再出発
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3.

 会社から出た若菜は、腰に回されていた厚志の手を素早く払い、手を繋いだ。こちらの方が自由が利く。
「冬だったらいいかもしれないけど今は暑いんだからさ」
 太陽は17時を回っても輝き続けている。瞳を細めながら若菜は呟いた。
「そっちな」
 笑われた意味が分からず見上げたが、厚志はそれ以上言葉を続けなかった。
 車に向かいながら周囲の視線を感じ、若菜は憮然とする。笑顔を浮かべてみてはいるものの、どうにも頬が引き攣ってしまう。
「あーあ。とうとうこれで職場にまで厚志の噂が広がる訳だ。私の安住の地はどこ」
 冗談で笑ってみせるが同意はなかった。
 厚志を窺い見ると、険しい表情をしている。
「だから俺は反対したんだ。わざわざここに来なくても、使える支社は他にもあるだろうって」
「へぇ。初耳」
 若菜は投げやりに頷いた。自分の会社はどこまで大きいのだろうと、知らぬ自分に再び呆れる。
 バス停とは反対の場所に、職員専用の駐車スペースが設けられている。公用車もここに停められており、鍵のかかる車庫の中にはピカピカ光る高級車が揃えられていた。
 いつものお客様用スペースではなく、社員用のスペースに停めたのだろう、と思った若菜は厚志の車を探すが、見当たらない。厚志は若菜を伴いながら、他より一段だけ高くなっている場所に上って足を止めた。若菜は瞳を瞬かせる。
 厚志は少しだけ首を竦めて笑った。
「島田を紗江さんに貸してるからな。不愉快だが、親父の送迎車を借りてるんだ。俺が車を持ってこようとすると、他の奴らが騒ぎ立てるから」
 厚志争奪戦が脳裏に浮かんだが、いまいち想像がつきがたくて「へー」と吐き出すだけに留めた。
 青空はようやく夕焼けの様相を醸しだした。視線を向けると、彼方が金茜に染まっている。強い光に瞳を射られて、若菜は瞳を細めた。
「安西さんの容態はもう完全にいいの? あれから1回もお見舞い行けなかったから分かんないけど、もう退院したの?」
「ああ。本人の宣言通り、あれから一週間後に退院した。っても、家に専門医を1人つけたから、入院してるときと環境は変わらねぇけど」
 少々苦い表情と口調だったが、その裏に嬉しそうな気配を感じて若菜は小さく笑う。親代わりだったという安西さんの無事を、厚志が喜ばない訳がない。
「良かったね」
 素直に告げたあと、裏通りから1台の車が乗り込んできた。
 車は一直線に厚志を目指してきて、その目の前で停まった。
 若菜をその場に残し、厚志は先に車のドアを開けた。若菜を振り返ってニヤリと笑う。
「ではどうぞ、姫?」
「うむ。苦しゅうない」
 若菜は尊大に頷いてみせ、乗り込んだ。厚志も笑いながら続けて乗り込む。早速発車を命じるが、今のやり取りに軽く目を瞠っていた運転手は否を告げた。
「純一様もご同車されるご予定ですので、少しお待ちください」
「は? うわ、最悪。言ってることとやってること滅茶苦茶じゃねぇか」
 厚志は本気で嫌そうに呟いた。
 少しの沈黙のあと、運転席に身を乗り出す。
「いい、構うな。後から」
 先に車を出させようとした厚志だが、タイミングの悪いことに純一が姿を現した。重役たちと一緒に歩いてくる。
 若菜は思わず「げ」と唸り、厚志の背中に身を隠した。彼らの好奇心に晒されるのはゴメンである。けれど彼らは車の傍まで来るだろう。彼らから完全に身を隠すなんて不可能だ。
 非常に面白くない事態が待っているような気がし、若菜は顔を背けた。


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「いやぁ、癒される。こっちに来てから厄介な仕事ばっかりで飽き飽きしてたんだよ」
 厚志と同じ顔で笑うのは純一だった。
 若菜は顔をしかめる。
「厚志。お前が向こうに行け。俺の隣に若菜ちゃんを寄越せ」
「お前の隣は運転手で充分だ。何でこっちに来るんだよ、前に行けよ。狭いんだから動くんじゃねぇっ」
 走り出した車内には厚志の怒りが充満していた。若菜は既に諦めていたが、純一は諦めずに迷惑は燃え広がる。厚志の身体越しに若菜を引っ張ろうと、腕を伸ばしてきた。
「若菜に触るな!」
「お前だけの若菜ちゃんじゃないだろう」
「いいや、俺のだ」
 右腕を引かれた若菜はもう片腕で突っ張ろうとするが、力足らずで純一へと身を乗り出す格好となった。純一と若菜の間に座っていた厚志は眉を寄せ、若菜にしがみ付くようにしてそれを止める。若菜は苦しさに顔をしかめた。
「若菜ちゃんが困ってるだろう」
「誰のせいだよ!」
「厚志が素直にどけば誰も困らないんだよ」
「ぬけぬけと……!」
 ギリリ、と厚志が歯軋りする。
「おい石川! ドアロック解除しろ! 蹴り落とす!」
 思わぬ飛び火に、運転手は「ええっ?」と目を剥いた。とんでもない、とかぶりを振る。まるで犯罪者に怯えるような仕草だ。
「甘いな、厚志。石川は俺の命令しか受付けん」
 鼻で笑う純一は挑発しているとしか思えない。
 抱き締められたままの若菜はため息をつきながら身を任せた。この2人が揃ってしまえば太刀打ちできない気がする。本気で抵抗しても、疲れるだけだ。嵐が過ぎるのを黙って待つ方が賢い選択だと言えよう。
 とりあえず眼鏡が壊れないように、と顔を動かすことだけが出来る唯一のことだった。
「石川。先に若菜ちゃんの家に直行な。私はその後でも間に合うから大丈夫だ」
 何かを思い出したかのように告げる純一に、石川運転手は少しためらった。純一が強く頷くと、「はぁ」と曖昧に頷いて車線を変える。
「なんでお前が若菜の家まで知ってるんだよ!」
「地図で確認すれば分かるだろう。馬鹿だな」
 どこかで聞いた台詞に若菜は頭を押さえたくなる。厚志にとって、純一は紛れもなく“敵”だ。
「忙しいとか言って俺に仕事押し付けてやがった癖に、お前はそんな余裕があったのかよ……!」
「厚志は仕事を覚えることが出来るし、俺は楽することができる。メリットばかりじゃないか」
「テメェの主観だけで物言ってんじゃねぇ!」
 頭上で怒鳴られ、若菜は眉間に太い皺を一本刻んだまま、瞳を閉ざした。


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「ところで」
 親子喧嘩が一段落し、若菜の位置は結局、厚志と純一の間になっていた。
 不機嫌な声音で厚志は純一を呼ぶ。
「なんだ?」
 そこらのサラリーマンと変わらないスーツを着込み、座って足を組む。ただそれだけだというのに、純一はとても絵になっていた。限られた者にしか近づけない雰囲気を放っている。
 若菜はそう感じたが、厚志は普通に声を掛ける。胡乱な瞳を向けながら問い質す。
「何だって俺らと一緒に行こうと思ったんだ? 次の車を待つから先に若菜を送ってやれって言ったのは親父じゃねぇか」
 純一はただ笑みを浮かべたまま、その不機嫌な言葉を受け止めていた。喧嘩を吹っかけている方からすれば、非常に腹が立つ表情だ。
「未来の家族になるかもしれん相手と親睦を深めたいと思うのは間違いか?」
 厚志は眉を寄せる。
「何考えてる? 麻衣子たち以外は認めないと騒いでたのはどこ行った」
 量るように窺い見る厚志の眼差しは真剣だ。過去、二人にどんなやり取りがあったのか、若菜も純一に視線を向ける。
「今でもその考えは変わってない。あの子たちの後ろ盾は魅力的だ」
 純一は若菜の視線に気付いて微笑みを深めた。
「それがどうして若菜を本気で認めようとするんだ。若菜の家に財産があるとか抜かすなよ?」
「ふん。あんな土地を手に入れても仕方ないだろう」
「殴るぞお前ら」
 若菜は拳を震わせた。
 純一が足を組み変えて厚志を見やる。
「それよりも、お前が私の傍を離れるなら何もかもが意味を失う」
 公的な意味での言葉なのか、親としての言葉なのか、知り得る術はない。
 厚志は不機嫌そうに黙り込んだ。
 車はもう若菜の自宅付近にまで辿り着いていた。純一は道案内をするために身を乗り出し、その表情は若菜たちから隠された。

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