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1.

 病院から戻ってきた若菜は裏手にある小屋に自転車をしまう。
 早朝のため静かだ。
 近所の眠りを妨げないよう、努めて静かに小屋の扉を開閉する。
 そして玄関を開けようとし、昨夜、病院へ行く前に鍵をかけていなかったことを思い出した。この近所は平和だが、テレビでは連日、物騒なニュースが流れている。もし母に何かあったらどうすればいいのだろう。
 邦光の力ない姿を目の当たりにし、不安になっていたのかもしれない。
 若菜は嫌な汗を滲ませながら、焦るように玄関の扉を開けた。
 ――凄まじい悲鳴が若菜の耳を打った。
「……る、っさい……」
 目の前で上がった悲鳴に顔をしかめる。首を竦め、思い切り体を引く。
 悲鳴の発生源は由紀子だった。
 ちょうど起きてきたところだったらしい。由紀子はまだパジャマのままだ。
「朝っぱらから、近所迷惑……」
「あ、あら。若菜」
 若菜が睨むと由紀子は赤くなる。口を押さえて瞬きする。
「だって昨夜は鍵かけて眠ったはずなのに、目の前で開くんだもの。若菜がこんな早くに外にいるなんて考えられないじゃない? 泥棒だったら殺されるかもしれないと思って驚いたのよ」
 言い訳する由紀子の声は小さい。
 隣家から誰かが出てくる気配がし、若菜は面倒に思いながら振り返る。
「何かありましたか?」
「すいません、いつものことです」
 声をかけてきたのは隣家の奥さんだった。ふくよかな体の中には赤ん坊が宿っている。身重な彼女も心配するような悲鳴だったのだと、由紀子は更に小さくなって赤くなった。
 肩掛けを羽織った女性は事情を察したらしく、苦笑を零して戻って行く。因みに彼女の旦那は更に早朝から仕事に出かけているため、出てこない。
 若菜は見送ったあとに玄関の扉を閉めた。
「まったく。お母さんのせいで、いっつも注目されるんだから」
 ささやかな平穏を返せ、と若菜は言いたかったが、言うだけ無駄な気がしたので思うだけに留めた。
「それにしても若菜。こんなに早くからどこに行ってたの?」
「んー……安西さんが倒れたって聞いたから、そのお見舞いに行ってた」
 若菜は靴を脱ぎながら呟く。あまり大騒ぎしたくないため黙っていようと思っていたが、嘘も思いつかずに小さく告げる。
 由紀子は誰のことだか分からないように首を傾げた。
「安西さん?」
 お見合いの席に駆り出したときに一緒にいた人だよ、と嫌味を言いたくなった若菜だが、その前に由紀子は「ああ」と思い出したように両手を打ち鳴らせた。
「厚志くんの後見人さんね」
 思い出したわ、と明るく告げる由紀子だが、不意にその表情を強張らせた。
「え……倒れたって、どうかされたの?」
「脳梗塞。まだ意識は戻ってないけど、手術は成功したって言ってた。厚志から連絡貰って、病院に行ってたの。ちょっと休んでから、また昼に行くつもり」
 ひとまず今は眠りたい気分だ。病院にいると時間の経過にも気付かない。
 若菜は体を震わせて腕をつかみ、手の平から伝わる冷たさに驚いた。陽が出ていないため空気は澄んで冷たい。夏の陽気はこれからだ。
 眠気を覚えて欠伸をした。早々に二階へ上がろうと階段へ向かう。
「安西さんが運ばれたのって東病院かしら?」
「あ? ああ。そうだけど」
 若菜の意識は半分ほど眠りに飛んでいた。惰性のまま頷いて階段を上り始める。
「お会いしたときはお元気そうでらしたのに……何があるか分からないわねぇ」
 由紀子は遠くを見るような仕草で呟いた。
 若菜は最後まで聞くことなく自室に戻る。体力的に限界だったのか、倒れるようにして布団に潜り込む。寝過ごさないようにと目覚ましセットは忘れない。目覚ましを置く合間にも頭が揺れそうになる。
 朦朧としたまま所定の位置に置いて、横になる。
 若菜は直ぐに眠りに入った。


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 ふわふわと意識が舞い飛んでいる。夢の中はひたすら綿菓子が飛び歩き、若菜は幸せな気分で眠っていた。
 しかしそれを壊す音が入り込んできた。
 夢と現をさまよう若菜は瞼をあけ、ここがどこなのかと考える。
 いつもならそこでまた眠りに落ちる若菜だが、今はそれが許されない。現実に引きとめようとするのは、インターホンの音。
 若菜は眉を寄せた。
 熟睡しているところを無理やり起こされたせいで、体から疲れが抜けていない。腕すら重くて持ち上がらない。それでもインターホンは鳴り響き、若菜の意識も徐々に澄んでくる。
「うるさいなぁ……誰よ。非常識だ」
 若菜はぼやきながら起き上がった。
 目覚ましを見やり、セットした時間より一時間も早いと知る。まだまだ眠れるはずだったのに、と唇を尖らせる。
 由紀子はどこへ行ったのだろうか。もしかしたらまた裏庭にいて、インターホンの音に気付いていないのかもしれない。
 彼女が気付くことに期待して、今はこのまま無視してしまおうか。
 若菜はそう悩み、そうすることにした。
 重い体を再び横たえて瞼を閉ざす。眠りの波は直ぐに若菜を飲み込もうとするが、それを妨げるようにインターホンの音が延々と繰り返される。
 若菜はしばらく経ってから「ああもう」と起き上がった。
 音はもう二分ほど鳴り続けている。ただの新聞配達や勧誘を目的とした人物ではないのだろう。近所の人間でもない。そうすると厚志や友人が考えられるが、厚志は合鍵を持っているのでわざわざインターホンは鳴らさない。友人にしても、ここまで嫌悪感を持たせるような鳴らせ方はしないはずだ。若菜の性格を知り尽くした友人たちは、電話やメールで事前連絡してから来ることが多い。
 一体誰なのだろうと若菜は眉を寄せ、人前に出ても恥ずかしくない格好であることを確認してから廊下に出た。
 家に人の気配がなかった。
 二階の吹き抜けから玄関を見下ろした若菜は嘆息した。
 玄関の鍵が施錠されており、由紀子のスリッパが綺麗に並べられてある。どうやら由紀子は若菜を寝かせたまま外出したようだ。
「どこに行ったって言うのよ……」
 壁時計はまだ9時を示している。買物には早すぎる時間だ。
 そんな考えも邪魔するように玄関は騒々しい。あまりのしつこさに本気で殺意も湧いてくる。
「うるさいってば、もう! はいはい。誰ですか……!」
 若菜は階段を駆け下りて玄関まで走り、鍵を開けた。
 その瞬間、玄関の扉は勢いよく開けられる。
 息を呑んだ若菜は、目の前にいた人物に顔をしかめた。
 そこにいたのは秋永和人だった。
「……なんでお前が私の家知ってんの?」
「それくらい調べりゃ直ぐに分かる。っていうか出てくるの遅すぎ! なんでそう行動がとろいんだよ」
 ずいぶんと偉そうな和人の態度に、若菜の瞳が冷たくなる。非常識な行動はどちらだと問いつめたい。
「近所迷惑考えてくれない?」
 和人は鼻で笑った。
「ここって家が密集してるもんな。普段気にする必要がない場所に住んでるから気付かなかった。狭い敷地だよなぁ」
 日曜日の朝から喧嘩を売りに来たとでも言うつもりなのだろうか。
 若菜は和人を睨みつけたが、彼は堪えた様子もなく、馬鹿にするようにせせら笑っただけだった。
「それはどうも。近所づきあいもできない僻地に住んでる人間には分からないことでしたね。気遣いが足りなくて申し訳ありません」
「何だとっ?」
 攻撃的な笑みを見せると、和人は簡単に乗ってきた。
「それで。何の用ですか?」
 今すぐ閉めてやるぞとばかりに強い声で遮り、睨みつける。
 和人は憎々しげに若菜を睨んだあと、やはり尖った声で口を開いた。
「安西さんが倒れたって連絡が入ったから来たんだよ。あんた、病院で厚志先輩と一緒だったんだろう?」
 和人の口から出た意外な言葉に若菜は瞳を瞠った。彼と邦光との繋がりが見えてこない。確かに先日は一緒に花見に行ったが、倒れたという連絡をつけるような仲ではないはずだ。
 若菜は素直に頷こうとしたが、どうにも癪に障って頷けない。一拍置いて別のことを口にする。
「私の名前は“あんた”じゃありません。名前で呼んでくれません? 不愉快です」
「……ならそっちも俺のこと“お前”じゃなくて名前で呼べよ。自分のこと棚上げて良く言うぜ」
 そんな切り返しに若菜は言葉を詰まらせた。絞り出すようにしてうめく。
「私には話なんて何もないから。用事があるのはそっちでしょう。そっちから名前呼べば?」
「っとに性格悪いなテメェ!」
「お前に言われたくない!」
 二人は顔を近づけて睨みあった。一触即発の状態だ。
 先に折れたのは和人の方だった。
 和人は若菜を睨み、舌打ちしてから苦々しくため息を吐き出した。
「安西さんが倒れて運ばれたとき、厚志先輩と一緒に……阿部、さんも、一緒にいただろう」
 非常に言い難そうに頬を引き攣らせる和人に、若菜は思わず吹き出しそうになった。違和感を伴うその呼び方に、若菜は必死で無表情を装う。
「そのとき、厚志先輩がどんな様子だったのか知りたいんだ。やっぱり、斎藤の姓を捨てるのか?」
「は?」
 どんな様子とは何を言えばいいのか。言葉を探そうとした若菜だが、続けられた言葉に素っ頓狂な声を上げた。突拍子もない。完全に予想の範囲を外れた問いかけだ。
「捨てる?」
 言葉が通じていないことに気付いたのか、和人が苛立つように「だから」と強く吐き出した。
「厚志先輩が安西の姓を名乗るのかってことだよ! んなことになったら派閥も変わって大混乱だろ。親父さんが絶対ぇ許すはずねぇけど、厚志先輩のことだからやり兼ねないと思って……それくらい、近くにいたんだから知ってるだろう?」
 促された若菜は言葉を詰まらせた。返せるような答えは持っていない。すべて初めて聞くことばかりで、目を白黒させるだけだった。頭の片隅に、紗江が厚志に渡していた封筒が浮かんだ。相続の件だと言っていたが、あれが和人の言葉に繋がるのだろうか。
「捨てるって、何、それ? なんで厚志が斎藤の姓を捨てるなんてことになってるの?」
「あんた……」
 和人は絶句した。
 そして次に、蔑みの視線を向ける。馬鹿にして笑う。
 若菜はムッとして睨み返した。
 和人は距離を取り、首を振るともう一度若菜を見据えた。
「あんた、何も知らないんだな。馬鹿みてぇ」
「はぁ?」
 和人はまるで「時間の無駄」と言わんばかりに踵を返した。若菜の怒りを聞き流して去ろうとする。
「ちょっと待ちなさいよ! どういう意味っ?」
 去る背中に叫んだが、和人は立ち止まりもしない。
 若菜はサンダルを突っかけて外に飛び出したが、駆け寄る間に和人は車に乗り込み、あっと言う間に走り去ってしまった。
 路上駐車していた車にはエンジンが掛けっぱなしだった。和人は本当に焦ってここまで来たのだろう。
 若菜は遠くなる車を見送り続けた。

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