板挟み
前へ目次次へ
3.

 軽口を叩きあう厚志と邦光に紗江と若菜が笑い転げていた頃、看護士が入ってきて、どう見ても邦光に負担をかけていた見舞い客を追い出した。患者本人が抗議したが、婦長らしい看護士は反論を許さず、紗江までをも追い出す。意識が戻ったばかりの患者を安静にさせないのだから、とんでもない見舞い客なのだろう。
 三人は看護士に睨まれながら退室することになった。
「今日はこちらに泊まりますか?」
「いいえ。いつものお手伝いさんたちに何も告げずに来てしまったから、一度戻らなければいけないの。邦光の入院準備を済ませてからまた来るわ」
 紗江は気丈な笑みを見せながら厚志に告げた。
「なら俺が送ります」
「有難いけれどお断りするわ。貴方には若菜さんについていて貰いたいから」
 黙って聞いていた若菜は顔を上げた。紗江は微笑み、再び厚志に向き直る。
「その代わりという訳ではありませんが――島田を少し貸して頂けないかしら。純一さんが発ってから厚志さんは時間ができたでしょうし、若菜さんと今後を話し合う必要もあるでしょうしね」
「それは構いませんが――」
 島田の名に驚いたようだ。厚志はためらいつつも頷き、ハッとしたように若菜を見た。視線が絡んだ若菜は首を傾げる。
「私は構わないけど? 送迎はもともと私が頼んだ訳じゃないし、島田さんがいいなら紗江さんについててあげて欲しいし」
 厚志は何か言いたげに口を開いたが、それは言葉にならず消えてしまった。
 紗江は少しだけ表情を綻ばせて「そうね」と瞳を伏せた。
 何の脈絡もない紗江の「そうね」に二人の視線が寄せられ、紗江は再び微笑む。
「純一さんが帰国するのは今年の冬だと伺ったわ。それまでには答えが出るわね?」
 今までのおっとりとした貴婦人像を覆すような命令形の台詞。若菜は思わず紗江を凝視した。
「日華里がいなくなってから――私たちは、日華里を最も愛してくれた人間に託したいと思っているのよ。考えて下さると嬉しいわ、厚志さん」
 切なげな感情が込められた紗江の台詞に、若菜は呼吸を止めた。胸を衝かれた気がした。厚志は何と応えるのだろうと、つい厚志を窺ってしまう。彼は表情を翳らせながら俯いているだけだ。
 一呼吸置いて、紗江が若菜を抱き締めた。
「若菜さんはお嫌でしょうけれど、貴方を見ていると日華里を思い出してしまうわ。貴方が私の本当の娘だったらいいのにね」
「それは……」
 抱き締められた若菜は困惑し、紗江の言葉に息を詰まらせる。なんだか良く分からない感情に泣きたくなった。どう返事をすれば良いのか分からず迷っていると、紗江に解放される。紗江は微笑んで踵を返す。
「島田を呼ぶわね。貴方たちはここまででいいわ。ありがとう。しばらくお見舞いも結構よ。ついつい引き止めてしまうもの。それではね」
 長いスカートを揺らせ、紗江は病院へ戻っていく。携帯とは無縁に思える彼女だから、公衆電話を使うために戻るのだろう。振り返りざまに見せられた笑顔は作り物のように完璧だった。思わず引き止めようと持ち上げた腕は、厚志によって止められた。
 若菜は厚志を見上げる。
「何?」
「……お前こそ、何だよ」
「何って何よ」
 そんなやり取りを交わしている間に紗江は病院へ入り、二人の視界から消えてしまう。若菜は眉を寄せて厚志を仰いだ。
「さっぱり分からないことだらけなんだけど、それについての説明はあるわけ?」
 つかまれていた腕を解いて溜息をつく。紗江の言葉はまだ脳裏に木霊している。早く厚志から離れたい。理由は良く分からないが非常に理不尽な気がして、ともすれば厚志に殴りかかってしまいそうなほど。不可解な感情。
「代わりじゃ、ないからな」
 若菜は首を傾げながら厚志を見た。しかし厚志はまったく別の方向を向いている。その横顔は不機嫌そうに強張っていた。
「何か言った?」
 厚志が若菜を睨み付ける。
「それはわざとか?」
「いや。ハッキリ聞こえなかったから」
「だから――」
 厚志は顔をしかめて若菜に向き直る。
「俺が若菜を恋人として選んだのは、日華里の代わりにしようとした訳じゃないから、それを間違えるなよと言ったんだ」
 ぶっきらぼうな言葉に滲んだ優しさに、若菜は笑顔をみせた。
「分かってるよ。厚志は紗江さんたちが大切だから、そういうことはハッキリ言えなかっただけでしょう。私にまで言い訳しなくたって、分かってるから」
「言い訳じゃなくって――」
「はーいはい。気を使って貰わなくても結構ですー。らしくないよ、厚志」
 若菜は笑うと厚志の腕を二度叩いた。加減のない力で。
「あのな!」
「敵に塩送られるのって気持ち悪い」
 厚志は思い切り眉を寄せた。再び口を開こうとする厚志を知りながら、若菜は振り切るようにして前に出た。助走をつけて跳ねる。振り返って笑うと、厚志は憮然としたように唇を引き結んでいた。若菜は気にせず、笑いながら前を向く。
 最初から、厚志は日華里の代わりにしようとしているのではないと知っていた。厚志はそこまで器用ではない。この前、花見をした時の言葉も覚えている。だから落ち込む必要はない。
 それでも厚志の珍しい気遣いに心が軽くなる。
 厚志から表情が見えない位置まで進み、瞳を細めて嬉しく頬を緩めた。

 

END
前へ目次次へ
Copyright (C) souheki All rights reserved