誕生日
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4.

 いつまでも立ち尽くしているわけにいかない。
 重たい荷物を抱え、若菜は渋々一人でマンションに入った。
「……重い」
 沢山の食材が詰め込まれた袋は、指に食い込んで腕が震える。せめてこの荷物を厚志の部屋に運んでくれるだけでも良かったのに、と去って行った和人を思う。彼はこれから出勤なのだから早く行かなければいけないというのは分かるが、やはり苦々しい思いは消えない。
 軽い音を立てて開く自動ドアの向こう側に、何度か目にした管理人室がある。以前来たときは気のいい老人が管理人を務めていたが、今回は無人だった。
 周囲を窺っても誰もいない。管理人室を覗き込んでも、床を眺めても、誰もいない。部屋からどこか休憩室へ繋がるような扉もない。
 高セキュリティのマンションだと思っていたが、入口は案外オーソドックスだ。それとも、肉眼では分からないセキュリティが働いているのだろうか。
 若菜は窓口に肘を乗せてしばらく中を窺う。管理人室の壁にマスターキーらしき鍵が掛かっていることに気付いて、周囲を見回した。
「通報されたりしない、よね?」
 和人から預かった管理人室の鍵を見下ろし、若菜は妙な動悸を抱えながら扉の前に立った。半信半疑で鍵を回すと、簡単に開く。
「えっと……厚志の部屋から鍵借りてきたら、戻しに来ます」
 聞く者は誰もいないというのに、誰に向かって言っているのか。
 若菜はかなり逡巡したが、マスターキーをつかむと素早く外へ出た。管理人室に再び鍵をかけてマスターキーをポケットに押し込む。食材を抱えてエレベーターへ急いだ。突き指しそうな勢いでボタンを押し、エレベーターの扉が半分開かないうちに中へ滑り込む。妙な汗が背中を伝う。
「悪いことしてるんじゃないとは……思うけど」
 若菜は管理人室を窺いながらエレベーターの扉が閉まるのを待ち、額の汗を拭った。


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 エレベーターから下りて広がる廊下は、数ヶ月前の記憶と変わっていなかった。閑散とした様子も、住民たちの部屋の間隔も。相変わらず広い。
 若菜は記憶を探りながら表札を探し、大分歩いたところで『斎藤』のプレートを見つけた。現在は何の扉でも開くマスターキーを持っているので、間違えて入ったら洒落にならない。何度も表札を確かめてから鍵を差し込む。
 扉は簡単に開いた。
 ほとんど音を出さないよう気をつけながら扉を開き、若菜はひとまず中を窺う。玄関には厚志のものと思われる大きな靴が一足だけあった。人を察知した玄関は直ぐに明かりをつける。若菜は軽く首を竦めて天井を見上げた。危惧した警報装置は作動しない。
「厚志ー?」
 小声で呼びかけてみるが、反応はない。扉を閉め、意を決して家の中へ上がり込む。リビングの扉に手をかけたとき、以前のように麻衣子がいたらどうしようと思ったが、杞憂だった。
 朝だというのに明かりがついたままのリビングに厚志だけがいた。寝室へ行くのも面倒だったのか、ソファに寝転がって毛布一枚を被っている。
 昨夜は和人が来ていたという話なのだが、看病された様子はない。
「それって余計に風邪悪化しないか……?」
 ソファから厚志の足がはみ出していた。寝心地が悪いのか苦悶の表情を浮かべている。汗で前髪が額につき、いつもより幼く見せていた。
 起こして寝室へ連れて行くのがいいか、このままご飯を食べさせてから寝室へ連れて行くのがいいか、迷った若菜は後者を選んだ。
 もったいなかったのでリビングの照明だけ落としてキッチンを借りる。生活感のないキッチンだ。鍋やフライパンには焦げ目もない。本当に使っているのかと首を傾げるものだ。調味料は一通り揃っていたが、三角コーナーですら使用形跡がない。
「何食べてるんだあいつ……」
 思わず呟いた。
 極力音を立てないよう意識しながら荷物を置き、細心の注意を払いながら食材を取り出す。鞄から由紀子直伝のレシピノートも取り出して仕度に取り掛かった。
 材料と器具とレシピさえ揃っていれば、若菜にとって料理はさほど難しくない。途中でアレンジを加えたくなったが、由紀子に口を酸っぱくして「まずはレシピ通りやりなさい」と言われていたため、グッと堪えてお決まり通りの料理を作る。湯気が立ち込め始め、換気扇をつけようとした若菜はその腕を止めた。
 阿部家の換気扇は古いせいか、大音声を立てて湯気を追い出す。
 ここの換気扇はどうか分からないが、もし同じように大きな音を立てるものだったら、厚志が起きてしまう。少しの物音も立ててはいけないような気がした。
 若菜は逡巡したあと換気扇をつけないまま作業に戻る。その分、作業効率を良くして目まぐるしく動き、最速で終わらせた。時間がかかる料理は飽きると危惧したのか、由紀子は調理時間が短い料理しかレシピノートに加えなかった。
「ていうか、風邪の具合聞かないと何食べれるか分からんじゃないか?」
 念のためにお粥でも作っておこうかと小さな鍋を取り出し、家から持ってきたご飯をすべて空けると水に浸した。ガスをつけて一段落つく。
(給食係みたい……)
 そんな係りから離れて既に数年。リビングに戻ってテーブルについた若菜は厚志を見下ろした。先ほどは気付かなかったが、傍にはビール缶が転がっている。その近くには風邪薬と思わしき銀色のカプセル入れが捨てられていて、表情を険しくした。
(死ぬつもりか、こいつ)
 呆れ半分でそう思う。和人のことだ、止めなかったに違いない。テーブルの上には半分ほど空になった栄養剤の瓶も置いてある。
 夕飯だけは阿部家で規則正しく摂っていたが、他の食事は不規則だったと予想される。純一が来てからはその夕飯ですらも怪しくなってきた。恐らく、ほとんどがこのように栄養剤で済ませてきたのだろう。
 若菜は窓際に寄った。音を立ててカーテンを開くと眩しい光が差し込み、軽く窓を開けると足先から冷やす風が入り込んできた。先ほどまで火の前で立ち仕事をしていた若菜には丁度いい。部屋に立ち込めた湿気も払われていく。
 数分だけ窓を開けていようとそのままにし、踵を返した。
 外の光と若菜の影に覚醒を促されたのか、厚志が起きていた。朝ご飯の仕度が整ったので丁度いい。
 厚志は自分がどんな状態に置かれているのか分かっていないようだ。眩しそうに瞳を細め、訝るように若菜を見上げて寝ぼけている。
「――熱は?」
 誕生日おめでとう、という言葉とどちらを先に言おうかと思った。厚志はまだ状況を把握していないようだ。先に風邪の具合を聞きだす。
 少し間があってから厚志が答えた。
「……下がった」
「と思うなら証拠見せて」
 厚志は体を起こすと下敷きにしていた体温計を見つけた。数秒で計れるデジタル体温計。仕事から帰ってきて、倒れるように数日間そのままだったに違いない。着ているシャツも修復不可能のように皺だらけだ。
 体温計の測定音が聞こえると厚志は素直に若菜へと差し出し、前髪をかきあげる。ようやく事態を把握してきたようだ。顔をしかめている。
「37度2分。まずまずか」
 厚志の平均体温は知らないが、一般的には微熱とされる体温だ。確かに回復へ向かっているらしい。
「和人が教えたのか」
 ソファに深く腰掛ける厚志の表情は苦々しい。風邪に疲れた様相は普段と掛け離れていて、知らない男がいるような気分になった若菜は戸惑いながら頷いた。動揺は胸の奥に隠す。怯えを悟られたら余計な心労を増やすだけだ。
「ったくアイツは」
 天井を仰ぎ、ため息を吐き出す厚志。言葉にも覇気がない。
「それで来るお前もお前だ。風邪引きやすいくせして来てんじゃねぇ」
「私がどうするかは私の勝手だ。命令されて来てるわけじゃないんだから。結果的に私が風邪引いても、それは私の責任でしょ」
 厚志は深いため息を吐き出して立ち上がった。
 その足取りがよろめいて、驚いた若菜は反射的に腕を伸ばす。厚志はその腕を払おうとしたのだが、先に若菜がシャツをつかんでいて、ソファに逆戻りした厚志に合わせて倒れ込んだ。衝撃を和らげようとしたのか厚志に抱え込まれる。
「悪い」
 視界を塞がれて抱え込まれ、ソファで弾んだ衝撃に息が詰まる。
 起き抜けの厚志の胸は熱い。寝汗をかいているのか、シャツも少し湿っているような気がする。同時に汗の匂いも敏感に嗅ぎ取り、若菜は動けなくなった。
 少しの動作でも疲れたのか、厚志は若菜を抱え込んだまま動かない。熱が出ているときは少しの衝撃も辛いはずだ。こうしてジッとして耐えているのが楽になる早道だと知っていた若菜は黙ったまま厚志が回復するのを待った。
 それから一分も経っていないとは思うが、主観にして限りなく長く思えていた時間が終わり、若菜は解放された。
「無茶苦茶な風邪の治し方してるからだよ」
 床に転がったビール缶や風邪薬、そして栄養剤を指して顔をしかめれば厚志も顔をしかめた。
「ビール持ってきたのは和人だ」
「厚志が風邪引いてるって知らなかったからでしょう。持ってきたからって飲むな」
「……俺は一缶だけしか飲んでねぇ」
「同じだ」
 怒鳴りつけようとしたが厚志の頭に響くかもしれないと危惧し、敢えて抑えた声で怒ると厚志を睨んだ。
 厚志は肩を竦めて立ち上がる。今度はふらつくようなことはなかった。
「いい匂いがする」
 キッチンの明かりに視線を移し、厚志が呟いた。そんな一言が嬉しくて若菜は表情を綻ばせる。
「任せて。今日は一日、厚志専属の家政婦やるから」
「俺を殺す気か」
「失礼な。お母さんからレシピ本貰ってきたから、料理に関しては自信作だ」
「初志貫徹を望むぜ。下手にアレンジ加えられると目も当てられなくなるからな」
「……皆してそう言うよね」
 厚志は少々掠れた声で笑い声を上げ、その声に若菜は顔をしかめた。厚志は喉の具合を確かめるように声を出し、少し咳き込んでから肩を回す。
「会社は?」
「休んだ」
 厚志が驚いたように目を瞠った。若菜は居心地が悪いような気がして視線を逸らす。
 当初、厚志のわがままに付き合わされて会社を休んだ日を思い出す。
 あの時は尋常でなく厚志を怒ったのだが――今回は自分なりの気持ちだ、と若菜は無理矢理自分を納得させて職場を出てきた。
 厚志が風邪だという不測の事態にはなったが、今日は早目に仕事を切り上げられるように、仕事のほとんどを昨日で片付けていたからこその休暇でもある。
「いいから汗流してきなよ。食べるばっかりに並べて置くから。喉の痛みはないんでしょう?」
「おう」
 追究されるのが嫌で若菜は厚志の背中を押し、無理矢理廊下へ出す。両手を着いた厚志の背中も僅かに湿っていて、早く着替えさせないと再び風邪が悪化しそうな予感だった。
 厚志は素直に従った。リビングの扉を閉めるとそのまま寝室へ消える。
 若菜はキッチンへ戻り、温かいままの料理を盛り付ける。その作業半ばで聞こえてきたシャワーの音に、頬を緩めた。

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