが、怒りが鎮まるとようやく周囲に視線を向け始めた。
 邦光の病室にいたはずなのに、いつの間にか車に移動している。外は薄暗い。若菜自身もまだ眠気を覚える。車内時計を見れば朝の五時を少し回ったところだ。
 若菜は眉を寄せた。由紀子に何も言わないで出てきてしまったことが悔やまれるが、この早い時間帯ならば由紀子もまだ起きていないだろう。
「お前が呑気に俺の背中で寝やがったんだろう。椅子から転げ落ちそうなくらい舟漕ぎやがって。そのまま転がしてやろうと思ったが、親切にも抱えてきてやったんだ。感謝しろ」
 若菜は厚志の爪先を踏みつけた。抗議の声は無視をする。
「仮にも恋人に何て言い草なのよ。もっと丁重に扱え」
「恩返しは何で返す?」
「浮かぶ恩が何もないから返しようもないね」
 車のドアを開けると早朝の空気が流れ込んできた。昨晩はあれほど暑苦しかったというのに、朝はやはり冷え込む。白い息が流れて身体が震える。
 若菜はその冷たさに瞳を細めてから車を出た。その肩に何かが触れて振り返った。肩に掛けられていたのは女物のショールだ。
「日付が過ぎてサマにならないが、誕生日だろう」
 若菜は瞠目する。瞬きもせず厚志を見つめると、決まり悪そうに視線を逸らされた。
「良く、知ってるね。昨日はそんな素振りも見せなかったくせに」
「紗江さんがいたからな」
 若菜は意味を図りかねて首を傾げたが、深く追及することはやめた。夏物の薄いショールに視線を戻す。それは肩から腕までを覆う大きなものだった。肌触りが良く、かなりの高級品であろうことが分かる。
「というか、自分でも忘れてた誕生日を厚志が覚えてたことが驚きだ。お母さんも何も言ってなかったし。あれは絶対に忘れてたな。娘の誕生部だっていうのに」
「これで一つ返される恩のアテができたな」
「有償かよっ?」
 それでは単なる恩着せじゃないのかと叫んだが、気にする厚志ではない。笑いながら病院に向かおうとする彼に頬を膨らませる。唇を尖らせ、仕方がないから厚志の誕生日には何か贈り物を仕返そうと考え、彼の誕生日はいつだっただろうと首を傾げる。思い出せない。
 若菜は咳払いした。
「……で、厚志の誕生日はいつだって?」
「当ててみろ」
 歩きながら、厚志は振り返って笑う。
 若菜も歩きながら眉を寄せた。
「……1月」
「はずれ」
 厚志は楽しそうだ。
「2月?」
「違う」
「んじゃ3月」
「……お前さ」
 厚志の声が呆れを含んだが、若菜は気にせず続けた。
「4月」
「考える気ないだろ」
 若菜は大きく頷いた。厚志は脱力する。
「9月だよ」
「9月ねぇ……」
 まだまだ先の話だった。忘れないうちにメモしておこう、と唇を引き結ぶ。
「恩はトイチで貸し出してやるから、プレゼント期待してるぞ」
「うーわ、悪徳業者だ。因みにトイチって、利子はどれぐらい?」
「――10日で10割」
「素直に1日で1割って言え。ていうか10日で1割じゃなかったっけ、トイチって。何でそれ以上取ろうとしてんのよ。人類史上稀に聞く高利子。うん、若菜史上は初耳」
 そんな掛け合いに笑いながら病院へ向かう。
「安西さん、意識が戻ってるといいよね」
 病院に向けられた厚志の瞳が切なさを含んでいる気がして、若菜は言葉を選びながら窺った。振り返る表情は辛そうだ。それでも同意するように頷きを返されて、若菜は微笑んだ。差し出された手をつかみ取った。


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 邦光の病室に足を踏み入れた若菜は落胆した。部屋の様子は昨夜と変わっていない。邦光の意識はまだ戻らないらしい。
 若菜は厚志を見上げようとしたが、彼はその前に邦光に近づいた。
 邦光の半身を隠しているカーテンを開けようとして、そのまま強張る。
「厚志?」
 急に固まった厚志を不思議に思いながら身を乗り出し、若菜も表情を強張らせた。
「おはよう。厚志さん、若菜さん」
 カーテンに隠れるようにして紗江がいた。
 少し青白い顔をしていたが、紗江は気丈な微笑みを二人に向ける。若菜が倒れたときのように取り乱す雰囲気はない。落ち着いた態度で邦光の隣に腰を落ち着け、優しい手は膝の上で組まれていた。
 もしかして厚志が呼んだのだろうかと思ったが、彼も同様に驚いている。その可能性は低そうだ。
「この人の友人から連絡があったの。厚志さんがこちらまで運んでくれたと聞いたわ。ありがとうね。それから、若菜さんも」
「いえ……」
 厚志は呪縛から解き放たれたかのように瞬きをし、佇まいを正した。
「ご連絡もせず、申し訳ありませんでした」
 頭を下げる厚志を、紗江が困ったように見つめる。
「貴方のことだから、きっと私には連絡しないだろうなと思っていました。ああ、責めるつもりではないから安心して頂戴。私のことを心配してくれたのよね。嬉しいのよ」
 その言葉に嘘はないようだ。紗江は明るい表情で厚志に微笑みかけた。
「私はもう大丈夫よ。この人が倒れて、その上私まで取り乱してしまったら、どうしようもないもの。今は感情を抜きにして考えることにしているわ」
 紗江は微笑みを消し、少しだけ険しい面持ちで厚志に告げた。凛とした表情は、いつもの紗江とは別人のようだ。厚志はただ頷きを返す。
 瞳を閉ざしたままの邦光に視線を戻した紗江は、少しだけ眦を和らげた。
 紗江の白い手が近くの封筒を取る。複雑な面持ちでそれを見つめ、紗江は厚志に差し出した。
「本当はこんな所で渡したくはなかったのだけれどね。この人がこうなってしまった以上は仕方ないわ。厚志さんに前から話していたものよ。どうか、ご検討下さい」
「――相続ですか」
「そうよ」
 厚志は複雑な表情で封筒を見つめた。いつまでも手に取ろうとしない。けれど紗江は引かない。真剣な表情で厚志を見つめ続ける。張り詰めた緊張が流れた。
 若菜は自分が場違いな気がして口も挟めず、できれば踵を返したいと思った。しかし厚志と手を繋いだままなので、それは叶わない。落ち着かない気分で視線をさまよわせる。
「直ぐに決めろとは言わないわ。まずは受け取って、少し考えてみて」
 一向に受け取らない厚志に業を煮やしたのか、紗江はなかば押し付けるようにして封筒を渡した。
 厚志の横顔は、これまで若菜が見てきた以上に脆く思えた。動揺しているのか瞳が揺れている。切なくて、若菜は厚志の腕を引く。咎めるような視線が若菜に向けられ、若菜は唇を噛んだ。厚志の視線は直ぐに戻ってしまう。この件に関しては力になれないらしい。
「今のところは――預かっておきます、とだけ言わせて下さい」
 長い沈黙の末に絞り出されたのはそんな言葉。
 厚志は封筒を内ポケットにしまいこんで告げた。それでも紗江の表情は明るくなり、心底からの笑顔を見せて頷いた。
「ありがとう、厚志さん」
 そして紗江は若菜へも視線を向けた。だが厚志に向ける視線とは根本的に違う。慈しみや優しさといった、親しみが込められた眼差しだ。まるで母親が娘に向けるような表情だった。
 若菜は戸惑いながら首を傾げて弱々しい笑みを返す。脳裏には日華里が浮かんでいた。
 紗江は嬉しそうに微笑んで、眠る邦光へ次いで視線を向けた。
 二人の様子を眺めていた厚志は複雑そうな表情を浮かべる。しかし顔を上げることのない若菜に、それは分からなかった。

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