再出発
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2.

 頭の痛い出来事が重なるばかり。
 忙しいなか、すべての仕事を終えた若菜は「そういえば」と、ようやく思い出した。
 昨夜はうやむやになったが、やはり義之の態度は変だ。このような中途半端な時期に帰ってくるのも変だ。絶対に何かあったに違いない。それなのに、追究することを忘れていた。
(美智子先輩の件が落着したばっかりで、本当に忙しかったからなぁ)
 職場の壁時計を見上げながら書類を整える。
 終業間際の職場に、何やら騒がしい雰囲気が伝わってきて、若菜は廊下へ視線を向けた。他の部署からも人が多く出入りしているようだ。人々のざわめきが総務課にまで響いてくる。
「何かしら?」
 仕事に没頭していた美智子も顔を上げたが、騒ぎの正体は窺い知れない。
 あと数分で終業だ。誰かが待ちきれなくて騒いでいるのだろうか。
 誰よりも早く興味を失くし、若菜は作業に戻った。ホッチキスで書類を分類し、クリアファイルにまとめていく。机の引き出しを開け、背表紙に『過去』とシールが貼られたバインダーを取り出すと、書類をその中にまとめた。因みに背表紙の命名者は若菜だ。
「……あ、そう言えば」
 ひとまずの仕事を終えたと思っていた若菜は、肝心なことを思い出して眉を寄せた。
 『過去』バインダーを戻し、次にはその上段を引き開ける。背表紙に『現在』とシールが貼られたバインダーを取り出すと引き出しを閉める。『現在』を開くと、大輝から引き継いだ旅費や給与計算の様式がファイリングされている。非常に分厚い。
「あー……すっかり忘れてた……」
 『現在』にまとめられた書類は今週期限の物、と自分の中で分類していたものだ。若菜は重たいため息を吐き出す。大輝から引き継いだもののため、期限を延ばして貰うわけにもいかない。何より、そんなことをしたら職場全員の給与支払が遅れ、若菜としても困りものだ。
 新しい仕事を覚えることで精一杯だったため、今日まで忘れていた。
 若菜は顔をしかめて頬を掻く。
「様式が細かいんだよねぇ……」
 視力が悪い若菜としては、あまりお目にかかりたくない書類だ。このことも含めて後回しにしていた。
 こんなに狭い記入欄に無理矢理小さな文字を詰め込んでいくなど、気が遠くなる。それこそパソコンに自動入力してしまえばいいのに、と思わないでもないが、どうやらそれは来年度に叶うらしい。新しいシステムが導入される。この煩わしい紙作業もあと数ヶ月の我慢だ、と大輝に諭された。
 若菜は誰にも聞こえない程度の声量でぼやき、険しい顔をしながらうなる。
 ひとまず、手をつけなければ終わらない。
 事前に計算し終えていた書類の束を取り出して大輝を振り返る。
「大輝先輩。今月分って、これで全部ですよね?」
「日程表と照合した?」
「そりゃ勿論。おかげで目が痛いです」
 計算し終えていた書類も昔ながらの様式だ。立ち上がり、大輝の隣に行きながら書類を手渡した。
「ご苦労様。じゃあ、俺が見ておくから明日記入してくれるかな?」
「はい。お願いします」
 大輝の審査が通ったらようやく忌々しい様式に本格記入――若菜は笑顔で頷いた。嫌なことは明日へ回し、今日はとりあえず爽やかに帰ろう。
「あ、阿部さん。これ」
「え?」
 席に戻ろうとしていた若菜は呼び止められて振り返った。
 大輝の表情は先ほどと変わって困惑していた。若菜も自然と眉を寄せる。
(何の間違いしただろう……)
 返した踵をもう一度戻し、大輝が示す箇所を見る。
「残念。こっちは先月分の備考欄なんだ。今月分は右側」
「……まじっすか」
 大輝の肩越しに覗き込むと、確かに表題にはそのように書かれていた。見落としは若菜のミスだ。
「うわ……ごめんなさい」
「ううん。俺も教えてなかったし」
 とは言え、しっかりと表題がついているのだから、今回は明らかに自分のミスだとして、若菜は肩を落とした。
「疲れてる?」
「そう、かもしれないです」
 渡したばかりの書類を丸々返されてうな垂れた。終わったと思っていたため、ダメージは結構なものだ。審査前の暫定的な書類だが、それも一応は記録として残されるため、間違ったままにしてはおけない。今夜は時間外決定だ。
 大輝がクスクスと笑い、戻ろうとする若菜の手から書類の半分を抜き取った。
「先輩?」
「俺の仕事は終わってるから、半分手伝うよ」
 若菜は目を丸くする。
「だ、駄目ですよ! これは私の仕事!」
「先月までは俺の仕事だったし。後輩のミスは俺のミス。二人でやれば早く終わるよ」
 抜き取られた書類を奪い返そうとした若菜だが、大輝は笑うだけで返さない。早速作業に取り掛かる。
 そんな大輝を見て焦り、若菜は「先輩!」と声を上げた。
「ほら、机に戻って。今日帰れなくなるよ?」
「でも……明日、やるからいいですよ。まだ三日ありますし、今日はもう帰りましょう!」
「明日に大きな仕事入ってきたらどうする? 出来ることは今やっつけてしまった方がいいよ。今日は俺も忙しくないから手伝えるんだしさ」
 大輝は三枚目に取り掛かろうとしていた。
 若菜は机に戻りかけたが、しかし大輝に仕事を預けるということに抵抗を覚えて再び踵を返す。けれど、やはり大輝の言葉通り机に戻ろう、と右往左往する。
 そんな若菜を窺っていた大輝は吹き出した。
「阿部さん、落ち着いて。俺にやらせたくないなら、とりあえず今持ってる書類を急いで終わらせて、俺から取り上げればいいよ」
「そうか! そうですよね!」
 大輝は冗談で言ったのだろうが、若菜は本気に取った。急いで机に戻り、いつもの倍以上のスピードで書類をめくる。とても乱雑な音が総務課内に響き出したが、この際構わない。
 必死の形相で書類をめくりだした若菜に呆気に取られ、大輝は可笑しそうに声を殺して机に突っ伏した。彼に背中を向けている若菜には気付かれない。
「……大輝。若菜で遊ぶのはやめてちょうだい」
 一連のやり取りを見ていた美智子が鋭く睨んできたが、大輝は楽しそうに笑うだけだ。
「まったく。若菜はどこまでも早く出来るらしいけど、そうしたらその分書類の扱いが雑になるんだから。ほら。一枚こっちに飛んできた」
 美智子のため息が指す通り、物凄いスピードでめくられた書類の一枚が床を舞っていた。書類に集中する若菜は気付かない。
「でも内容はほぼ正確なんだから凄いじゃないか」
「物凄い張り詰めて、見てるこっちが疲れてくる――あら?」
 美智子が何かに気付いたように声を変えた。彼女の視線を追いかけ、大輝も気付いて目を瞠る。けれどこちらは動揺を顔に出して立ち上がった。
 定時を過ぎたが職場にはまだ結構な人たちが残っている。和人だけは後時間休を取って早退していたが、他の人間は帰宅間際だ。
 大輝の様子に気付いたのか、課長が怪訝そうに顔を上げた。大輝の視線を追い、彼もまた、目を瞠って立ち上がった。
「さ、斎藤様! 気付かなくて申し訳ありません!」
 若菜は書類を半分ほど裂いた。
「ぎゃあっ?」
 仕事に集中していたからこそミスもなく処理も早いのだ。集中が乱れたらミスだらけ。
 若菜は悲鳴を上げて書類に目を戻した。課長が自分の背後を駆け抜けて厚志の元へ行った気配を感じながら紅潮する。
 職場の入口付近に一瞬だけ見た厚志は、微かに笑ったような気がして。
(ちょっと、なんで厚志がこんな所に来てんのよっ? 超目立ってるじゃない!)
 裂いた給料明細を慌ててセロテープで直そうとするが、さすがに失礼だろうかと思い直す。時間はないが、もう一度書き直そうかと逡巡した若菜は、その明細が和人のものだと悟ってセロテープに手を伸ばした。
「斎藤様。どのようなご用件でこちらへ……」
 若菜の悲鳴に虚を突かれた様子の課長だったが、我に返ると厚志に向き直った。
 厚志は職場の全員を見渡してから課長を見る。
「今日の仕事が終わったので、婚約者を迎えに来たまでです」
 若菜の手が思い切り滑って、セロテープが長くなった。
「は。婚約者……というと……ですか?」
「ええ」
 やはり課長は先日の集まりで聞いていたらしい。周囲を考慮して小さな声だったが、若菜の名前を囁いたようだ。厚志が微笑んで肯定する。決して素ではないと思われる営業声。
 若菜は長くなったセロテープを気にせず和人の給料明細に貼り付けた。余った部分は裏面へ回す。更に余って表面へと戻って来たが、気にせず二重貼り。明細は他の人より明らかに頑丈になった。
「では、お茶をお出ししますのでこちら」
「構わずに。下で待っていますので、私が来たことを伝えて下さい」
(伝えられずとも知ってるよ……!)
 厚志の台詞に胸中で怒鳴り返し、若菜は奥歯を噛み締めた。
 視線を敢えて机の上に固定し、決して入口は振り返らないようにする。ひたすら給料明細とだけ向き合った。明らかに不自然だが気付かない。
 視界の端から厚志が消え、課長が戻ってきた瞬間、若菜は立ち上がった。
 複雑な表情をしながら若菜に声を掛けようとしていた課長は、驚いたように瞳を瞠る。
「課長。私、もう帰りますね……!」
 二の句を次がせず、若菜は即行で仕上げた書類を束ねると缶に押し込んだ。立ち尽くしたままの大輝に気付いて躊躇ったものの、迷った末に頭を下げる。
「ごめんなさい先輩。私、やっぱりその書類、明日仕上げますので今日はもう帰ります……! 本当にごめんなさい! 回収しますね」
 大輝が動く前に、若菜は彼の机から書類を奪って缶に押し込んだ。
 誰が見ても不自然に赤い顔でテキパキと帰り支度を整え、固い動作で退社を告げる。職場を出た後は、一度も振り返らずに若菜は廊下を走った。


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 職場を出て階段を駆け下りる途中、前を厚志が歩いていた。
 若菜は怒りに任せ、勢いをつけて階段を下りる。
「どういうつも」
 厚志に追いついた若菜は怒鳴りつけようとしたが、その前に振り返られ、手を伸ばされて硬直する。厚志は笑いながら若菜を引き寄せる。
 足が階段から離れて宙を滑った。若菜は息を止め、厚志に抱きつくような格好となる。
「足元にはお気をつけて」
 誰のせいだ、と怒りたかったが気勢を削がれて眉を寄せる。
 厚志の表情は繕ったもののようだ。微笑みを崩さず、若菜の腰を引き寄せる。
 若菜はバランスを崩しかけて厚志の腕にしがみ付いた。
「ちょ、と……っ!」
「さっさと出るぞ」
 体が厚志に密着して離れる瞬間、そんな囁きが聞こえた気がして、若菜は顔を上げた。
 けれどそこにあったのは微笑だけ。厚志は意味が分からないように、首を傾げて若菜を見下ろす。
 そこに来てようやく、若菜は自分たちが見物されていることに気付いた。周囲はいつの間にか囲まれている。総務課はいないようだが、決して少なくない他部署の人たちが足を止めていた。
 厚志が自分を訪ねた理由が分かった気がして、若菜は大人しく彼の手を取った。
「そうですね」
 静かな微笑みを作って階段を下りる。
 厚志は若菜の手を外し、エスコートするように腰に回していた手で支えた。
 若菜は表情を変えないまま、偶然を装って厚志の爪先を踏みつけた。
「あら。ごめんなさい」
「……いいえ」
 厚志の微笑みが僅かに引き攣ったが、若菜は心の中で舌を出すと何でもないように再び歩き出す。
 会社を出るまで周囲の好奇心は続き、外に出た後も、若菜たちは窓に張り付いた好奇心たちの集中を浴びた。

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