敵の後ろに
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4.

 若菜の答えを聞いた厚志は直ぐに離れてどこかへ行ってしまった。
 追いかけることはできない。
 彼の背中に一抹の不安を覚えたが、若菜は未練を断ち切るように踵を返した。重たい足取りで階段をのぼる。
 職場に戻ると大輝の姿があった。美智子と何かを話しているようだが、声は聞き取れない。少し疲れたような様子の彼に若菜は眉を寄せる。課長たちはまだ戻らず、和人も不在だ。厚志と二人で階段を塞いでいたのだから、和人が戻ってこないのは当然とも言えたけれど。
 若菜は入口で少しだけ立ち尽くしたが、廊下を横切る他部署の者たちの怪訝な視線を浴びて、慌てて中に入った。
「あの、大輝先輩。先ほどはありがとうございました」
 気は進まなかったが挨拶しないのは礼儀に欠けると思い、近づいた。よほど疲れる会議だったのだろう。何しろ純一と厚志が参加したのだ。どんな会議だったのか、想像もつかない。
 声をかけると大輝が振り返り、同じく美智子も顔を輝かせた。
 二人で笑顔を見せる。
「意外に早かったわね。秋永は一緒じゃないの?」
「後で来ると思いますよ」
 和人の名前を聞けば、声音もつい険しいものになってしまう。美智子は心得ているようにクスクスと笑った。そんな些細な仕草にも女性らしさと高貴さが窺え、やはり彼女はどこか普通の人とは違うのだと、らしくないことまで思ってしまう。
 若菜も笑い、そのまま仕事に戻りたくなくて話題を探す。けれど普段の人付き合いのなさが災いして、何を話題にすればいいのか分からない。入口近くの掲示板を見やり、課長のスケジュール欄に『帰宅』と書き込まれているのを見つけて驚いた。
「重役も大変よねぇ」
 若菜は視線を戻す。
 美智子がしかめっ面をしながらパソコンに向かい、データ入力をしていた。
「トップの気紛れでいきなり集められたりするんだから。若菜。課長の仕事、半分任されたから、手伝ってね」
 トップ、との言葉に純一を思い浮かべて複雑な心境になった若菜だが、さり気なく続けられた言葉に唖然とした。
「え……って、いきなり何言ってるんですか……? あ、もしかして美智子先輩、いま打ち込んでるのって、課長の引継ぎ……ああっ?」
 若菜は猛スピードで机を回り込み、美智子のパソコンを覗き込んで悲鳴を上げた。
 先日、課長のパソコンで見ていた開発予定のプログラムが美智子のディスプレイに表示されている。
 最近発覚したことだが、美智子は機械音痴だ。そんな彼女にこのような仕事を任せるとは、命知らずにも程がある。それとも課長は美智子の一面を知らないのだろうか。
 若菜は頭痛を覚えて眉を寄せる。硬く目を瞑り、他に急がなければいけない課長の仕事は何があっただろうと巡らせる。課長がいないところで面倒を起こされては困る。いや、もともとこういった仕事は大輝に回されそうなものだが、なぜ美智子が手をつけているのか。そこからして理解不能だ。
「美智子先輩――今月の会計処理は終わったんですか?」
「終わるわけないじゃない。予定外の計算が入ってきたにも関わらず、領収書を出して欲しい一番の課長がもう帰ってしまったんだもの。今日は仕事にならないわ。これは大輝から奪った暇潰し」
「大輝先輩っ?」
 若菜の非難めいた眼差しと声に、それまでやり取りを窺っていた大輝は笑った。
「平気だよ。本物は俺のパソコンに移し変えてあるから。美智子に飛ばしてるのは、ただのダミー。俺も暇潰しに、美智子がどんな仕上がりにさせるのか興味があって」
「完成させる前にパソコン本体が壊れたらどうするんですか」
「言ってくれるじゃない、若菜」
 美智子の視線が突き刺さったが若菜は気にしないふりをして自席に戻る。課長の仕事が半分回されたという事実は見逃せない。
「ねぇ阿部さん。さっきの――厚志君が、恋人?」
 構えを解いていた若菜は不意打ちの攻撃に力いっぱい無言で振り返った。耳まで赤くなるのは先ほどのキスを思い出したからだ。なぜあんなに素直に受け容れてしまったのかと暴れたくなるほど恥ずかしい。けれど今は職場。自宅で暴れるのは構わないが、この場所ではためらわれる。
 若菜は勝手に暴れ出しそうになる体を抑えて椅子に腰掛けた――と思ったがそこに椅子はない。若菜は見事な空気椅子に騙され「でえぇっ?」と奇妙な叫び声をあげて床に転がった。職場全員の視線が向けられる。
「予想通りの天然をありがとう、若菜」
 衝撃で腰を打った若菜は痛みに耐えて座り込んだ。美智子からのお礼に瞳を瞬かせる。非常に理不尽だ。
「だ、誰がそんなこと言ってたんですか、先輩?」
 床に座り込んだまま大輝に尋ねる。立ち上がれば更に注目を浴びる気がして、机の影に隠れた。これなら見えまいと首をすくめる。
 大輝は最初の複雑そうな表情はどこへやら、今は必死に笑いを堪えていた。
 若菜はこれまで築き上げてきた「大人しく控えめな性格」を崩されそうな気配に憮然とする。すべては厚志のせいだ、と八つ当たりする。
「階段のときの様子を見て、そう思っただけ。阿部さんが言ってた恋人契約って、あの人のことだったんだね」
 机の上を整理しながら笑う大輝に、若菜は唇を引き結んだ。以前から厚志のことを知っていたような口ぶりだ。
「あの――」
「俺もそろそろ行こうかな」
「え?」
 声を遮るように立ち上がった大輝に、若菜は目を瞠った。パソコンを閉じた大輝は、束ねた書類を引き出しにしまう。
「飲み会。うちの課長だけだったら貧乏くじ引きそうだからさ。フォローは俺の役目だし。顔だけ出して、直ぐに帰るつもりだよ」
「あーあ。いいわよねぇ、男は。飲み会にかこつけて仕事さぼれるっていうんだから」
「なに、美智子」
 わざとらしく声を上げた美智子を、大輝は睨んだ。
 そんなやり取りの雰囲気が普段とは異なって見えて、若菜はなんだか焦燥を覚えてしまう。
 大輝はスーツを着込むと掲示板の前に立ち、自分の予定を『帰宅』に書き換えると出て行った。いつもの笑顔が強張っていたと思うのは若菜の気のせいだろうか。
 若菜はしばらく床に座ったまま後ろ姿を見送っていたが、やがて美智子に大量の仕事を任されて、負の感情は忙しさに埋没した。

 

END
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