他人事恋愛相談
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2.

 高橋の応援要請を受けてから、若菜は昼休みを憂鬱な気分で過ごす羽目になった。奴が早く食堂から帰ってこないかと目を光らせてみるが、一向に帰ってくる気配はない。それどころか彼は、休憩時間が終わってから姿を現した。
 若菜を見て目配せしたのだから確信犯である。衆目の目があれば若菜は断れない。
(なんで厚志意外に余計な苛立ち溜め込まなきゃいけないの。要領悪すぎだよ、私。過労で倒れたらどうしてくれよう)
 ぶつぶつと苛立ちを零しながら、若菜は書類をまとめてホッチキスで止める。
 卑怯な方法とはいえ頼まれた以上、ひとまずの義理は果たさなければいけない。さて、どうやってその方向に話題を持っていけばいいのか。渋々ながら考え始めたとき、若菜は課長に呼ばれて振り返った。
「はい?」
 机に座りながら、課長は若菜を手招く。その表情は苦いものだ。仕事上でトラブルでもあったのだろうか、と若菜はホッチキスを置いて席を立つ。
 先日の会議に出席してから、課長は少し変わった。
(気のせいかもしれないけど――距離、置かれてる気がするんだよね)
 頭を撫でられることもなくなり、肩を叩かれることも少なくなった。唐突な不自然さだ。嫌われて距離を置かれているのではなく、敬意を払われているような距離で、何とも酷くもどかしい。厚志が契約のことを話したとは思えないから、純一が何か釘を刺したとしか思えなかった。不愉快な話だ。
 若菜はいつもと変わらない風を装いながら課長に近づいた。「どうしましたか?」と手を後ろに組んで、上半身を屈める。課長は机に頬杖をついたまま上目遣いで見上げてきた。その瞳には困惑が揺れている。
「阿部にこんなこと頼むのも気が引けるんだがなぁ……」
「はい?」
 どうしたのだろう、と若菜は首を傾げた。
 無言で言葉を待っていると、課長はおもむろに立ち上がる。若菜の脇をすり抜けて廊下へ向かった。唖然とする若菜を振り返り、ついてくるように手招きする。
 若菜は思わず周囲を見渡した。大輝と視線が合い、首を傾げる。何か事情を知らないかと瞳で問いかけてみるが、大輝も心当りはないようで、かぶりを振った。課長についていくよう指で示す。
「じゃあ取りあえず……」
 大輝の次に和人と視線が合ったが、彼のことは見なかったフリで課長を追いかけた。先日の苦い思いは、いまだ胸の奥で燻っている。
(あいつが本当に罪悪感抱いてたって知るもんか。私にそれが伝わらないんなら同じだよ)
 唇を引き結び、若菜は職場を出た。


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 会社の中に設置された共有会議室へと案内された。若菜が所属する総務課だけではなく、他の営業課や企画課なども交えて会議をしたい場合は、こちらの会議室を使う。各課に設置されている会議室よりも格が上で、内装設備には上質のものが使われていた。
 掃除以外の目的で初めて入る若菜は、入口で恐る恐る中を覗き込んで一歩を踏み入れた。少し狭い会議室だ。高価な映像器具まで設置されている。
 壊さないようにしよう、と若菜は心に決めた。
 促されるまま椅子に座り、落ち着かない気分で内装を眺める。白い壁が目に眩しい。だが書類を読むには最適の明るさかもしれない。
「急に悪いんだが――」
 課長の言葉に耳を傾けた。
「自分とこの会議室でも良かったんだが、誰かに聞かれたら不味い内容なんでな」
「はい」
 若菜は心持ち緊張しながら頷いた。純一のことと言い、高橋のことと言い、最近は会議室に恵まれていない。嫌な予感ばかりが育っていく。
 課長は言いにくそうに視線をさまよわせ、机の上に両手を組んだまま言葉を探していた。壁時計の秒針が聞こえるほどの静けさが漂う。けれど若菜は急かさず、辛抱強く言葉を待った。
 やがて長いため息を吐き出し、課長は重々しく唇を開いた。
「本来の仕事には関係のないことで悪いんだが――頼めるのが阿部くらいしか思いつかないんだ」
「はぁ……」
 仕事以外の頼みとは何だろうか。信用されているのかと思えば嬉しいが、肝心の内容が見えてこない。課長がこれだけ言いあぐねいているのだから、よっぽど厄介なことなのだろう。できれば聞きたくないような気がしたが、課長の信頼には応えたいと思う。
「阿部。お前は高岡と仲がいいよな?」
「はぁ。それは――それなりに」
 即座に高橋の顔が脳裏に浮かんだ。浮かんだことが悔しくて無理やり脳裏から締め出した。課長から課せられる使命はそんなことじゃないはずだ。――絶対。
「加えて阿部は、代表とも知り合いのようだし……」
「代表?」
 眉を寄せた若菜は、その言葉が誰を指しているのか気付いて顔をしかめた。彼が『代表』と示すのは、斎藤純一に他ならない。
「実はな――高岡は、高岡財閥の次女なんだ」
「高岡財閥?」
 聞き慣れない言葉だ。だいたい、財閥とは何だ。華族か。会社か。お金持ちな一族か。ひとまず何か凄そうなイメージはあるけど、そんな感じでいいのか。
 若菜は一瞬で過ぎ去った疑問を遠くに感じながらパチパチと瞬きした。一般常識なんだろうかと落ち込みたくなってきた。
 脳裏に美智子の姿が浮かぶ。ひとまず、雲の上の人だというイメージだけが残り、漫画やアニメでお嬢様学校に通うような淑女が想像できた。しかし想像したそんな令嬢と美智子とはかけ離れているような気がして、実感が湧かなかった。
 それよりも、そのような特別な人が働いているという事実に疑問を抱く。もしかして高岡財閥とやらは経営が傾いてでもいるんだろうか、と失礼な所にまで考えが及びかけた。
「高岡財閥はスポンサーの1つなんだ。今回のことはどうしても断りきれなくて……」
「何かあったんですか?」
 ひとまず、訳が分からない財閥とやらの存在やら関係やらよりも、課長の悩みが優先だ。若菜は体を前に乗り出した。
「高岡がな……前々から付き合ってた男がいたそうなんだが、最近別れたらしいんだよ」
「――はぁ」
「高岡には前から婚約者が決められていたそうなんだが、そちらの話を蹴って、その男と付き合っていたらしい。当然一族は面白くなかったんだろうが、その男と最近別れたらしいと知って、上を通じて俺に頼み込んで来たんだよ。本当に別れたのか確かめて欲しいって。もし本当に別れたのなら、もう高岡に他の男を近づけさせないで欲しいって」
「はぁ?」
 若菜は呆れて眉を寄せた。
(どこの世界の話だ、それは)
 恋愛など個人の自由。他人を使ってまで美智子に恋愛をさせないなどと、そんなこと、この時代にできるわけがないのに。
 困り果ててうな垂れる課長の頭部を見ながら、若菜は思い切り顔をしかめた。
(あれ、でも待って。この流れで行くと、課長の頼みって――)
 考えが嫌なところに及びかけたとき、課長が顔を上げて若菜を見つめた。
「頼む、阿部。高岡が本当に男と別れたのか、確かめて来てくれないか? それだけで構わんから」
「それだけ――って課長! それだけでもかなり無茶なお願いですよ!」
「もう阿部にしか頼めないんだ! 頼む!」
 頭まで下げられた若菜は、呆然と固まるしかできなかった。

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