板挟み
前へ目次次へ
2.

 車が去った方向をいつまでも睨みつけていると、背後から声を掛けられた。
「何やってるの、若菜?」
 振り返ると由紀子がいる。明らかな外出着。化粧もして、どこへ行っていたのか。
 八つ当たりだと分かっていながら若菜は苛立った。由紀子を睨みつけたが、由紀子はただそれを受け流す。
「どこに行ってたの」
 低い声が口をつく。しかし由紀子はここでも難なく受け流し、微笑んでさえみせた。
「安西さんのお見舞いに行ってきたのよ」
「は?」
 若菜の脳裏から和人のことが消えた。
「これからも長いお付き合いになるのだし。こんなときだけど、挨拶くらいはしておかないといけないじゃない?」
 若菜は眉を寄せた。由紀子の言っている意味が分からない。分からないけれど、これまでの経験から彼女がろくでもないことに参加していることは間違いない気がして、頬を引き攣らせる。由紀子はため息をつくと視線を落とした。
「心配よね。純ちゃんは発ったばかりだと言うし。厚志くんはどうするのかしら」
「いや、だから、何が? 意味通じてないんだけど」
 覚える苛立ちのまま足を踏み鳴らせた。砂利が大きな音を立てる。
 由紀子は若菜を真正面から見据えてニコリと天使の微笑みを見せた。
「安西さんの意識が戻っていたから、厚志くんにも伝えて頂戴ね」
 最も重要な箇所をサラリと告げる。ともすれば聞き逃してしまうほどさりげない。
 由紀子はそうとだけ告げると玄関に入って行った。そんな彼女の背中を唖然として見送り、怒ろうか喜ぼうか迷う。拳を握り締めて耐えた。
「和人が現れるとロクなことないわ。ていうか元凶は決まって厚志なんだけど」
 若菜は小さく呟いて空を仰ぐ。寝不足の人間に朝日は眩しい。蒼穹を分断するように飛行機が飛び、軌跡が空に描かれていた。
 あの飛行機から純一がパラシュートつけないまま飛び降りてきたら楽しいのに、と若菜は自分が何を考えているのか良く分からないままぼんやりと想像した。若菜の想像のなかで純一は見事に地面へ降り立つのだが、地上で控えていた厚志軍団に取り囲まれてもう一度飛行機に乗せられた。今度はパミューダトライアングルに行くらしい。グッバイ純一。
 若菜は馬鹿馬鹿しくなって視線を元に戻した。軽く眩暈がしてかぶりを振る。そのまま玄関へと戻った。


 :::::::::::::::


 若菜は携帯の液晶画面を見ながら瞳を細めた。
 立ち尽くしてそうしたまま数分後。携帯を閉じ、ため息をつくとポケットにしまいこんだ。
 厚志に連絡を取ろうかと悩んでいた。しかし朝方に別れてから時間はそれほど経っていない。心労もあって今頃は爆睡中だろう。そんな眠りを邪魔するのは忍びない。
 後で連絡すればいいか、と思いながら若菜は病院に足を踏み入れた。
 炎天下の外に比べ、病院内は寒さを覚えるほど涼しい。しかしそう思ったのは若菜だけのようで、患者は快適そうに過ごしている。
 若菜は院内を見渡した。夜に歩いた廊下の記憶を遡りながらエレベーターまで辿り着く。丁度、他の見舞い客を乗せて昇っていくところだ。若菜は片手を挙げ、慌てて引き止めた。
 皺だらけの笑顔を見せたお婆さんが若菜を待ち、乗るのを見計らってエレベーターの扉を閉める。若菜は礼を言うと、息を整えるため壁に背中を預けた。
 若菜以外は2階で下りる。1人でエレベーターに残された若菜は4階へのボタンを押した。先に見舞った由紀子の話によれば、邦光の部屋は特別室だということだ。4階に部屋は1つしかない。
 階下に比べ、どこか高級さを漂わせる廊下だ。
 若菜は気後れしながら扉の前に立った。
 紗江はまだいるだろうかと首を傾げ、意を決してノックする。開錠の音がして扉が開かれた。
「ぅおぉ」
 先進国にいながら文明の利器から離れていた若菜は、妙な感動を覚えながら半歩後退した。
「若菜さん」
 若菜の様子を見ていた邦光が笑う。その隣では紗江も微笑んでいた。
 邦光の意識は本当に戻っていたのだ。
 若菜は安堵し、そして今の様子を見られていた気恥ずかしさから頬を掻いた。会釈する。
「紗江から聞いたよ。厚志くんと一緒に駆けつけてくれたそうだね。朝まで付き添ってくれてたようで。ありがとう。若菜さんにはいつも迷惑かけてしまっているね」
 邦光は少し掠れた声で告げると笑った。体に響くのか、声は控えめだ。
「迷惑なんて……というか、病人はそんな心配しなくてもいいんです。意識が戻って安心しました」
 若菜は言葉を濁らせる。そして少しだけ彼を睨む。
 腕に抱えた花束をどこかに生けようとして、由紀子が生けたらしい花瓶を見つけた。
「この花瓶、使わせて頂いてもよろしいですか?」
 花が一杯に生けられた花瓶を指しながら尋ねると、紗江はクスリと笑みを洩らした。
「良いもなにも、それは貴方のお母さまにご持参して頂いたものですよ? どうぞご自由に。ありがとうね、若菜さん」
「……どうりで、どこかで見たことあると思った」
 まさか花瓶まで持参していたとは。さすがにそこまで由紀子の行動は読めなかった。とするとアレだろうか。この花瓶は、玄関に飾られていた大きな花瓶で間違いないだろうか。
 若菜は脳裏に玄関を思い浮かべながらため息をついた。
 花瓶に近寄り、なるべく見映え良くしようと奮闘しながら持ってきた花を生ける。けれどどうにも上手くいかなくて頬を膨らませる。由紀子が生けた花が邪魔になっている、というのもある。
 紗江が楽しそうに笑う。
「下を少し切った方がいいんじゃないかしら」
 由紀子が置いていったであろう大バサミを手にして紗江も手伝う。その手際はさすがと言おうか、非常に慣れていて鮮やかだ。
「でも駄目ね。貴方のお母様には敵わないわ」
「それは紗江さんの錯覚です」
 キッパリと言い捨てると、紗江は瞳の端に涙まで浮かべて楽しそうに「ありがとう」と笑った。若菜はゴミを包装紙にくるめて捨てて、邦光に向き直る。
「お加減はいかがですか?」
「もう問題ないよ。検査やら経過やらであと1ヶ月は入院しなければいけないそうだけどね」
 肩を竦めて笑う邦光に死の影は見えず、若菜は安堵した。心配していた後遺症もないようだ。
 紗江に手招きされるまま、邦光の隣に丸椅子を引っ張り出してきて、腰掛ける。
 老体と呼ぶに相応しい白髪。しかし皺はほとんどなくて、せいぜい瞼と額にある程度。穏やかな表情はそれだけで彼の長い人生を思わせる。
 若菜はふと、純一を思い出した。古くからの知己らしい雰囲気を醸していたが、邦光の方がかなりの年上だ。友人感覚で接するには年齢差があり過ぎるような気がする。それとも邦光が、日華里を亡くしてから外見だけ老け込んだのだろうか。
 若菜は失礼だと思いつつ、尋ねてみようかと思ったが、結局は止めにした。
「若菜さんが今日、1人でここに来たのは厚志くんに関わることかな」
「え?」
 邦光の皺探しに没頭していた若菜は瞳を瞠らせた。邦光が「おや」というように眉を上げる。
(あ、眉を上げると新たな皺発見)
 若菜は人の話に身を入れないまま新たな発見に小さく喜ぶ。
 邦光は紗江に視線を移した。紗江は少々困ったように笑う。若菜もつられて紗江を見つめ、首を傾げた。
「てっきり紗江はもう渡していると思っていたが」
「――ええ、渡したわ。1人になるのは嫌なんですもの」
 少しだけ、沈鬱な紗江の声。拗ねたような口振りだが、込められた想いに若菜は胸が苦しくなった。紗江を見つめる。そして同じく、紗江を見つめる邦光も窺う。彼は俯いた紗江を咎めるのではなく、なんとも形容しがたい瞳で見つめていた。
 二人に流れる時間は穏やかだ。
「私の勘違いらしいね。若菜さんは純粋にお見舞いに来てくれたらしい。嬉しいな」
 ゆっくりと、邦光は視線を若菜へ向けて。言葉とは裏腹に、綻ぶ口元はどこか寂しげだ。
「純粋もなにも……何が純粋じゃないのかすら私には分かりかねるんですが」
 大人の世界は難しい。
 硬い声音で応じれば邦光は笑い、少しだけ棚に身を乗り出して手を伸ばした。気付いた紗江は直ぐに封筒を取り出し、邦光に預ける。それは厚志に渡した封筒と良く似通っていた。
 若菜は正体不明の胸騒ぎに背筋を伸ばす。
 手渡された邦光は笑って礼を言った。しかし紗江は不貞腐れたように頬を膨らませて横を向く。
「厚志くんに渡したものの控えだよ。若菜さんも興味があるだろう? 自分の将来に関わってくるかもしれないし、目を通すといいよ」
 若菜は怪訝に思って眉を寄せた。興味は惹かれるものの「でも」とためらう。窺うように二人を見ると微笑んでいる。邦光は若菜に封筒を押し付けてきた。
「……これって、何の書類なんですか?」
 恐る恐る開封すると紙の束が詰め込まれていた。一枚だけを取り出すと、そこには『譲渡承認手続書類』と記載されている。他の書類もめくってみると、題名こそ違うものの、内容は似たようなものだ。どれもが相続に関する書類らしい。
 若菜は和人の言葉を思い出していた。
「厚志が……安西さんの後継者になるんですか?」
「それは厚志くん次第。私たちとしては是非に、といったところだが、強制はできないよ。純一のこともあるしね」
 複雑そうに告げる邦光は疲れたように瞳を伏せる。
 紗江が心配そうに顔を上げた。意識が回復したばかりで長時間の面会は酷だっただろうかと、若菜は腰を浮かせる。気付いた邦光は手で制した。
「大丈夫だよ。ただ、少し、横になろうかな」
 若菜は強く頷いた。無理をされては困る。
 書類を戻し、封筒の口を折り曲げて視線を落とす。
「ひとつ、伺ってもいいですか」
 静かな時間ばかりが流れるなか、若菜は表情を固くして顔を上げていた。
 寝入りそうな気配を見せていた邦光が若菜を見る。紗江はいつも通り背筋を伸ばしたまま、軽く首を傾げて視線で問いかけてくる。
 若菜は視線を一度封筒に落とし、そうしてからもう一度紗江たちを見た。
「どうして厚志が安西さんたちの相続に名前が挙げられてるんですか? 安西さんと厚志に血の繋がりはありませんよね」
 縁起でもない仮定だが、邦光が亡くなった場合の相続人はまず配偶者である紗江になる。紗江が放棄した場合は子どもになるが、日華里は既に亡くなっているので、そのような場合は次に邦光の兄弟に移るはずだ。たとえ遺言書があっても赤の他人にすべてを譲ることはできない、と民法で定められている。
 そんな質問は想定内だったようで、邦光はただ静かに聞いている。
「厚志に継がせるためだけに、厚志を養子に迎え入れるってことですか……?」
 最初こそ勢いのままに聞いていた若菜だが、いつの間にか糾弾するような声音になっていて自己嫌悪する。彼らを困らせたいわけではない。複雑な想いが胸中を支配していくようで、居心地の悪さが湧いてくる。
 視線を邦光から外した若菜は、持っていた封筒を握り締めた。
 もしも遺産を継がせるためだけに厚志を養子にしようとしているのなら、純一の想いはどうなるのだろう、と彼の姿が脳裏に浮かぶ。他人がどうなろうと知ったことではないが、ここまで深く関わってしまえば話は別だ。切捨てようとしても結局は切捨てられずに自ら巻き込まれようと飛び込んでしまう。
「端的に言ってしまえばそうなるかな」
 邦光は何でもないことのように告げた。
 一瞬、若菜は良く分からない衝動に息をつまらせた。けれど顔を上げる前に想いはスルリと逃げていく。ただ邦光を凝視する。
「私たちには日華里以外に子どもがいない。そうすると若菜さん。私たちが持つ権利は誰に受け継がれることになるかな」
「権利、って……」
「平たく言えば遺産ということになるがね、私たちにはきっと、若菜さんが思ってる以上の財産があるんだよ」
 自慢ではなく、淡々と事実を告げる。
「民法上、配偶者も子どももいなければ、私たちの遺産は、私たちの兄弟に受け継がれる。身内の恥を晒すようで忍びないんだが、私の兄弟は少し、お金に執着のある人物たちでね。もしも自分たちが相続人になれると知ったら、必ずその権利を行使してくるだろう。でも私たちの財産には、お金に換算できないような物も色々と含まれているんだ。それを無理に換算して彼らに遺産分与するとなると、諸々を切捨てなければいけなくなる。下手をすれば一社潰れてしまうだろうね。けれどそれでは、今を頑張っている社員たちに迷惑をかけることになる。だから私たちには、必ず相続人を明確にしなければいけない義務があるんだよ。そのために、厚志くんには今、こちらに留まってもらっている」
 邦光の瞳が探るように若菜を見た。
 若菜は気付かず視線を落とす。そのまま自分の爪先を見つめた。踏み込んではいけない領域にまで踏み込んでしまった気がして、封筒をつかむ手に力を込める。何度か言葉が浮かんだが、それは口にする前にすべて泡のように消えてしまう。
 若菜が黙っていると、不意に笑い声が聞こえた。顔を上げると紗江が笑っている。
「若菜さんはあれね。優しすぎて変に気を使いすぎるわ。厚志さんの言う通り、それではいつか本当に周囲に潰されてしまいそう」
 若菜は瞳を瞬かせた。それまでの気鬱な雰囲気を押し流すように明るい笑い声だ。
「厚志さんに対するように打ち解けて欲しいとも思いますけど、却って酷になりそうね」
「厚志が、そんなこと、言ってたんですか?」
「ええ。凄く不器用な幼馴染がいて心配だ、って。厚志さんも人のこと言えたものじゃないのにね」
 若菜は眉を寄せた。どのような流れでそのような話になったのか聞きたいと思った。しかしその時、病室の扉が開いて尋ねる機会は失われた。
「ああ、やっぱりこっちにいたか。来るなら俺に連絡しろって言ってたのによ」
 自動扉が完全に開ききる前に体を滑り込ませてきたのは厚志だった。
 厚志は若菜の姿を認めると肩を竦め、邦光に向き直る。
「意識が戻って安心しました。体調はどうですか?」
「順調だよ。1ヶ月すれば復帰できそうだ」
「それは良かった。そのまま2ヶ月は寝てて下さい」
 邦光が絶句したのを見て、若菜は笑い声を上げた。

前へ目次次へ
Copyright (C) souheki All rights reserved