敵の後ろに
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1.

 若菜が勤めているのは『NWクリエイティブ』という、企業向けのプログラム開発を主とする会社だ。社名の副題には『未来を創造する』とあるが、勤める職場に冷房はない。自然と常に触れ合っている。エコロジーこの上ない。
 若菜の所属は総務課。社員の給料計算や保険類、諸々の庶務をこなしている。
 地元では有名な会社だ。全国の知名度が高いわりにさほど高学歴も必要なく、その場限りの筆記試験と適用検査、そして面接をクリアすれば採用。高校卒業の若菜もそうして正社員となった。
 入社した頃「将来はともかく、目先のことに関しては安泰よね」と由紀子と喜んでいた若菜だ。
 けれど黄金時代は続かないらしい。
 ――とうとう不況の波がここにまで及んだか。
 若菜は暗澹たる気持ちで『人事異動』の書類を受け取っていた。とはいえ、若菜自身に辞令が出たわけではない。朝礼の周知事項で知ったのだ。お昼休憩では人事異動の詳細が書かれた書類が回覧され、若菜はその紙を受け取っただけだ。
 回覧に目を通した若菜は軽く瞳を瞠らせた。
「なんだ。うちの課の誰かが異動になるわけじゃないんだ」
 若菜は安堵に胸を撫で下ろす。回覧には、他部署の人間の名前が書かれていた。若菜には馴染みの薄い人物ばかりが列挙されている。
 隣から回覧を覗き込んでいた美智子が若菜を小突いた。
「それにしてもこんな時期に異動命令なんて変じゃない? 臨時総会が開かれたっていうし、なーんか、雲行き怪しい感じ」
 若菜は首を巡らせて美智子を見た。
「そういうもんですか? 私には分かりませんが――でも、ここの課から誰かが欠けることにならなくて良かったですよね」
「そうね。今だけを取ってみればそうなんだけどね」
 美智子は若菜の机に腰掛けるようにしてパックの紅茶を飲んでいる。
 今まで楚々とした印象の強い美智子だったが、彼女の指から恋人指輪が消えてからはこのように行儀の悪い一面も見られるようになった。恋人がいるのといないのとでは態度にも若干の変化があるんだろうか、と若菜は回覧に判子を押しながら苦笑する。
「この課で一番辞令が下りそうなのって、やっぱり課長よね。ここの会社って、課長職は営業から回って来てるから」
「課長って、元々は営業の人だったんですか?」
「いえ。そういう訳じゃないけど……」
 初めて聞く情報に顔を上げると、美智子は困ったように苦笑していた。ズズッと音を立てて紅茶を飲み干すとパックがへこむ。
「どこの課でも同じなんだけどね。課長職はすべての部署で流動してるのよ。専門にその部署を突き詰めたエキスパートを育てるという訳じゃなく、広く浅く、万能な人間を育てるのがこの会社の方針らしいわ」
「ふーん?」
 美智子の説明にひとまず頷く若菜だが、興味の範疇外のことだったので聞き流す。判を押した回覧を隣の席に置いて、入口近くに掛けられているホワイトボードに視線を向けた。
「課長と大輝先輩と秋永さん。午後3時までには戻られるんですよね?」
「そうねぇ。予定ではそうなってるけど……多分、この人事異動の件で青森支社に出向いてるんだと思うから――さぁどうなるかしらね。取締役が変わるとか何とか、色々と噂は飛び交ってるみたいだけど。私の職がなくなる羽目にさえならなきゃどうでもいいわねぇ」
 美智子はあけっぴろげに笑ってみせた。社会経験が浅い若菜には半分も意味が染み込まなかったが、最後だけは同意するように頷いた。曖昧な笑みを浮かべながら次の話題を探す。
「最初聞いた時も思ったんですけど。課長は分かりますけど――なんで大輝先輩や秋永さんまで行くんでしょう。大輝先輩は優秀だからって理由なら分かりますけど、秋永さんはどう考えても」
「まーったく。若菜は大輝を買かぶり過ぎ。それと、秋永に私情が混じってるわよ。あれでいて優秀なのよ、秋永は。本社に入社できたくらいですもの。何を血迷ったのかこちらに配属希望出したみたいだけど」
 若菜は頬を引き攣らせた。脳裏に厚志の影がよぎる。
「ま、そういうこと抜きにしても、あの二人はけっこう特殊な位置にいるからというのが理由だけど――どうでもいいわ、そんなこと。私には関係なーい」
 美智子は両足をバタバタとさせて言い切った。若菜は笑うが、もちろん若菜も人のことを笑えるわけではない。声を潜めて美智子に顔を近づける。
「ところで本社ってどこにあるんですか? やっぱり東京?」
 美智子が固まった。
「最初、会社自体に興味はなかったんですよね。今もそんなに変わりませんけど。とりあえず、得意なことしてお金稼げればいいやー、みたいな感じで。やっぱり知っておかなくちゃ不味いですか?」
「若菜……貴方ね」
 美智子はゆっくりと視線を若菜に向けると、言葉を探すように一拍置いた。呆れた溜息と視線だ。若菜は口を閉じる。
「まあ、いいわ。これから知ればいいことよね。まだ若いんだし」
「その台詞って先輩が凄い年寄りみたいですよ。そんなに年齢変わらないのに」
「若菜ってたまに怖い物知らずよね」
 美智子は極上の笑みを浮かべた。若菜はあいまいに笑ってとりあえず受け流す。そういう所だけは経験豊富な若菜だった。


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 そろそろ3時。
 コーヒーの用意をしようと立ち上がった若菜は、廊下に3人組を見つけて表情を綻ばせた。
「お帰りなさい」
「ただいま戻りました」
 強い足取りで最初に入ってきたのは課長。若菜に笑顔を向け、次いで存在が皆に伝わるように声を張り上げる。その声で他の者たちも気付き、振り返って笑顔を見せた。やはり課長の存在は大きいようだ。静かだった職場がにわかに活気付く。
 課長に続いて大輝が入って来て、更に和人も続く。2人も明るく笑って帰社を告げた。
 だが若菜は眉を寄せる。いつもやる気なく見えた和人が、今は妙に明るく、生き生きしている。彼の機嫌がいいと自分に被害が降りかかってきそうで、不吉な予感が胸を掠める。小さな焦りが笑顔を奪う。
 若菜はそのままコーヒーサーバーに足を向けた。
 そんな若菜を追うようにして美智子も立ち上がる。
「さて。どうなったかしらね」
 完全なる興味本位で呟き、美智子はサーバー前に立つと、戻ってきた3人を眺めた。課長たちはそれぞれ鞄を開けて荷物整理をしている。
 振り返った若菜は苦笑し、「さぁ?」と首を傾げてポットに手を伸ばした。水周りは後輩の役割だが、最近は若菜ばかりが給湯室へ向かっている。このままでは役割が定着してしまいそうだ。後輩に視線を向けると、一心に自分の仕事に取り組んでいるようだった。
 今は別段忙しい時期ではないので構わないが、これが繁盛期にまで響くようなら注意しなければならないだろう。
 若菜は内心でため息をつく。
 もともと後輩の仕事を奪っての定着だ。それを自分から元に戻そうとするのは気が引ける。どうせなら自分に定着させたままでもいいんじゃないかと、怠惰を気遣いに替えながら考えた。貧乏くじを引く癖は直らない。本人に直す気がないのなら、それで仕方ないのかもしれない。
「手際いいわねー」
 考えごとをしながらでも、例え他人と話中であっても、手を休めることがない若菜は振り返った。美智子が感心したように若菜の手順を見つめている。
 だが若菜はあいまいに笑う。話すのが苦手なため、何かしていないと間が持たないだけだ。手際がいい、とはまた少し違う。
 若菜の手付きを見ていた美智子はどう思ったのか、もう1つあるコーヒーサーバーを起動させようとした。しかし彼女の手付きは危なっかしい。
「これって何杯入れるんだっけ?」
「4杯です。てか私がやりますから」
「いいわよ。今まで何もしてこなかったんだから。少しくらい覚えようっていう私の気概を削がないで」
 手を伸ばそうとした若菜は睨まれた。笑いながら頷く。
 ふと疑問が湧いて、呼びかけた。
「ねぇ先輩?」
「なに?」
 若菜は口を開こうとして思いとどまる。黙ったままでいると美智子が眉を寄せ、慌てて「いえ、なんでもありません」とかぶりを振った。
「これは先輩に任せますので、こっちは私がやってきますね」
 コーヒー缶を抱き締めるようにして開ける美智子にお願いをし、若菜はポットを2つ手にしてその場を離れた。美智子はさしたる追及もせずにただ頷いてくれた。
「そう? じゃあお願いね」
 そう告げると美智子は再びコーヒー缶に向き直る。
 カップで4杯。しっかりメモリ通りにコーヒー豆を量ろうとする美智子に忍び笑いを洩らし、若菜はその場を離れた。
 給湯室には珍しく別の部署の人間がいた。部屋は狭いため、彼女たちが出てこなければ若菜は入れない。顔見知り程度ではあったので挨拶を交わし、若菜は廊下の壁に背をつけて彼女たちが終わるのを待つ。
 ――先ほど、美智子に問いかけようとしたのは結婚指輪のことだった。
 そんなに気にするようなことではないのかもしれないが、何気なく聞いて、それが美智子を傷つける結果になるかもしれないと思えば臆病にもなる。プライベートに突っ込んだ質問もどうかと思って誤魔化したのだ。
 以前、親睦会で行った遊園地での会話を思い出して顔をしかめた。
 滅多に酔わない美智子が、呂律もろくに回らなくなるほど溺れるには理由があったのだろう。
「お待たせー。どうぞー」
 給湯室を占領していた他部署の女性が顔を出して若菜を招いた。彼女たちは体をずらして場所を空ける。若菜は軽く頭を下げて礼を言い、彼女たちが作った空間にポットを持ち込んだ。
「本社からの命令なんでしょう?」
 ポットを台に乗せた女性は、ポットの口をしっかりと閉め、タオルで底を拭きながら別の女性に話しかけた。
 若菜は何気なく彼女たちを視界の端に捉えながらお湯を注ぐ。
「ほら。先月の会誌に載ってた人よ。覚えてないの?」
「会誌ってなんだっけ?」
「少しは机の上、片付けなさいよね。だから分からなくなるのよ」
 若菜は唇の端だけで小さく笑った。耳に痛い。
「いや、片付けても無駄だと思うよ。会誌って多分アレのことだと思うから。アレって、貰った帰りにはゴミ箱に捨てて帰ってるもん」
 私もその口だ、と若菜は胸中で彼女たちの会話に加わった。
 用事を終えた彼女たちは給湯室を出ていく。会話は徐々に遠ざかる。その会話を聞きながら若菜も、会誌なんて滅多に見ないもんなぁと小さく呟いた。
 会社が発行する会誌。
 それを見れば本社がどこにあるかくらい、分かるだろうか。
 少しは会社のことについて勉強した方がいいかも、と若菜は興味半分、暇潰し半分に思いながら蛇口をひねった。

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