再出発
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5.

 厚志と純一が隣り合わせで座り、テーブルを挟んだ向かいには義之が座った。
 カーペットの上で正座だ。
 男3人のそんな様子を、若菜は台所から恐々と窺っていた。
 由紀子に言われるがままお茶を入れる。滅多に出されないお客様用のお茶に、お茶菓子だ。
 一言も喋らない重苦しい雰囲気の3人からひとまず視線を逸らし、若菜はお菓子を盛り付けた籠に視線を落とした。
(てかあの厚志父がこんなもの食べるかな)
 油で揚げた硬いおかきに海苔を巻いた、庶民的なお菓子だ。純一には似合わない。何しろ彼は大企業の頂点に君臨し、スーツを着こなして世界と駆け引きしているのだ。彼がこのような家にいることすら信じられない。
 適当に茶葉を入れていた若菜は横から由紀子に小突かれた。
「よそ見しない。そんなに入れてどうするつもりなの」
 手元を見ると、茶葉は茶蓋から零れそうになっていた。慌てて茶筒に戻す。
「ねぇ。お母さん、純一と知り合いなの?」
 玄関先で繰り広げられた『再会の場面』を思い出して問いかける。由紀子は手際よくもてなしの準備を整え「そうよ」と頷いた。
 続けて問いかけようとした若菜だが、突き出されたお盆に閉口した。既にお茶も入り、お菓子も乗せられている。手際が良すぎる。いつもの由紀子とは雲泥の差だ。
「お出しして、若菜」
「お母さんが行けばいいじゃん……」
「私はこっちを持って行くの。ほら早く」
 お菓子が盛られた大きな容器を持って、由紀子が急かす。
 若菜は渋々居間へ足を踏み入れた。
「……どうぞ」
「ありがとう。若菜ちゃん」
 まず純一にお茶を差し出すと、彼は爽やかな笑顔を若菜に向ける。義之の眉が小さく動いたが、若菜はため息を飲み込んだ。純一から一歩引いた場所に座る厚志にもお茶を出し、最後に義之の前にお茶を置く。できればそのまま立ち去りたかったが、若菜はその場に腰を落ち着けた。
「――わざわざお出向いていただきありがとうございます」
「いえいえ。嫁に貰う立場ですから」
 義之のしかめっ面が酷くなった。若菜はあえて聞かないフリをする。
 居間に沈黙が戻ろうとしたとき、台所から由紀子が登場した。その手には先ほどよりも多くのお菓子が盛られた器があり、若菜は目を剥いた。テーブルには既に二つの盛り皿があるというのに、どうするというのだ。
「誰がそんなに食べるのよ……!」
 若菜の非難にも由紀子は動じず、そのまま器を純一の前に差し出した。
「純ちゃんは昔からこれが好きなの」
 非常に気の抜ける呼び方だ。
 若菜は眩暈を起こす。
「……知り合い、なんだよね?」
「そうよ。そうでなかったら、幾ら若菜の元クラスメイトだからって、婚約まで強制できないわよ」
 初めて明かされる裏事情に若菜は頭痛を覚えた。意外に深かったのかと、喜べばいいのか泣けばいいのか分からない。言葉も出ない。
 若菜ですらそうなのだから、この間まで婚約自体知らなかった義之は尚更だ。自然と瞳は険しくなり、向かいの純一を仇のように睨みつけている。純一は嬉しそうに、由紀子に出されたお菓子をつまみあげていた。ここまできて動揺しない純一は大した曲者だと言えよう。
 純一はお菓子を1つ飲み込んだあと、義之に軽く微笑んで口を開いた。
「由紀子さんは私の初恋の人なんです。振られてしまいましたけどね」
 初耳だということを示すように、厚志が驚いたように顔を上げる。
 由紀子は肯定するように笑った。
「純ちゃんと私は幼馴染なのよ。後から越してきた義之も一緒にね。だけど親の関係で、一回は皆離れ離れになったの。でも私が高校生の頃にね、それまで手紙でしかやり取りしてなかった義之が会いに来てくれて、それで付き合い始めたのよ」
 全員の視線に晒されて、顔を背けていた義之の顔は更に不機嫌そうに硬くなった。
 それまで柔和な笑みを浮かべていた純一が意地悪げな笑みを向ける。
「由紀子さんに逢いたいな、なんて俺と2人で言ってたくせに、裏ではちゃっかり自分だけ逢いに行ってたわけだ。ふーん?」
 義之が嫌そうに顔をしかめた。
 そんな表情に、若菜はようやく得心がいって肩から力を抜いた。
(今回帰って来たのはこのためか……)
 昔馴染みの名前をそうそう忘れるわけはない。もし忘れていても、名前を聞けば思い出すだろう。厚志から純一の名前を聞いたか、それとも由紀子から聞いたのか。義之は思い出し、そうして今回戻ってきたのだ。出し抜いてしまった幼馴染と話をするために。
「私、外に行ってくる。厚志ついて来てよ。そろそろ暗くなるから」
 立ち上がった若菜はそう言い置いて玄関に向かった。引き止める者は誰もいない。厚志が立ち上がる様子を確認し、玄関へ向かう。
 外へ出れば、夏とは言え涼しくなった夕暮れの風が体を撫でた。
「どこに行くつもりだ?」
「そこらへん」
 目的を決めぬまま外に出ると、見慣れぬ車が目に入った。若菜たちが乗ってきた車だ。律儀に今まで待っていたのだろう。
 運転手の石川は、なかなか出てこない純一に気を揉んでいたらしい。厚志の姿が見えると直ぐに外へ飛び出してきた。
「あの、厚志様。そろそろ純一様に出て頂かないと――」
「あー、しばらく……もうちょっと、待っててくれ」
「けれどお時間が押しております。これでは、どんなに急いでも皆様をお待たせしてしまいます」
 今日の予定はそれほど大切なのだろうか。困る石川を前にし、厚志は苦い顔をする。
「私、呼んで来るよ」
 玄関に戻ろうとした若菜だが、厚志に無言で引き止められた。腕をつかまれる。
「戻ったら無駄になるだろ」
 言葉は少ないが、若菜は頬を緩める。
 厚志は石川を若菜の隣に残すと、携帯を出しながら後部座席に乗り込んだ。恐らく純一が今日会うはずだった人物に詫びを入れる電話なのだろう。厚志の横顔はいつになく真剣だ。
 純一が関わる会社の都合なら、相手はそれ相応の役職にいる人物だ。そんな人物にキャンセルや延期の電話を入れるのなら、厚志自身も相応の人物だと相手に認められなければならない。純一の後継者であると。
 もしくは、今回の電話を入れることで相手側には意思表示をしたと取られるかもしれなくて。
 それでも、そんな行動を取る厚志を見直し、若菜は外から彼の横顔を見つめた。
「安西様も罪なお方だ」
 直ぐ隣に立つ石川からそんな言葉が零れた。若菜は瞳を瞬かせて彼を見上げたが、石川は気付かない。彼の視線は厚志に注がれていた。その中にはどこか痛みが含まれているような気がし、若菜は息を詰める。問いかけてはいけないような気がした。
 しばらくして厚志が車から下りてきた。石川に片手を上げる。
「話はついた。来週に延期してもらった」
「延期でございますか」
「親父のスケジュールまでは知らないぞ。俺が話をつけてやったんだ。何が何でも空けさせろ」
 瞳を瞠らせる石川へ、厚志は横柄に告げると若菜の元へ戻った。若菜の視線に気付くとわずかにたじろぐ。
「……何だ?」
「いや。偉そうだなぁと思って」
「実際偉いんだからいいだろ」
 そんな傲慢さも今はなぜか憎らしく思えなくなり、若菜はただ笑った。
 西空は黄昏の終盤へ向かい、周囲を金色に染めている。厚志は眩しそうに空を仰いだ。
「あー、義之さんも可哀想だよなぁ。親父なんかに当てられて」
 伸びをしながら歩き出す厚志に、若菜も歩調を合わせて歩き出した。振り返ると石川はその場に留まるようで、「行ってらっしゃい」と言うようにお辞儀をされた。
 若菜は再び厚志を見上げる。
「……何でそう思うの?」
「親父が行ったとき、物凄い不機嫌な表情してただろ」
 若菜は唇を引き結んだ。視線を落とし、少し迷ったのちに口を開く。
「違うよ。あれは私が傍にいたから不機嫌な表情してただけ。カッコつけたがりなんだよ。私がいたから口を開けなかっただけで、本当に不機嫌だった訳じゃないから」
 弁明するように付け足すと、厚志は数瞬沈黙したあとに「あー」と、納得したのかしてないのか、良く分からない声を出した。
「なるほど。だから親父が遊んだわけか」
「遊ぶ?」
「義之さんには最初からこっちのことが分かってたってことだろ? それなのに、どっちとも取れるような態度取ってたから――俺は親父が押し切るつもりで笑ったんだと思ってたんだが、あれは遊んでただけだったんだな」
 若菜は肩をすくめた。どちらにしても腹の探り合いだ。厚志が何かを含むように若菜を見る。
「そういう所は親父さん譲りなわけだ」
「冗談」
 若菜は苦く顔をしかめる。
「――お前の態度も、どうしたらいいか分からないときのだもんな」
「え?」
 小さな声に視線を上げた。黄昏で眩い光に当てられ、厚志の輪郭が溶けそうになっている。微笑まれ、若菜は瞳を細めた。
「家族と、友だちと、俺ら以外には仮面を崩さないってこと」
「そりゃ――面倒ごと起こしたくないし」
「それについては同感だが、若菜はまた違うだろ。俺らに対してもときどき1枚隔ててる」
 先ほどまでの解放的な気分が嘘のように、緊張が走った。厚志の声音は真剣だ。
 若菜は歩調を緩め、厚志を先に行かせる。一拍を置いて笑った。
「隔てる必要なんてないと思うけど」
 くすくす笑うと厚志が振り返る。逆光となった彼に心臓が飛び跳ねた。けれどそんな内心は隠し、若菜もそのまま立ち止まる。
「諸刃の剣。って言っても、無意識だろうけど」
 意味の分からない単語に若菜は困惑した。
 近づいてくる厚志に、不意に逃げ出したくなるような衝動が湧く。踏みとどまったが笑顔が払拭され、慌てて笑おうとしたが失敗する。
「多少の警戒心はいいかもしれんが、俺らまで遠ざけるな」
 予想外な言葉に若菜は瞳を瞠らせた。唇が震えてしまう。やはり逃げ出したいと思ってしまうのは、臆病だからだ。それでも背中を見せたくなくて、若菜は両足に力を込めた。
「少しは頼れって、前にも言ったよな」
 一歩後退しかけた若菜だが、厚志に腕をつかまれて震えた。後退しようとした足はそのまま地面に縫いつけられた。
 どういう話の流れで今のような状態になってしまったのか、首を傾げようとすると、腕を引かれた。逃げたいと思ったことなど見透かされていたらしい。不意に強く抱きしめられて驚いた。
 夏の光を含んだ服は、乾いた大地を連想させた。子どもの頃に寝転がった小学校の校庭だ。
 そんな記憶が脳裏に蘇る。
 次いで伝わってきた熱に不思議な心地よさを感じた。しかし次の瞬間湧いたのは、強烈な嫌悪感だった。
 身動きが取れなかったからかもしれない。視界を厚志に塞がれ、勝てそうな気がしない。息が詰まって喉が鳴る。
 それでも耐えようとした。
 しかし、緩まない腕の力に恐怖が湧いた。厚志に危害を加えられるようなことはない、と頭では分かっていても体全体が拒否を示す。自由に動けなければ嫌だった。
 時間にしてはほんの数秒だったにも関わらず、嫌悪感は瞬く間に全身を包んだ。
 若菜は唇を引き結び、腕に力を込めた。密着する厚志の胸に腕を差し入れて全力で抗う。あっけないほど簡単に、厚志は離れた。
「――これが、証拠」
 心臓が激しく高鳴っていた。
 少しだけ距離を取った厚志は口の端を持ち上げて笑っている。どこか自虐的な笑顔で、罪悪感が湧いた。しかしそんな感情を押し込めて、若菜は唇を尖らせた。
「何が証拠よ。いきなりどういうつもり? 変なことやめてよね!」
「婚約者なんだからいいだろう、これくらい」
 両手を“降参”のように上げていた厚志は笑顔のまま即答で返した。
 若菜のなかに苛立ちが溜まる。
「形だけの婚約者のくせして何が」
「形だけしか許さないのはお前だろう」
 微かな笑みを湛えたまま、厚志は淡々と返した。口調は淡々としているが、裏には怒りを感じ、若菜は泣きたくなる。睨みつけたまま、ただ立ち尽くした。この原因が自分にあることは分かっている。けれどこれが培ってきた自分でしかないのだからどうしようもないじゃないかと悔しく思う。それらすべてを見透かそうとする厚志に腹を立てる。
「お前にみたいに矛盾だらけでややこしい女、他の誰が面倒見るって言うんだ」
「私は誰とも結婚なんてしない。男なんて嫌い。厚志だって例外じゃない。私が婚約の契約受けたのは、ただ単に借金と――途中からは厚志に対する同情だけだ。それ以上なんてない」
 言い終えた瞬間、胸が痛む。
 厚志の傷つく様を見たくなくて視線を逸らす。ため息をつかれて唇を引き結び、恐る恐る視線を戻した。厚志にはもう笑みは浮かんでいなかった。
「それは、演技」
「……厚志だって同じことでしょう」
 先ほどまでの苛立ちは綺麗に消えていた。ただ、痛みだけが静かに胸の奥底へ沈んでいく。抗いようもない。
「ガキの頃、最後の最後まで優柔不断だったよな、若菜」
「は?」
 突然の話題に瞳を丸くさせた。
「加えてお前は輪を乱されるのが大嫌いだった」
「……なんか、凄く嫌な言い方なんだけど」
 眉を寄せて一歩後退した若菜に、厚志は唇だけで笑った。夏の太陽は半分ほど隠れてしまい、空には緩やかな紺色が滲み出しているのが見える。
「当たり障りない程度にその場を宥めて、何とかダメージが少ないようにやり過ごそうとする奴だった」
 厚志の言葉につられるように、若菜の脳裏には過去の様々な情景が浮かんでは消えた。
「――事件の後だったから、余計にそうだったのかもしれないけど」
 それまで若菜を落ち着かなくさせていた瞳が不意に翳りを帯びる。逸らされた視線に複雑な境地になった。徐々に光度を落としていく周囲に合わせ、気分は最低だ。住宅の影から得体の知れぬ男が飛び出してきそうに思えた。
 厚志の視線が再び若菜を捉えた。
「追いつめてやろうか?」
 一歩迫った厚志に慌て、若菜は一歩後退しようとしたが、かけられた言葉に眉を寄せて足を止めた。
「若菜が本音で怒れるように、どこまでも追いつめてみせようか?」
 引きかけた肩を堪えて拳を握り締める。
「……今までも結構本気で怒ってたんだけど」
 沸々と湧き出した不愉快さに、若菜は唸るように呟いた。あれらすべてが本気じゃなかったと思われていたなら、激しく罵りたい。
 厚志は笑って一蹴した。
「自己暗示力も強かったな。いい加減に疲れないか?」
 腕をつかまれて、つい腰が引けた。厚志の力がそれまでとは違うように感じられて、若菜は戸惑う。厚志は若菜の目の前に立って見下ろした。
 その距離が、何度か交わしたキスの距離だと気付いて若菜は見上げた。
「……それは、何のキス?」
 厚志は逡巡したあとに笑う。
「宣戦布告」
「ふーん?」
 引けていた腰を伸ばした若菜は微笑んで厚志を見上げた。つかまれた腕の力にも、もう恐怖は覚えなかった。
「受けて立とうじゃない」
「絶対に追いつめてやる」
 厚志もニヤリと笑い、若菜は瞳を閉じた。言葉ではそう交わしながら、触れた唇はとても優しい。体全体が発熱しているようだ。
 若菜は不思議に思った。必死に抗っていた何かが消えてしまったかのようだ。
 三度目のキスは両者が望んだもの。表面だけ捉えれば何とも色気のない、まるで矢合はせのような戦闘開始の合図だけれど。
 夜の帳が下りようとしていた。


END
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