敵の後ろに
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3.

 厚志と純一は若菜に何の説明も与えないまま、他部署の重役たちと共に会議室へ消えて行った。彼らに怪訝な目を向けられたのは若菜の方だった。
 課長や大輝もまた純一に呼ばれ、若菜に気遣う視線を向けたものの、さしたる説明もせず会議室へ入って行った。
 階段に残されたのは若菜だけだ。
 しばらくその場に残っていた若菜だが、そうして佇んでいても仕方ない。弱い足取りで一歩ずつ階段を下りる。何がなんだか分からなかった。混乱させるだけさせておいて、消えてしまった厚志たちに怒りが湧く。
 階段を下りた若菜は顔を上げた。瞳に怒りを宿らせ、憤然と廊下を突き進み、閑散とした職場に戻って視線を巡らせた。
 ――いた。
 目的の人物を見つけた若菜は憤りのまま奥歯を噛み締める。視線が捜していたのは和人だ。話があるからと言って屋上に呼び出したのは彼なのに、彼には出会わず厚志たちと会った。そして当の本人はここで寛いでいる。彼が引き合わせたのは明白だ。彼がすべてを知っている。
 若菜は憤然とした足取りで和人に近づいた。隣にいた鮫島が顔を上げ、その雰囲気に驚いたような表情をする。けれど愛想笑いの1つもする余裕はない。和人が振り返り、鮫島と同じように瞳を瞠る。だがその驚きは、鮫島の驚きとは決定的に違うものだ。
 ともすれば和人に手を振り上げたくなる若菜だが、必死で我慢する。代わりに彼の腕を強くつかむ。
「なに?」
「ちょっと、来て」
 激情のまま怒鳴りつけたい気持ちを必死で抑え、そんな怒りを他の人間には悟られないよう努力しながら和人に呼びかける。
 和人は何を考えたのか、ニヤリと笑うと立ち上がった。
「いいですよ? 上は人が使ってるようですから、1階の休憩室で話しましょうか」
「ええ」
 若菜は押し殺した声で頷いた。
 会話を中断された鮫島が不満の声を上げるが、若菜が一瞥すると黙り込んだ。その隣では美智子も同様に驚いていたが、事情を悟っているのか何も言わない。若菜を呼び出した和人が戻ってきていることに疑問も抱いていたのだろう。
 若菜は美智子に視線を向けた。
「私、ちょっと出てきますから、もし課長たちが戻ってきたら適当な理由つけといて貰えますか?」
「いいけど、課長たちは戻ってこないと思うわよ? 緊急の会議が入ったって、さっき出て行ったもの。予定ではその後、飲み会に直行のようだから」
「そうですか」
 若菜は複雑な気持ちで頷いた。
「でも、一応お願いしますね。じゃ、行って来ます」
「はい。行ってらっしゃい」
 美智子は少しだけ興味を覚えたような顔をしていたが、追及せずに手を振ってくれた。
 若菜が話している間、和人は既に廊下へ出て行っていた。
 若菜は小走りに彼の後を追いかけ、職場を飛び出した。


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 1階の休憩室はガラス張りで、通りがかりの人からは中が丸見えの状態だ。
 和人と一緒にいることを知り合いに見られたら嫌だなと眉を寄せた若菜だが、どうせ通る人は自分を知らない人ばかりだろうと勝手に結論付けて、気にしないことにした。そんなことよりも今は怒りが上回っている。
 若菜は休憩室に入ると早速切り出した。
「今日こそは吐いて貰うよ! 毎回毎回、人のこと敵視して――だいたい、厚志たちがここにいるのは何で? まずはそこから吐け!」
 怒鳴りつけながら、若菜は見上げるほど高い和人に指を突きつけた。
 1階の休憩室は煙草室も兼ねている。他に人はいない。先に来て寛いでいた和人は煙草に火をつけ、煙をくゆらせながら若菜を一瞥して笑った。彼が吐き出した煙は若菜を包み、若菜は咳き込んで涙目となる。
「厚志先輩から何も聞いてないってことが、アンタのことなんてどうでもいいって思ってる証拠だと思わねぇ?」
 明らかな挑発に若菜は容易く乗せられた。奥歯を噛み締めるとこめかみが痛くなってくる。
「お前の意見なんて聞いてない」
 反論の言葉を持たない若菜は片足を踏み鳴らせる。ニヤニヤとした笑みで見下ろされるのが気に入らない。
「だいたい、少し考えれば分かることだろう? 考えもしない馬鹿な女って嫌いなんだよな」
 若菜の中に苛々が溜まっていく。
 適当に受け流していればいいものを、今日はなぜこうも正直に受け止めてしまうのだろうか。怒りで視界が白くなっていく。和人しか見えなくなる。
「いくら会社のお偉いさんったって、全然別の会社に俺を送り込むなんて出来るわけねぇよ。ここは元々厚志先輩に関係のある会社だったってわけ。これくらいは分かれ?」
 本当に殺意を覚えるくらい、ふてぶてしい態度だ。
「他にも安西さんとはもう知り合ってるし、麻衣子さんとも会ってるし? これだけ条件揃ってて、他に何を知りたいってんだ。聞きたいことなんて、知ってる中に全部含まれてんじゃん」
 駄目押しのように「馬鹿だねぇ」と蔑む和人から、若菜は視線を逸らした。
「ま、あえて俺が教えられることがあるとすれば? 斎藤純一が会社の代表取締役で、安西邦光が提携会社の代表取締役ってことくらいだな。安西さんはもう引退してるけど、出入りは結構あるし。この前倒れてからはそれも自粛するようになるかもしれねぇけど、まだ向こうの相続は全部終わってねぇって話だし、厚志先輩を総会に入れたがってるって話もあるしな。提携会社なら多少のイレギュラーにも目ぇ瞑んのかね。まぁ、少子化でどこも人手不足なのかも知んねぇけど」
 和人は途中から自分の考えを確かめるように宙を見つめ、首を傾げていた。最初こそ苛立ちを募らせていた若菜だが、理解できない和人の独白はありがたい。多少の情報は読み取れる。何より、嫌味を聞かされるよりは精神的に楽だ。
 若菜は椅子に座り込んだ。聞いた情報がグルグルと頭の中で回り続ける。理解の範疇を超えている。
「なら、麻衣子さんって何なのよ。厚志と結婚したがってるみたいだけど、結婚して何の意味があるの。まさか純粋に好きっていう訳でもないよね。その説も考えられなくはないけど……」
 顔を上げた若菜は、呆れたような和人の視線に、聞いたことを後悔した。
 案の定、和人は馬鹿にする態度を隠さず口を開く。
「少しは自分で考えようって気はないわけ? 俺がさっき言ったの全部無視して安易な方法に頼るわけ? あーあ。何でこんなのが子会社にいるんだろ。ちゃんと面接したんだろうな」
 漂う煙草の煙を袋に集めて和人の頭から被せてやりたい、と思った。実践には至らない。代わりに、立ち上がって青筋を浮かべ、毒舌を披露する。
「知識をひけらかして嫌味を言うしか脳のない傲慢な子どもでも採用するっていうんだから、少子化時代って得だよねぇ」
 和人と若菜の間で火花が散った。
 ――少しの沈黙のあと、視線を逸らしたのは和人だった。若菜は密かに拳を握り締めて勝利を噛み締めたが、虚しい。
「麻衣子さんは厚志先輩をこっち側に繋ぎ留めるだけの、単なる駒――ってぇな! 何しやがる暴力女!」
「るっさい! やぱりお前の言い方は腹が立つ! お前みたいなガキには殴って覚えさせるしか手はない!」
「単にテメェの語彙不足だろうっ? 無学な奴ほど暴力に頼りたくなるっていう典型的な人間!」
 直ぐに和人の切り返しが来たが、若菜はそれ以上何も言い返さない。和人が勝ち誇ったように鼻を鳴らす。
「テメェなんか、厚志先輩の隣にいる価値ねぇよ」
 若菜は息を止める。傷つく必要はないと言い聞かせたが、その言葉に心を抉られるような衝撃を覚える。蒼白になりながら和人を見上げる。
「なにが、よ」
 なんとか言葉を紡ごうとすると唇が震えた。さすがに和人が「しまった」とでも言いたげな表情を見せるが、若菜は更に惨めな気持ちになる。
「勝手に隣に入ってきたのは厚志の方でしょうっ? 人の日常、引っ掻き回してるのはそっちだってこと、忘れないでよねっ。私は上になんて興味ないし、厚志となんてただの契約でしかないし、挙句にこんなこと言われなきゃいけないってんなら、契約なんて今すぐ破棄してやりたいよ!」
 ここが会社だということも忘れて怒鳴りつけていた。思い出しても怒りに支配されたままで、声を抑える気にはなれない。少し離れた場所にある受付で、女性たちが驚いたように振り返るのを、どうでもいい気分で見る。
 激情で瞳が潤むのを癪に思いながら和人を睨みつけた。
「そんな無責任なことはしないけど。厚志と契約結んでるのは私で、それ以外の人間、秋永が入ってくることこそ勘違い。私と厚志が結婚しないかと心配してるっていうんなら、そんな心配はするだけ無駄だし。厚志との契約が切れたら、あとはそっちで何とかすればいい。これ以上巻き込まないで欲しいのはこっちの方だ。契約以外で厚志と付き合おうだなんて、誰が思うか!」
 言い切ると踵を返す。涙が溢れそうになる。乱暴に休憩室から飛び出し、落ち着いて泣ける場所がないかと思った。誰にも見られず屋上まで駆け上がるのは不可能だし、このまま1階のトイレに駆け込めば和人に気付かれてしまう。どこにも居場所はないのだと気付いた。勤務時間はまだ残っているのでそのまま外に向かうわけにはいかない。
 涙を呑み、和人の視界からだけでも消えようと角を曲がり、階段を駆け上がろうとする。二、三段上がったところで体を強張らせた。
 階段の折り返し地点にある踊り場に厚志がいた。壁にもたれて見下ろされている。階段を下りてきたばかり、という雰囲気ではなかった。先ほど叫んだ言葉をすべて聞いていたのかもしれない。厚志の表情は沈んで見えて、若菜は声も出せずに固まった。
 先ほどまでの怒りに従うなら厚志を気遣う必要はないはずなのに、若菜は嫌な汗をかく。見下ろしてくる視線に貫かれたような気になる。
 ふと、厚志の視線が外れる。若菜の心臓が飛び跳ねる。
「会議は、終わったの?」
 必死で心臓を宥めながら、若菜はゆっくりと階段を上がった。努めて冷静さを装いながら厚志に近づく。
 と、強く腕をつかまれた。
 乱暴な力に恐怖が生まれる。痛みを伴うほど強く引かれ、悲鳴を殺して目を瞑る。
「――っ!」
 気付いたら壁に背中を押し付けられ、厚志の顔が目の前にあった。その距離の近さと、厚志の表情に恐怖を覚えて若菜は体を強張らせる。体温すら伝わる近さだ。
「厚志?」
 恐ろしさを隠して呼びかける。早く離れて貰いたいが、そう告げるのもためらわれて見つめる。眼鏡を取り上げられて体が震える。先ほどまでの涙が残っていたのか、目尻を強く拭われた。怯えるように首を竦めてしまう。若菜の肩で、厚志は拳を握った。
「さっきの言葉は本心か?」
「え?」
 何を問われているのか分からずに首を傾げようとし、厚志の瞳が驚くほど真剣で身動きができなくなった。思考を奪われる。近づいてくる顔に、自然と瞼を閉ざす。
 距離はゼロ。
 触れた唇は優しいものだ。そのことに安堵しかけた若菜は、強く抱きすくめられて瞳を瞠った。驚いて口を開こうとしたが、その隙に滑り込んできた熱が言葉を奪う。息苦しいキスに恐ろしくなる。厚志の腕をつかみ、無理に顔を背ける。
「い……嫌だ」
 追いかけて来ようとするキスの合間に絞り出す。
 数秒の間があり、若菜は固く閉じた瞼を開ける。顎を取られて悲鳴を上げたものの、それ以上は何もなかった。眼鏡を戻されると視界が明瞭になる。
 恐る恐る厚志を見上げてみると、先ほどまでの熱を感じさせない無表情があるだけだった。若菜は直ぐに視線を逸らす。
「お前の言葉は、何が演技と本心なのか、たまに分からなくなる」
 低く落とされた呟きに瞳を瞠らせる。思わず振り仰ぐと厚志の瞳は微かに歪められた。その様子に若菜は声を失う。溝が刻まれたように感じた。何か言わなければと焦ったが、厚志はそれよりも先に離れてしまう。
「契約だけで、いい。迷惑かけてるってことは分かってるけど……もう少しだけ、付き合ってくれませんか。契約が終わったら二度と近づかないから」
 他人行儀な言葉に厚志を見つめる。そこに面白がるような光はない。彼が本気で言っているのだと分かる。声を失っていると厚志は唇を引き結んで顔を背けた。
「和人の暴言も許して欲しい。あれはあれで、後で本気で後悔してる。どこからが行き過ぎなのか、加減が良く分かってないだけなんだ。加えて若菜は滅多に深刻に落ち込まない性分だから、あいつも言いたいことをそのまま言える。そうは見えないかもしれないけど、和人は和人なりに懐いてるから――」
 そんな訳ない、と口を挟みたかったが黙っていた。沈黙を続ければ続けるほど厚志が落ち込んでいくのが分かっていても、引き上げる言葉が分からない。
「……若菜」
 消え入りそうな声が聞こえて我に返った。ようやく言葉を絞り出す。
「聞いてたなら分かるでしょ。和人に言われたからって、契約破棄なんてしない。それは最後まで努めるよ」
 今ほど自分が不器用で堪らなくなったことはない。
 上手い言葉は他にあっただろうに、硬い声で応じられたのはそれだけだった。
 緊張に体を強張らせていた若菜は、そんな言葉でも厚志が安堵したように微笑するのを見て唇を引き結んだ。こんな言葉で安心してくれるなら、もっと多くの言葉を語りたい。
 厚志の手が若菜の両手をつかむ。
「ありがとう」
 噛み締めるように、囁くように、礼を落とされる。
 若菜は居た堪れない気分のまま、黙って頷いた。

 
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