再出発
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1.

 安西邦光が倒れてから、若菜は自主的にバス通勤へと切替えていた。
 島田は紗江を支えるために。厚志は仕事に身を入れるために。二人とも忙しそうで、自分に縛りつけることはしたくなかった。
 厚志は猛反対したが、知ったことではない。元々乗り気ではなかったので、丁度いい機会だ。
 若菜はバスのタラップを踏みながらそう思った。
 それに――と、少しだけ表情を険しくさせてバスを下りる。
 遠慮とは無縁のところにいた厚志に、最近ではどう接していいのか分かりかねている。キスをされてからは調子が狂いっぱなしだ。厚志が傍にいると思うだけで声が出なくなる。顔すらまともに見れなくなった。そうして俯いていると必ず厚志の視線を感じ、ますます焦燥を覚える。
 帰宅路を歩きながらため息をついた。
(あれも新しい嫌がらせの一種だと思えばいいのか?)
 そんなことまで思ってしまう。
 何にせよ、厚志はここ1週間、超多忙を極めているらしく、顔を合わせる暇もない。それが今の若菜にはありがたい。
 自社の人事異動に厚志が関わって来るなど、誰が予想できるか。いまだ信じられない思いだ。彼が働いている姿はどうしても想像できない。
「……あれ?」
 自宅に近づいた若菜は瞳を瞬かせた。見慣れぬ白い車が停まっていた。
 一瞬、厚志だろうかと動悸を早まらせた若菜だが、間違いには直ぐに気付いた。ナンバープレートに「わ」と入っており、レンタカーを示している。厚志がレンタカーなど借りるはずもないから、人違いだ。
 落胆を覚えたのは気のせいだろうか。
 埒もないことを考えてしまいそうな気がして、若菜は無理に思考を切替えた。
 車を凝視する。心当りが一件だけある。
「でも、この前来たばっかりだしな……?」
 半信半疑で玄関の扉を開けて、憶測は確信に変わる。玄関には大きな男物の靴があった。いつも父が履いている靴だ。玄関から居間を覗き込むと義之の姿が見えて、嘆息する。
 義之に対する苦い思いはいまだ鮮やかに蘇る。
「早かったな、若菜。迎えに行ってやろうと思ってたが、厚志君との仲を邪魔しちゃ悪いと思ってな――厚志君はどうした?」
 殴ってもいいですか? と若菜は脱力しながら誰かに問いかけたくなった。
 二人が対立したのはつい最近のことだ。あれほど厚志のことを嫌っていたのに、この手の返しよう。我が父ながら情けなく思えてしまう。
「帰ってくんな、馬鹿親父」
 切ない望みだ。小さく呟いても誰も叶えてくれない。
 若菜は気を取り直して家にあがる。由紀子は外出中なのか、義之だけが寛いでいた。
「なんで帰って来てるの? 次は正月とか言ってなかった?」
 微かに顔をしかめた義之だが、付け足された言葉には複雑な表情で沈黙した。
 若菜は鞄を投げ出して座り込む。テレビのスイッチをONにした。口数が多い方ではないため、音がないと間が持たない。かといって、帰って来たばかりの義之を残して自室へあがるのは気が引けた。何でもないふりをしながら、大して興味もないテレビ番組を眺める。
 若菜が居間に落ち着く気配を見せると、義之は意外そうに瞳を瞠らせた。そんな様子を視界の端で確認したが、若菜は気付かないフリでテレビを見続ける。
 今回、父が戻ってきた意味は何だろう。
 お盆もお彼岸もお正月も、どれも季節には当てはまらない。
「ところで仕事は終わったの? 途中で投げたりして来たんじゃないだろうね」
「ん? 終わった終わった。次の仕事も決めてきた。それまで時間があったから来たんじゃないか」
「ふーん。それならいいけど……」
 とりあえず、家を売却するような羽目にはならないようだ。
 若菜は興味なさそうに呟いた。
「ところで若菜」
「あ?」
 おもむろに切り出す義之に視線を向けると、彼は先ほどより更に複雑そうな顔をしていた。
「何?」
「厚志君のことなんだが……」
 もしかして厚志をここに呼べと言われるのだろうか、と推測して眉を寄せた。言われる前に否定することもできたが、若菜はひとまず言葉を待った。しかし幾ら待っても義之からの言葉はない。若菜は視線を彼に向ける。
「厚志が何?」
「うーん」
「自分で聞いときながらうなんな」
 リモコンをぶつけようと思ったが、今の父では大ダメージになるだろうと思い、やめた。
 いつまでも話し出さない父に業を煮やし、若菜は他の話題を思いついた。
「で、給料が振り込まれるのはイツ? 督促分が結構溜まってきてるよ」
「あー。今回他の大工にも手伝ってもらったからなぁ。あいつらにも振り込まなきゃならんし、来月の中頃になるはずだ」
「……来月か」
 家計の現状を知っている若菜としては痛い期間だ。
「で、若菜。厚志君は――来ないのか?」
 先ほどの続きに戻る。けれど義之の表情は納得いくようなものではなくて、意図的に話を逸らしたのだろうかと邪推してしまう。若菜は脳内家計簿を破り捨てた。
「何でそんなこと気にするのよ。いいじゃん、いないならいないで」
「そんな訳にいくか。未来の息子だぞ。俺は本当なら息子が欲しかったのに、育ったのはこんな逞しい女で」
「褒めてるの?」
 若菜は拳を握り締めた。
「今日は厚志君とビールでも飲もうかと思って大量購入してきたっていうのに」
「いつの間にそんな仲良しになってんのよ」
 ため息をつく義之の姿に、若菜は面白くないものを覚えて唇を曲げる。
「飲む相手だったら私がいるでしょ。他人を巻き込むな。大体、そんなに強いわけでもないくせに。大量に買ってくるなんて無駄の極地」
「お前がいつも付き合ってくれないから厚志君に頼るんじゃないか。それとも何か? 本当に厚志君の代わりにお前が飲んでくれるとでも?」
「私はワイン派だから」
 却下すると義之は落ち込んだ。
「俺がいない間にどこでそんなの覚えたんだ……」
「色々と」
 玄関の扉が開く音がした。由紀子の声が聞こえ、玄関に物が積み重なる音がする。畑の収穫物だろうか。
 バトンタッチとばかりに若菜は肩を竦めて立ち上がった。義之の物言いたげな視線には気付かないまま、由紀子の手伝いに赴いた。

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