育ち行く想い
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4.

 病室で紗江と別れた二人は駐車場を横切りながら駐輪場へ向かっていた。早朝にも関わらず看護士たちの姿がちらほらと見える。
 疲れていた若菜は、家まで送るという厚志の言葉に頷きたかったが断った。自転車で来ていたことを思い出す。由紀子と兼用のため、持ち帰らなければ困るだろう。
「若菜。お前の夢は?」
 何の脈絡もない問いかけだった。
 若菜は朝日の眩しさに瞳を細めて厚志を振り仰ぐ。
「私の夢は今のところ貯金」
「夢がねぇな」
 厚志は一拍を置いて笑い出した。頬を膨らませた若菜だが、厚志の声はいつもより覇気なく聞こえて怒るのはやめる。
「お前に売り払われたことを思えば当然の夢だろう」
 厚志は苦笑する。
「幼稚園時代の夢は、確か“チョコレート屋さん”だった気がするんだがな」
 懐かしむような瞳で厚志は遠くを眺める。若菜も同じように遠くを見つめる。
「よく覚えてるな、そんな昔のこと。そのときの理由は当然、お腹一杯チョコレートが食べられるから、っていう子どもならではの単純理由だ」
 胸を張る若菜に再び笑い声が降り注ぐ。その声は先ほどより少しだけ明るくて安心した。厚志の幼稚園時代の夢も思い出そうとしたが、その辺りの記憶はあいまいだった。初恋の人のことは幾らでも思い出せるのに不思議だ。友情よりも恋に生きていたのかと、自分が少々情けなく思える。
「今はとりあえずお金貯めて、親の老後資金貯めて、ついでに家の改築なんてのもさせたいなぁ……」
 自宅を思い出しながらポツポツと呟く。
 誰に聞かせるわけでもない声量。常々思ってきたことだった。
 父、義之が建てた家は年月を重ねることで傷み始めてきている。数年前に大地震を経験したこともあり、壁紙にヒビまで入っていた。それを見つけた時の衝撃は大きかった。いつ崩壊してもおかしくない家なんじゃないかと怯えたものだ。長らく帰ってこない父が見たら蒼白になるだろうと思い、知らない間にセメントでも固めてみようかと思ったこともある。
 若菜はそんな諸々を振り切るように厚志を見上げた。
「厚志の方こそどうなのよ。幼稚園のときの夢と今の夢。原稿用紙二枚分に収めて述べよ」
「教師かお前は」
「憧れた時代もあった」
 厚志が意外そうに若菜を見る。その視線に居心地が悪くなり、わざと早足になった。大学に行く資金がなくて諦めた夢だ。
 若菜は高校卒業時の苦い思い出に顔をしかめる。
 自転車置き場が見えてきた。ポケットから鍵を取り出す。
「で、厚志の夢は?」
「ない」
 即答された若菜は振り返って眉を寄せる。
「お前の方こそ夢がない奴じゃないか」
「急に言われてもな。言葉にするのは難しいんだ」
「それは一理あるがそれを私に求めようとしたお前は何様だ」
 隙を許さず一息で告げて指を突きつける。見事に何も言えなくなった厚志を笑い、若菜は自転車まで走った。
 自転車置き場には結構な数が並べられていた。
 昨夜来たときも同じような数が並べられていたから、ここにあるのはもう乗り捨てられた自転車ばかりなのだろう。しかし若菜の後にも停めた人間がいるらしく、若菜の自転車は覚えている位置よりも奥へと入れられていた。
 朝日に輝く銀色の車体たちが眩しい。
 若菜は憎々しげにそれらを見つめたあと、何とか自転車の間を縫って自分の自転車へ近づいた。後輪に仕掛けた鍵を解除する。
「じゃあ、若菜との幸せそうな新婚生活とやらを夢に掲げてやるか?」
「はっ?」
 唐突に聞こえた声に、若菜は聞き間違いかと思って振り返った。
 厚志は憎たらしい笑みを浮かべている。微塵も真剣さが感じられない笑顔だ。からかわれたと知った若菜は唇を引き結び、鼻で笑ってやる。
「私との結婚生活でお前が得られるのは幸せどころか地獄だ地獄。毎朝敗北顔で出勤するがいい」
 はっはっはっは、と訳の分からない勝利宣言をする。
 厚志は呆気に取られたような表情をしたあと、フッと吹き出して体を折り曲げた。腹に手を当てて必死で笑いを堪えている。
 そんな様子に満足し、若菜は自転車に向き直った。
 ぎっしりと詰められた自転車の群れから目当ての自転車だけを取り出すのは容易ではない。隣の自転車を倒さないようにと頭の中でシミュレーションを重ねる。ペダルがどこかに引っ掛かって動かなくなるのを、蹴りで動かしながら何とか引き出す。後は自転車の向きを変えて走るだけだ。
 一度スタンドを立てて息をつくと、腕をつかまれた。
「若菜」
 振り返ると真後ろに厚志がいた。その近さに息を呑む。呼吸を止めてしまって悔しさが湧いたが、厚志の真剣な表情に気付いて悔しさは直ぐに忘れた。鼓動が早まる。
「あのな」
 厚志の体が徐々に迫ってくる気がして、若菜は一定の距離を保とうと後のめりになっていく。厚志の言葉よりもそちらの方が気になってしまう。離れてくれ、と言いかけたところで。
「俺は」
「だあぁあっっ!」
 厚志の言葉を遮る凄まじい悲鳴を上げて、若菜は自転車もろとも盛大に転んだ。
 体を傾けすぎてバランスを崩した。
 若菜の腕をつかんだままだった厚志は目を丸くして若菜を引き起こす。
 そして次に、倒れた若菜の自転車のせいで、ドミノのように倒れていく他の自転車たちを見つめた。引き起こされた若菜も黙ったままそれを見つめる。二つの視線が見守るなかでドミノ倒しはどこまでもどこまでも続き、最終的には自転車置き場の自転車がすべて倒された。
 二人は思わず顔を見合わせた。
 しばらく沈黙し、先に口を開いたのは厚志だった。
「あーあ……これ、全部直すのかよ……」
 非難染みた声に若菜は顔を真っ赤にさせる。
「お、お前が体近づけるから! 私が悪いんじゃないぞ、厚志が悪い!」
 自分は悪くないと言い張りたいが、向けられた厚志の視線に無言で責められ、若菜は言葉を詰まらせた。確実に呆れられている。
 若菜は簡単に折れた。
「直せばいいんでしょう、直せば!」
「そうそう。一人で直せよ」
「むっかつくなぁ!」
 厚志は意地悪く腕組みをした。若菜は地団駄踏んで悔しがるが、それでも罪悪感が強くて直ぐに行動に移す。厚志が見守るなかで、一番遠くの自転車まで走り、そこから直そうと自転車を戻し始めた。
 一台目を戻し、二台目を戻し。厚志が動いていないことを知り、声を張り上げた。
「だからって本当にそこで見てる奴があるか! 反対側から直せよ厚志!」
「褒賞は何を出す?」
「結婚生活は無償の共同作業オンパレードだぞ馬鹿野郎!」
 もはや怒りで上手く頭が回っていない。
 若菜が怒鳴りつけたとたん、厚志は先ほどの比ではないほど可笑しそうに笑い出した。
「休みなしで働け亭主!」
 厚志が動くのは、若菜が必死の形相で半分以上を直した後のことだった。

 

END
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