敵の後ろに
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2.

 お湯の詰め替えを済ませて戻った若菜は「あれ?」と声を上げた。先ほど出張から戻ってきたばかりの三人の姿がない。
 見渡すと、美智子がまだコーヒーサーバーの前で悪戦苦闘している。若菜は苦笑しつつ傍に寄る。
「美智子先輩。課長たちはどこに行ったんですか?」
「あ、若菜。やっと帰って来たわね。これ、どっちのボタン押せばいいの? どっちも押してみたんだけど反応ないのよ。壊れてるんじゃないの?」
 美智子は若菜を見ると安堵したように笑い、コーヒーサーバーを殴った。
「壊れますからやめて下さい! スイッチ入れたからって直ぐに出てくるもんじゃないんですっ」
「そうなの?」
 この人はどんな人生を歩んできたんだろう、と若菜はサーバーを庇いながら思う。周りを見ても、賛同してくれる人は誰もいない。ため息をついて向き直る。
「そうなんです。先輩ってたまに変なところで世間知らずですよね」
「若菜に言われると複雑だわ」
「どういう意味ですか」
 若菜は頬を膨らませた。オフだったスイッチを入れると美智子が覗き込んでくる。
「こっちのスイッチはどこの?」
「それは上のスイッチです。上が熱くなるんですよ。多分、保温のために使うんです。私たちは滅多に使いませんけどね。こっちの、淹れる用のスイッチだけで充分です」
 若菜は説明しながら振り返る。
 美智子は納得したのか頷き、そして思い出したようにサラリと告げた。若菜にとっては耳を疑うような言葉を。
「さっき秋永が捜してたわよ――そんな嫌そうな顔しないで、さっさと屋上に行って来なさい。今日の分はほとんど終わって、暇でしょう?」
「秋永に時間割くほど暇じゃないですよ……」
 美智子の言う通りだったが唇を尖らせる。抗議は意にも介されず、背中を押された。
「はいはい、人を選ばない。行ってらっしゃい。告白だったら後で私にも報告してちょうだいね」
「んな用事だったら屋上から突き落としてやる……」
 若菜は誰にも聞こえないくらいの声量で呟いた。
 美智子は机に戻りながら気楽に手を振る。その背中を睨むが解決にはならない。美智子の手前、逃げ出すわけにもいかずに腹を括る。重たい気持ちを抱えながら廊下に足を向けたのだった。


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 廊下を歩くのは仕事を抱えて忙しそうにしている他部署の人間だけだった。若菜がいる部署はこの時間帯に一番余裕が出てくるため、職場でコーヒーを飲みながら寛いでいる。外に出てくることは滅多にない。
 若菜は他部署の彼らの邪魔にならないよう隅を歩いた。
 屋上へ続く階段に足を向ける。なんとか別の時間潰し方法を考えようとするが、若菜はサボり方も知らない。普段の真面目さが裏目に出た。
「ちくしょう。人を呼びつけるなんて傲岸不遜にも程があるわ。私の方が先輩だってのに。厚志の悪影響受けすぎだ。むしろ厚志が沈め。ああ、蒸し暑い」
 脈絡のないことを呟きながら階段をのぼり始める。わざとゆっくり階段をのぼるが、疲労が溜まるだけだと分かって憮然とした。視線を爪先に落としながらひたすらのぼる。上など見たくもない。
「お、若菜ちゃん発見。打ち合わせもしてないのに会えるなんて運がいいなぁ」
 頭上から降ってきた声に若菜は勢いよく顔を上げた。思いも寄らぬ声だ。勢いを付けすぎて体が仰け反り、バランスを崩す。
 視界に映ったのは純一の姿。
 ――なんでお前がこんなところにいるんだ。オーストラリアでカンガルーと戯れているんじゃなかったのか。
 そんな思いは声にならず、若菜は落ちる前に階段の手すりをつかんで呆然と見上げることしかできない。傾いた若菜を支えるように、背中に手が添えられた。
「なにが“運がいい”だ。見え見えなんだよテメェは」
 後ろから被せられた別の声に若菜は振り向き、更に驚愕した。
 この場にいるはずのない男の姿。
 斎藤厚志。
 忌々しそうに純一を睨みつける彼は本物だ。手を伸ばしてその存在を確かめると、怪訝そうな顔をされる。
「なんで二人がこんなところにいるの?」
 若菜としては当然の疑問をぶつけると厚志は肩を竦めた。背中を支えていた彼の手が離れる。若菜は親子の間に挟まれるような状態になりながら混乱した。親子の顔を交互に見るが、どちらからも答えはない。
「安西が倒れたというから戻ってきたんだ」
「どうでもいいだろ」
 二人から同時に声が飛んだ。だが、どれもが若菜の望む答えではない。
 若菜は驚きから立ち返ると、息を1つ吐き出して二人を睨みつけた。
「もしかして邪魔しに来たの? これ以上私の邪魔に入って来られると本気で迷惑だよ」
 会社の中にまで踏み込まれてはたまらない。
 脳裏にはストーカーの姿。この二人をストーカーと同じにするわけではないが、やっていることは同じように思える。
 そういえばここに私を呼んだのは和人だった、と思い出した若菜は視線で彼の姿を捜した。もしかしたら彼が手引きをしたのだろうかと思う。しかし、彼の姿は見当たらない。かわりに純一のにやけ顔が目に付いた。
「ふーん? ぜんぜん知らないんだな?」
「……は?」
 眉を寄せたが問いかける間もない。厚志に腕を引かれて息を呑む。段を踏み外し、落ちかけて背筋を凍らせたのも束の間、厚志の胸に倒れこむ。
「ちょっと!」
「厚志。逃げるのか?」
「テメェには関係ないだろ。さっさと行くぞ、若菜」
「ちょっと」
 倒れた若菜は体勢を立て直そうとしたが、その前に肩を抱かれ、強く引かれた。
「うわ危なっ」
 厚志の肩から手を滑らせた若菜は再び階段から落ちかけるが、またしても厚志に助けられる。けれど上半身だけを持ち上げられ、足が変な方向へと曲がりかけた。すべての体重が厚志に向かう。両足を直して手すりをつかもうとすると、今度は上から純一がその手をつかむ。
「関係ないわけないだろう。まだお前は捨てたわけじゃない」
「痛だだだだだだだ」
「若菜を巻き込んでんじゃねぇ! 放せよ。こいつを巻き込むんだったらそんな肩書き」
 若菜の視界が遮られる。額を厚志の胸につけ、強い力で後頭部を押さえつけられ、息ができない。
「安西の恩には報いたいが、そんな報恩は願い下げだな」
「放して――」
「テメェの許可なんか求めてたまるかよ!」
「親に向かってテメェとはなんだ、テメェとは」
 冷ややかな会話が徐々に熱を帯びていく。それに比例して若菜の呼吸も続かなくなる。厚志の力は強まるばかりだ。互いのことで精一杯な二人は若菜の呼吸困難に気付くわけもなく、まるで物のように扱われる。
「苦し」
 若菜は頭上で交わされる静かな口喧嘩に眩暈がした。厚志のスーツを握り締めて顔をしかめる。本気で苦しい。いい加減にしろよと叫びたい。
 そんなときだ。
「阿部さんっ?」
 大輝の声が喧嘩の声を掻き消した。
「大輝先輩」
 中断された二人はのぼって来た大輝の姿に眉を寄せる。若菜も同じ思いを抱いたが、救世主だと思ったのも確かで、助けを求めるように腕を伸ばした。大輝は直ぐに気付いて若菜を厚志から引き剥がす。体勢が体勢だったため落ちかけた若菜だが、大輝は若菜に負担がないように抱えて立ち直らせた。
 厚志が不機嫌な表情のまま大輝を見下ろす。
「助かりました、大輝先輩」
「どうして――」
 大輝はまだ困惑するような表情のまま若菜を覗き込んだ。呼吸困難から解放された若菜の目尻には涙が浮かんでいる。大輝は乱れた若菜の髪を撫でるようにして整え、厚志を見上げる。
 ――ああもう。どうしてこうなってしまうのだろう。
 若菜は新鮮な空気を肺一杯に吸い込んだ。頭が痛い。
 部外者である厚志たちが会社に忍び込んでいる理由をどう言い訳したら良いものか、そこから自分が説明しなければいけないのかと思うと逃げ出したくなってくる。いっそのこと本当に倒れてしまいたい。しかしこの二人がどんな説明をするのかと思うと、決して倒れるわけにはいかないとも思う。若菜の中で天秤が物凄い勢いで振れた。
「若菜」
 厚志の腕が伸びてくると、若菜は怯えるように体を竦ませる。呼吸がまだ完全に整っていないための条件反射だ。そのようなつもりではなかったが、厚志の腕が強張ったことに気付いた若菜は言い訳しようと慌てて顔を上げる。けれど、その前に大輝が庇い出た。
「え?」
 若菜の前に立ちはだかる、大輝の横顔は険しかった。
 意外な成り行きに若菜は目を瞠る。大輝が口を開きかけたとき、また別の声がその場に割り込んだ。
「な、何をしてるんだっ?」
 若菜は顔をしかめて振り返る。
 課長の姿がそこにあった。
 いつもなら頼もしさを覚える存在だが、今は場を混乱させる助長にしかならない。大輝だけならいざ知らず、課長にまで目撃されたとあっては部外者が二人もいる言い訳が立たない。課長を説得させられるような言い訳など思いつかない。
 課長は、厚志たちと睨みあう大輝を見つけると、慌てたように駆け上がってきた。
 ――面倒ごとを起こしてしまってごめんなさい。
 若菜は胸中で課長に謝り倒す。もちろん、そんな胸中の声が彼に届くはずはない。
 そして若菜は、課長の後ろから、続々と階段をのぼってくる者たちに気付いて驚愕した。他部署の者たちばかりだが、若菜でも分かるほどの重役たちだ。
 屋上の他に、この階には会議室もある。
 冷静な部分で思い出した若菜は青褪めた。混乱と焦燥の極地に至った思考は一時停止を余儀なくされる。彼らに見つかるのも時間の問題だ。
 1階フロアは一般にも開放されているが、職員たちが働く上階は通常、一般人は入れない。諜報活動などされたら会社の損害だ。まさか厚志たちを保険会社の人間です、と紹介するわけにもいかない。保険会社の営業マンとは雰囲気が異なりすぎる。
 多くの重役に見つかっては言い逃れもできず、最悪な場合は解雇か。
 いったいどうしてこんなことになったのか、若菜は泣きたい気分で思った。
「二人が何か粗相をしましたかっ?」
 駆け上がってきた課長は純一に駆け寄った。
 若菜の目が点になる。
 頭を下げる課長と、その前で鷹揚に「いやいや」と課長を宥める純一。
 そんな光景を見た若菜は唖然とした。純一の顔は面白そうに綻んでいる。
 若菜は思考回路を一時停止させたまま厚志を見た。
 厚志は嫌そうに顔をしかめて視線を逸らした。

 
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