他人事恋愛相談
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3.

 課長からとんでもないお願いをされてからというもの、若菜は落ち着かない気分で過ごしていた。仕事にも身が入らない。パソコン画面には先ほどから意味を成さない日本語とアルファベットが入り混じっている。しかも間違いには気付かずそのまま進むものだから、若菜が気付いたときにはもう間違いは修復不可能な段階にまで踏み込んでいる。
 若菜は苦虫を噛み潰してデータを削除する。もう一度、最初からやり直しだ。
「――阿部。阿部」
 不機嫌全開でキーボードを叩き直す若菜に、高橋の声がかけられた。
 斜め向かい側の席である彼は、ノートパソコンの陰に隠れるようにして身を乗り出してくる。若菜は気付かないフリで無視しようと決めたが、額にUSBメモリを投げつけられて、睨みつけた。
「やめて下さい、高橋さん。私、物凄く忙しいんです」
 感情を抑えた低い声で睨みつけると、高橋は水を得た魚のように直立不動で立ち上がった。
「何! そんなに大変な仕事抱えてたのか。俺も手伝ってやろうか?」
 立ち上がり、普段より少し大きめの声で若菜に問いかける。
 呆気に取られた若菜は眉を寄せる。「要らないです」と断る前に、高橋が満面の笑みで駆け寄って来るのに頭痛を覚えた。
 ――若菜の後ろの席は美智子だ。
「ほら。どれが分からないって?」
「……外向けの文書作ってるだけですから。誰かの手なんて借りなくても大丈夫です」
 低い若菜の声を無視し、高橋は隣に座り込んだ。大の大人にそうやって寄り添われると暑苦しい。自分の縄張りに土足で入られた気がして不愉快だ。
 若菜はあからさまにならないよう気をつけながら、体を高橋からずらした。目論みは成功し、高橋は気付かない。彼の存在など無視して一心にキーボードを叩き始めた。手伝う、と隣に来たはずの高橋は、特に何をするでもなく若菜の様子を眺めている。
「なぁ。高岡先輩に聞いてくれた?」
 若菜の指が滑って、とんでもない作文が完成した。
「……そんな暇、あるわけないじゃないですか」
 午後の仕事時間に入って間もなく課長に呼ばれ、更なる重大使命を授けられたのだ。正直に言って、先に受けていた高橋の依頼など、職場に戻って彼の期待する顔を見るまで忘れていた。
「困るよ、阿部。俺、来週までには高岡先輩と付き合いたいんだからさ。行動は迅速にしてくれないと」
「はぁ?」
 若菜は思わず指を止めて高橋を振り返った。彼は至って真面目に見返してくる。彼には罪悪感など欠片もないに違いない。若菜が自分のために動くのだと信じて疑っていない。これまで職場ではそのように振舞ってきた若菜だから、彼がそのように誤解するのも分かるけれど、もう都合のいいように使われるのは嫌だった。
 若菜の不穏な空気に気付いたのか、美智子と大輝が振り返って首を傾げた。彼らは高橋に気付き、大輝が「何やってんの?」と声をかける。若菜は心の中で大輝に「ナイス」と叫んだが、もちろん表情には反映されない。
「あ、いや、阿部さんが困ってたみたいなんで」
 不審そうな目で見つめられた高橋は慌て、繕うように立ち上がった。
 なぜ自分の周りにはこんな情けない男ばかりが集まるのだろう、と若菜は高橋を見送る。困っていたのは他ならぬお前のせいだ、とコッソリ胸中で毒づいたが、誰にも理解はされないのだ。
「阿部さん、平気?」
「気にしないで下さい。大丈夫です」
 高橋が去ったあとに大輝が近づいてきたが、若菜は笑顔で彼を見上げた。他の男たちと違い、頼りがいがある、と安心する。
 沈黙が流れようとした合間を縫って、美智子が口を挟んだ。
「パソコンばかり見てたら目が疲れるわよ。そういえば若菜ってどこかに旅行に行ったりしないの? 遠くの風景眺めるだけでも癒されるわよ」
 思いついたように美智子が椅子ごと若菜を振り返った。突然の話題について行けず、若菜は瞳を瞬かせる。このような世間話は珍しい。
 午前中に高橋が言った「付き合いやすくなった」という言葉が浮かび、若菜は心の中で「そうかも」と過去の高橋に同意した。
 とにかく、このチャンスを逃す訳にはいかない。
 若菜は自然を装って身を乗り出す。しかし笑わない瞳で美智子を見据えながら問いかけた。
「美智子先輩はどこか行きたい場所とか癒される場所とかってないんですか?」
 問いかけた瞬間、自席に戻った高橋が弾かれたように顔を上げるのを見た若菜は、吹き出したくなったが堪えた。大輝が何かに気付いたように高橋を見つめる。
 気付かない美智子だけが、若菜の切り返しに驚いたような表情を見せていた。
 思えば若菜も、自分からこのような話題に乗ったことはない。
「私は……そうね」
 美智子も若菜の違和感に気付いたかもしれないが、それでも答えようと悩んでくれた。若菜にはありがたい気遣いだ。
「いま一番行きたいのは遊園地かしら。この前の親睦会で行けなかったから、結構心残りなのよね」
「へぇ。美智子が遊園地」
「何よ、大輝」
 面白そうに笑う大輝に刺々しい声が飛ぶが、彼は気にも留めず肩をすくめただけだった。
 美智子の答えを意外に思ったのは大輝ばかりでなく、若菜も同じだった。目を瞠って彼女を見つめる。そんな視線に気付いたのか、美智子は視線を若菜に戻すと少しだけ笑った。
「実はテーマパークの類は一度も行ったことがないのよ。幼年学校でも演劇鑑賞や音楽鑑賞ばかりだったわ。先生の目が届かなくなるような催し物は1つもないの」
「よ、幼年学校って……」
 まるで世界が違う言葉に、若菜は額に手を当てて眉を寄せた。どう考えても高橋に勝ち目はないような気がする。もっとも、課長から「美智子の傍に男を近づけないで欲しい」と頼まれた身としては、高橋に勝ってもらっては困るのだが。
 若菜はもう1つ、禁句とは思いつつ課長の依頼を果たそうとタイミングを見計らった。
「恋人に連れて行って貰えばいいじゃないですか」
 さり気なく。何気ない風を装って。
 高橋ばかりか、課長の耳まで大きくなったように、若菜には見えた。
 総務課のこの区画でこの話題に我関せずを貫いているのは、今や鮫島と和人ぐらいだ。
 問われた瞬間、美智子の表情が強張った。
 彼女の表情に傷ついた仕草が潜んでいる気がして、若菜は一瞬で罪悪感を覚えた。
いくら課長の頼みだからといえども聞かなきゃ良かった、と後悔した。
 沈黙する若菜に背中を向けた美智子は、和人に向き直った。和人は気まずい雰囲気に気付いていたのか、嫌そうな目で若菜たちを眺める。美智子は身を乗り出した。
「秋永和人。この前の優待券、まだあるでしょう? 寄越しなさい」
「は? あれはもう」
「上司命令よ。どうせ独自の入手ルートがあるんでしょう。何としてでもかっぱらって来なさい」
 断言する美智子に呆気に取られ、和人は苦く眉を寄せる。珍しく真面目に仕事をしていた鮫島が驚いたように美智子を見上げた。
 美智子は和人に言いつけると再び若菜に向き直り、笑ってみせる。何の笑みなのか分からない。
「次の休みには私に付き合いなさいね、若菜」
「え?」
「それと、大輝も」
「なんで俺まで?」
「それから若菜は、噂の恋人とやらを連れて来ること」
「はいっ?」
 次々決められて行く提案を、若菜も大輝も止めることができず、ただ聞いていた。
 美智子はすべてを吐き出した後、嫌そうな表情をする大輝を振り返る。
「ダブルデートと行こうじゃない」
「――なんで俺が……」
 付き合っていられるかとばかりに大輝がその場を離れようとする。そんな彼のスーツを、美智子は鷲づかみした。逃がしてたまるものかという雰囲気だ。彼女の表情は1つも笑みを浮かべていない。
「あのな。俺は今、超多忙で」
 大輝が嫌々振り返ったとき、黙って傍観していた和人が立ち上がった。
「厚志先輩が来るなら俺も行きますよ!」
「はぁっ?」
 最も聞きたくない言葉に若菜の声が跳ね上がる。美智子も大輝も彼を振り返り、当初の目的どころではなくなった高橋と課長は、ただ呆然と成り行きを見守っている。
 美智子が珍しく渋い顔をして和人を眺め、うなった。
「……駄目よ。これはカップル限定だから」
「なら1人連れて行けばいいんでしょう?」
 和人の隣で鮫島が嬉しそうな顔をする。
「麻衣子さん連れて行きますから。それで人数も合う」
「ちょっと……」
 あまりな言葉に若菜は睨みつけたが、和人から冷笑を返され、彼の言葉はこちらに対する当てつけなのだと知る。鮫島が哀れに思えてくる。
 美智子は苦い顔を崩さず視線をさまよわせた。何事かを思案しているようだ。
「麻衣子、ね。私、あの子嫌いなのよね」
「知り合いなんですかっ?」
「佐藤麻衣子でしょう? 知ってるわよ。今年初めの会誌にも載ってたじゃない。斎藤純一と肩を並べる代表の令嬢」
 若菜は改めて、周囲に対する自分の無関心ぶりに落ち込んだ。会誌を貰ったらこれからは一度目を通してから捨てようと決めた。
 美智子がため息をつく。
「まぁ、いいわ。人数が合うなら問題ない――」
「ま、待って下さい。私、駄目ですよ」
 そのまま決定しそうな雰囲気に慌てて歯止めをかける。和人たちが加わるのなら何としても阻止したいのが実情だ。既に大輝は呆れた様子で自席に戻っており、彼女を止めるのは若菜しかいない。
「私、次の休みには行く所があるんです」
「用事?」
「え、ええ」
 美智子の視線が探るように若菜を見る。
 本当は行くところなどないが、若菜は必死で頷く。心が痛む。しかし、和人たちと遊園地へ行く羽目になることを思えば、そんな痛みは何でもない。
「どこに行くの?」
「え? どこって……」
 美智子の追及は続き、若菜は口の中が乾いていくのを感じながら必死で思考を巡らせた。こんなに真剣に家の周辺を思い出したことはないぞと毒づきながら、探索地図を脳裏に描く。
 窮地に追いつめられた若菜を救ったのは課長だった。
「――お前ら。そろそろ仕事に戻ってくれないか?」
 先ほどからタイミングを計っていたようだ。若菜と美智子は我に返って振り返った。だいぶ話し込んでしまったようで、退社時刻が迫っている。課長は呆れたようにも怒っているようにも、どちらにも取れる口調でその場を諌めた。
「仕方ないわね。遊園地はまたの機会に取っておくわ」
 美智子は少しだけ唇を尖らせて席に戻った。
 若菜は罪悪感を覚えながらも安堵する。自席に着く途中、課長と目が合い微笑まれた。ありがとう、と言うように彼の片手が挙がる。ということは、彼からの依頼は無事に達成されたらしい。若菜は小さくガッツポーズをした。
 ――高橋を見てみれば、逆にスッカリ意気消沈していた。やる気なさげにパソコンを眺めている。片頬に手をついて、もう片方の手でキーボードに八つ当たりだ。
(人の恋愛ごとに首突っ込んでる暇なんてないっていうのに。流されやすいなぁ)
 若菜はため息をついて自分のノートパソコンを開き直す。退社時間が来るまで仕事に集中した。


END
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