誕生日
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3.

 島田が迎えに来るようになってから二日が経った。転じて言えば、厚志から連絡が来なくなって二日経った。今日はもう厚志の誕生日だ。
 さすがに本人と連絡がつかないまま直行するのはためらわれたが、連絡が取れないならば仕方がない。若菜は不安な気持ちのまま、その日の朝を迎えていた。
 朝食中もチラチラと窓の外を窺い、車の音がしようものなら勢い良く顔を上げる。けれどどれもが期待外れに終わり、最終的に、今日も島田が来たことに落胆した。
「若菜。今日は一度戻ってくるの?」
「ああ、うん。材料持ってかないと作れないし」
「そう」
 由紀子は嬉しそうに微笑んだ。
 連日、由紀子に料理指導を受けていた若菜は、付け焼刃とは言え、それなりの腕前に上達した。由紀子もまた、これまで料理になど興味を示さなかった娘の変貌に、機嫌が良さそうだ。
「厚志君の誕生日祝いかぁ。母さんも行ってあげたいけど、若者は二人だけの方がいいわよね」
「……戸締まりしてから寝てよね」
 由紀子の暴走に怒鳴り返す勢いもない。若菜はただ一言だけ忠告した。
 由紀子は「はい!」と元気な返事をして背筋を伸ばす。
 いったい何の遊びだ、と若菜は由紀子を見つめた。
「純ちゃんたら、厚志君を放り投げて育てて来たって言うんですもの。安西さんからそれを聞いてからね、ずっと何かしてあげたいなと思ってたのよ。安西さんと二人で示し合わせて、ようやくお見合いまで漕ぎ付けられたわ。いつか純ちゃんに怒らなきゃと思ってたけど、この前来たときに怒ることができたし……あとは若菜だけなのよ、母さんの憂いごとは」
 微笑んだまま暴露され、若菜は由紀子を見つめた。真の曲者はここにいたのか。我が母ながらなかなかの者だ。
「――私らの心配してないで、自分らの心配してればいいんだよ」
 何やらどっと疲れた気がして俯いた。壁に手をつけて瞳を閉ざす。
 連日の疲れが押し寄せてきた。これから厚志と対面する余裕まで失われてしまったような気がした。
「もう、本当に――娘を巻き込むの、やめてよね……」
「最後に選ぶのは若菜よ」
 その『最後』までの迷惑も引き取って欲しい、とは若菜の胸の内。由紀子に背中を押されて玄関に出た。
 出迎えた島田の笑顔に、若菜は少しだけため息を零しながら笑顔を返した。


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 朝から疲れた気分で出社し、机に突っ伏していた若菜を叩き起こしたのは和人だった。
「なに……?」
 会社にはまだ誰もいない。和人が普段より早く来たらしい。
 和人は、座る若菜を覆うように長身を屈めて机に手をつく。その表情は真剣だ。
「この前の誕生日のことだけど」
「ああ、そのこと」
 机に頬杖ついたまま若菜は眉を寄せる。本人と一度も連絡がつかないまま行くのは躊躇われる。
「とりあえず突撃訪問考えてて。厚志が今どこにいるのか知らない? 連絡取れないんだよね」
 昨日今日と、気は進まなかったが会社の最上階へも行ってみた。しかし誰もいない。純一にでも会えれば連絡がつくかもしれないと思ったが、彼は出張中らしくて不在だった。携帯にかけても留守電ばかりに繋がってしまう。
 もうお手上げだ、と若菜は瞳を閉ざす。
 そんな若菜の両肩を勢いよくつかんだ和人は険しい表情で怒鳴った。
「何でアンタがそうやって知らないんだよっ? 気付けよ、厚志先輩が風邪引いてることくらい!」
「は?」
 至近距離での怒鳴り声に顔をしかめた若菜は和人を凝視する。
「俺が部屋に行ったら、ほとんど何も食べないで倒れてたんだぞ! もし俺が行ってなかったら更に酷いことになってたじゃねぇか! アンタに電話しようとしたら、喧嘩したからいいって、厚志先輩に止められるし! 少しくらい不調に気付かなかったのかよ?」
 八つ当たりじゃないかと思いながら若菜は記憶を巻き戻した。以前電話したとき、確かにあれくらいで怒るなんてらしくない、と思った。しかし些細なことだと気に留めなかった。あれで気付ける人がいたらその人はどれだけ良く気が付く人なんだと感心したい。
「あのな、この際だからバラすけど、アンタほど厚志先輩に想われてる人間はいないんだからな。今回の喧嘩だって、アンタに風邪を移したくないから寄らせないようにしたんだって、言ってたんだからな。じゃなかったら、今更アンタが少しひねくれたりしても怒らねぇよ」
 若菜は口を開いたが結局言葉は生まれず、ただ眉を寄せるだけに留めた。
 複雑な気遣いをする厚志に呆れてしまう。
「手間がかかる奴だなぁ」
 そんなことをぼやいて和人の傍をすり抜ける。
 確かに、よほどの用がない限り喧嘩した相手の傍に行こうとは思わない。その間に風邪を治そうとでも思ったのだろうか。不器用だ。
 年休簿に記入して振り返ると、和人は不機嫌な表情で若菜の動向を見守っている。そんな彼に指を突きつけた。
「そんなに厚志が心配なら私を乗せてってよ。バスより車の方が早い」
 沸々と湧いてきた怒りに身を任せる。和人は不機嫌ながらも指示に従ってくれる。
 生意気で扱いづらいが、厚志を想う気持ちは本物のようだ。
 若菜は少しだけ、この幼い青年を見直した。


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 自宅に寄ると、由紀子は買物に出かけたらしく、いなかった。
 若菜は用意していた食材を車に積んで再出発する。念のため、戸締まりがされているかも確認する。抜けている由紀子ならあり得る話だ。結果、由紀子はしっかりと戸締まりして出かけたことを知って安堵した。いつもこうだったらいいのに。
 車で待っていた和人は、遅くなった若菜に何も言わずに車を出す。
 そんな彼には何も文句はない若菜だが、彼が吸う煙草の煙にだけは腹が立った。いちいち取り上げて握り潰すこと数回。和人に叩き払われた。
「うるせぇなぁ。自分の車で何しようが勝手だろう」
「勝手するなら自分一人だけのときに吸って。こんな煙だらけの車内にいたらあっと言う間に肺がんになりそう。少しは控えるいい機会だと思え」
「偉そうに指図すんな。俺の将来なんだからアンタには関係ないだろう」
 素直に聞き入れるはずがないとは思っていたが、あまりに予想通りの答えに若菜は苦笑を洩らした。ため息をついて和人を見やる。煙草を取られまいと窓際に頭を寄せる和人の胸ポケットから元凶を取り出した。気付いた和人が焦って叫ぶ。
 若菜は取り返される前にと、外に投げ捨てた。小さな四角い箱は直ぐに後方へ流れて見えなくなった。若菜としても望まない行為だが、ゴミ箱に捨てるだけでは直ぐに拾われてしまうと思ったため、今回だけだ。和人に怒鳴られても気にしない。大半の喫煙者が言い訳するのと同じものだ。若菜はすべてを聞き流した。
 とうとう和人は諦めたのか、苦々しく舌打ちして前に向き直った。
「厚志先輩だって吸ってるって言うのに」
「なら厚志にもやめて貰おう」
 厚志が吸うところを見たことがない若菜は驚いたが、淡々と呟いた。厚志がやめれば、彼の真似だけで始めただろう和人が更生するのも難しい話ではない。
 和人は舌打ちした。
「ほら、着いたぜ。厚志先輩のマンション」
 言われて気付く。確かに、何度か見た光景がその場に広がっていた。高層ビルに匹敵するマンションはいつ見ても高い。
 マンション入口へ車を回した和人に礼を言い、若菜は食材が詰まった袋を下ろした。そのまま去ろうとする和人に眉を寄せる。
「ちょっと。一人だけどこに行こうとしてるのよ。厚志は風邪引いてるんでしょ。手伝ってよ」
「冗談。俺が話したことばれたら怒られるじゃねぇか。俺が行くよりアンタが一人で行く方が絶対」
「いいから下りる!」
 和人の声を遮って怒鳴りつけたが、彼は下りない。あげくに彼は「あ、そうだ」と若菜に鍵を渡してマンションを示す。
「それが管理人室の合鍵。純一さんから借りた。失くすなよ」
「おじさんから? ……いつ会ったのよ」
 純一が出張へ行ったのは厚志と喧嘩する前だというのに。
「会ってねぇよ。アンタに渡してくれって、会社経由で俺に回ってきたんだ」
「ああ、そう。私に渡すより先に、自分で会いに来たってわけ」
 和人の厚志愛には呆れるばかり。和人には鼻で笑われた。
「とにかく、それ持って管理人室に入れ。全室の鍵が揃ってるから」
「不法侵入だろそれ」
「じゃあな」
「え、あ、こらっ!」
 若菜が気を逸らした一瞬の隙に、和人はアクセルを踏んで傍を離れた。直ぐに助手席のドアが閉められる。気付いた若菜が追いかけようとしても、追いつけなかった。
 荷物をその場に置いて走るのもためらわれ、若菜はその場で叫ぶしかない。飄々と去っていく車を、若菜は憎々しく睨みつけた。

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