誕生日
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5.

 風邪すら洗い流すようにシャワーを浴びてきた厚志に、若菜は適温のスープを差し出した。
 厚志は少しためらう。上目遣いで窺われた若菜は頬を引き攣らせたが、無言で「飲め」と圧力をかけた。意を決したように、厚志は一口飲んだ。
「美味い」
 意外そうに瞠られた瞳は、どんな味を想像していたのか雄弁に物語っている。
 若菜は釈然としなかったが褒め言葉に悪い気はせず微笑んだ。由紀子直伝のレシピ通りに作ったのだから、美味しいと思って貰わなくては困る。
「とりあえず喉の状態見てお粥も作ってたけど、普通のご飯がいい?」
「両方」
 そんな回復ぶりに少々呆れた若菜だが、量が足りないのかもしれない、と思い直して厚志に言われるがまま両方を盛った。若菜自身の食が細いため、作った量は少ないのだ。成人男性には少々物足りないかもしれない。厚志がどれぐらい食べるのか考えて作れば良かったなと顔をしかめる。
 若菜が普通のご飯とお粥を盛っている間にも、厚志は並べた料理を見る間に平らげていく。
(レシピ通りに作ったから不味くはないはずだ。味気ない感じはするけど病人食なんだから仕方ないよな)
 見た目上は何の失敗もないお粥だ。テーブルに置くと、お粥も直ぐに平らげられた。病人とは思えない食欲だ。
「ご馳走様」
 すべてを平らげて満足そうに手を合わせた厚志に安堵した。自分は食べずに彼の様子を観察していた若菜は「おう」と微笑んだ。食べている間、厚志が嫌そうな顔をすることはなかった。これで自分の料理の腕前が常人の域にあると立証された。
 他人での実験結果を心に刻んだ若菜は立ち上がった。空になった食器を片付ける。
「もうお昼近いけど、会社に連絡しなくていいの? ていうか、もしかして行く気?」
 手早く洗い始めた若菜は気付いて振り返った。
 厚志はテーブルに片肘をつきながら若菜を眺めている。そんな視線とまともにぶつかり、若菜は僅かに狼狽した。落ち着かない。
「和人が何とかしてるだろ。もうしばらくは有休使わせて貰うさ」
 若菜は頷きながら食器洗いに戻った。厚志が立ち上がる気配がする。手が滑り、食器が音を立てて流しに転がる。慌ててつかんだ若菜は食器が無事なことに安堵の息をついた。食器を乱暴に扱うなと由紀子から何度も怒られたことを思い出す。さすがに他人の家で食器を欠けさせる羽目にはなりたくないな、と意識を集中させて丁寧に洗った。
「何か手伝おうか?」
 いつの間に隣にいたのか。頭上から掛けられた声に若菜は飛び跳ねそうになった。心臓が早鐘を打つ。
「要らない。傍に寄られると邪魔だから、あっち行ってて」
 固い声で応じると厚志は肩を竦めて素直にリビングへ戻る。
 無言のままでいると、リビングからテレビの音が聞こえてきた。朝のニュース番組は終わりを迎え、主婦をターゲットにしたバラエティ番組が始まっているらしい。幾つかチャンネルを回したようだが、この時間帯ではどこも似たような番組ばかりだ。厚志は結局、一番最初に映った番組でチャンネルを固定した。
 ボリュームが絞られ、リビングの扉が開く音がした。
 振り返れば厚志が廊下へ出ようとしている所だった。若菜は首を傾げながらも呼びとめはしない。
 やがて洗い物がすべて片付け終わる頃、厚志がノートパソコンを持って戻ってきた。
「家でも仕事するつもり? 病み上がりのくせに」
「他にすることもないからな。若菜はこれからどうする?」
 問いかけられて首を傾げる。こんな朝から押しかけるつもりではなかったため、間が持たない。一度家に戻ることも考えたが、面倒だった。
「今日一日は厚志専属だから。とりあえずはここにいる」
 洗い物のためにまくっていた袖を下ろし、若菜はソファに座る厚志の隣に腰を下ろした。パソコンを起動させていた厚志の視線が向けられる。
「……どうして今日、いきなり来ようと思ったんだ?」
「どうして……って、和人に怒られて、それで初めて厚志が風邪引いてたって知ったから。まぁ知らなくても夜には絶対来るはずだったんだし――自分で言ってた誕生日、もしかして忘れてないか?」
 訝しげな表情をする厚志に、その可能性に思い当たった若菜は胡乱な表情で問いかけた。案の定、厚志は瞳を丸くする。忘れていたらしい。風邪でそれどころではなかったのだろうから仕方ないが、若菜は複雑な顔で肩を竦めた。
「慣れないことすると疲れる」
 暇なので厚志の腕越しにパソコン画面を見てみたが、仕事内容が理解できずに直ぐに飽きた。他にすることもなくて暇だ。厚志の腕に顎を乗せて、何となくパソコン画面を眺め続ける。邪魔をしている自覚は充分にある。むしろ邪魔してやるから休め、と心の中で呟いた。
 シャワーを浴びてきたばかりの厚志からは清潔な匂いがして、気持ちがいい。若菜は瞳を閉ざす。放つ熱にそのまま温められる。
「……少しは身の危険くらい感じれるようになれよ」
 若菜がまどろみに落ちるさなか、厚志が苦々しく呟いた。半分以上眠っていた若菜はうなり声を上げる。意味が分からない。拒否されてる訳ではないと無意識に感じ取り、若菜は安堵する。ここ数日のストレスや疲れを流すように夢の中へと落ちていった。


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 まどろんだ時間はそれほど長くない。目を覚ますと時計は昼を示していた。
 若菜は目を擦りながら起き上がる。なぜかソファに横たわり、毛布が掛けられていた。厚志の姿がない。いつの間にか窓も閉められ、部屋は暖房で快適な温度に保たれている。まさか自分を置いてどこかへ出かけたという訳ではないだろうなと眉を寄せた。
「厚志?」
「なに」
「うわ!」
 意外にも間近から応じられて驚いた。ソファから転げ落ちそうになった若菜は、伸びてきた腕に支えられる。ソファの影になって気付かなかったが、厚志は床に座っていた。
「びっくりした……何やってんの」
「別に、何も」
 仕事はすべて片付けたのか、彼の手にパソコンはない。
 厚志が寝転ぶと窮屈そうだったソファは、若菜が寝転ぶと丁度いい寝台だ。しかし厚志が座る場所もない。本格的に寝入ってしまった若菜のために場所を譲ったのだろうか。床に直に座る厚志に、若菜は罪悪感を覚えた。
 眉を寄せて睨みながら厚志の腕を引く。
「余計に風邪引くでしょう。私に移したくないなら治す努力してよ」
 厚志を隣に引きずり上げて、冷えた背中をさする。厚志は憮然として足を組んだ。長い足が若菜の膝に当たり、若菜はベシリと叩いた。厚志はソファにずるずるとだらしなくもたれる。
「和人が来なければ、俺はお前に悟られることなく治せてたんだよ」
「もともと運がなかったんだよ」
 言い捨てると無言が返された。
 若菜は改めて部屋を見回す。仮住まいだからなのか、それとも厚志の性格に起因しているのか、見事に生活感がない部屋だと思う。台所もそうだったが、リビングもそうだ。以前来たときよりも閑散として見えた。物が減っている気さえする。洗濯物なんてもちろん掛かっていない。年中洗濯物が宅内に掛けられている阿部家とは大違いだ。
「厚志ほど家政婦いらずの男も珍しいと思う」
 そう呟いた。
「料理だって自分でできるんでしょ?」
「いまどき、できない男の方が珍しいだろ」
「そうかなぁ」
 親の好意に甘えている者ほど料理ができない気がして、若菜は首を傾げた。他人事ではない。自分も由紀子に甘えているため分かる。ひとり立ちせざるを得なかった厚志はすべて一人でこなしているに違いない。
 厚志はソファに寛いで、部屋を見渡す若菜の横顔を眺め続ける。
「――なんで、来たんだ?」
「は?」
 無視しがたい強い声に若菜は振り返った。居心地悪くなるような視線に見つめられて身じろぎする。何気なく伸びてきた手に腕をつかまれて心臓が痛くなった。逃げられない。
 若菜は混乱しながら口を開く。
「何もないよ。今日が厚志の誕生日だって聞いてたし、私は前にプレゼント貰ってたから……」
 まるで厚志の瞳は見透かすようだ。不安に視線を揺らせていた若菜だが、そんな彼の視線に負けたくなくて、唇を引き結んだ。生来の気の強さが現れた顔立ちを険しくさせて厚志を見返す。
 挑まれた厚志は笑うように息を吐き出した。
「まさに中堅。しっかりバランス保とうとするんだよなぁ」
 意味の分からない言葉に若菜は眉を寄せた。
 そんな戸惑いを気にせず、厚志は低く笑う。若菜の腕を引いて抱き寄せた。
 背の低い若菜は自然と厚志の胸に額をつける羽目になる。彼の行動の意味が分からず、瞳を瞬かせながら顔を上げた。厚志の微笑みが瞳に映る。
「プレゼントはもう用意してあるのか?」
「ケーキは夜に届くように手配してあるよ」
 妙な居心地の悪さに焦りながら若菜は答えた。つかまれた腕以外の感覚を失った気がして落ち着かない。触れられている場所だけに熱が集中している。叫び出したくなる。顔が赤くなってないかと心配した若菜は、そんな自分の思考に驚いた。顔が不自然に笑おうとする。厚志の隣にいるということを再認識し、全身が熱くなりかけた、そんな時。
 不意に、若菜は何もない真っ暗な場所に一人だけ放り投げられたような錯覚に陥った。
 ――自分にさえ嘘を突き通す。強烈な自己暗示力は防衛本能だ。子どもの頃からの得意技。けれど、一度気付かされてしまえばもう効かない。これは、最後の砦。
 若菜は瞳を瞬かせた。目の前の暗闇が一瞬にして消え去った。闇が迫る前に感じていた動悸とは別に、今は嫌な動悸がしていた。冷や汗が背中を伝う。子どもの頃から何度か経験してきた闇が再び訪れた。
 先ほどまで浮上していた気持ちが、今は底辺に落とされている。厚志を見ると、なぜか奇妙な顔で見つめられていた。首を傾げる。
 恐れるように若菜は息を吐き出した。
「ケーキ以外のプレゼントは?」
 一度視線を逸らした厚志は再び若菜に視線を戻し、問いかけた。
 それは落胆を覚えるものではなく、ただの確認だ。
 厚志の瞳を覗き込みながら若菜は思った。
「物は、用意してない。本当は用意したかったんだけど、何がいいのか分からなくて、昨日まで悩んでた。で、結局は何も用意できなかった。笑えるよねぇ」
 若菜は自分をどこか遠くに感じながら乾いた笑いを零す。
「ま、物の代わりに今日は私が一日ここにいるから。眠れなかったら言ってよ」
 厚志は沈黙した。
「なんでいきなり話がそこまで飛ぶんだ」
「前に、夜は眠れないって言ってたじゃない」
 いきなりの思考についていけなかったらしい。若菜にも、自分の考えが良く分からない。けれど自然と零れ落ちた自分の言葉に自分で納得する。間の説明をすっ飛ばしたが、結局はそういう理由だ。
 厚志は言葉を詰まらせた。
「今でもそうなの? まだ日華里さんを思い出すの?」
 禁句だとは思ったが問いかけていた。
 案の定、厚志は急に不機嫌そうになると若菜から手を放し、顔を背けるようにソファの反対側を向いた。
 若菜はソファに両足を乗せて膝を抱える。先ほどまでつかまれていた腕に視線を落として呟く。
「記憶は消えない」
 テレビの音を消すと、本当に静かだった。
「誰かが言ってたよ。本で読んだのかは忘れたけど」
 厚志の視線が戻ることはない。若菜はそのことに安堵しながらソファに背中をつけた。天井を見上げる。
「私たちの記憶ってすべてが上書き保存なんだよね。一度でも見たり聞いたりしたことは絶対に忘れない。海馬とか大脳っていうファイルに書き込まれてく。パソコンだと、上書保存して閉じられたファイルが保存前の状態に戻ることはない。でもパソコンだとファイルを開きっぱなしにしているわけにはいかないから。……人間の脳はそりゃあ複雑で、常に上書保存され続けて、ファイルが閉じられることはない。だから時々、もうずっと前に上書保存した復元ポイントが蘇ってくる。恐怖とか、喜びとか」
 若菜は真向かいの壁をじっと見つめた。どこを見るでもなく、ただ過去に想いを馳せるように見ていた。まるでその場所に過去の記憶が映像として見えてくるようだ。
「上書きして上書きして、なるべく嫌な記憶が蘇らないように復元ポイントを深層に沈めていくの」
 私の記憶にはまだまだ新しい記憶が必要らしい、と若菜は軽く笑った。
 それとも厚志が現れたことで嫌な記憶ファイルが刺激され、恐怖も一緒に浮上したのだろうか。忌々しいことだ。だがそれならそれでまた新しい記憶を上書きしていけばいいことだ。
 若菜は両足の爪先をつかみながら思考を巡らせた。ふと視線を感じて隣を見ると、厚志の仏頂面があった。
「嫌な記憶が消えないなら、良い記憶を刻んでいけばいいだろ」
「同感」
 いままさに考えていたことだ。
 若菜は笑った。
 厚志はなぜ笑われたのか分からないように不機嫌なまま視線を逸らした。
「日華里のことは今でも思い出すけど、それに捉われ続けるほど、俺は弱くない」
「捉われてるのと弱いのとは意味が別だと思うけど」
 一人の死にこれほど長い期間捉われているということは、それだけその人物に傾けていた感情が強かったということだ。支えとなっていた人を失って平常でいられる人間の方が若菜には信じられない。
「とりあえず、誕生日おめでとう、厚志」
 全く脈絡がない祝辞に厚志は呆けた。
「新しい記憶追加」
 厚志は意味が染みこむと複雑な表情となる。若菜は笑いながら視線を戻した。隣から伝わる気配が緊張から解放されたような物となり、肩を寄せられて瞳を閉ざす。肩越しに伝わる熱を確かな安堵に変える。若菜は再び、新しい記憶追加、と胸中で呟いた。
 いつか自分に本当の恋人ができて一つになろうと思えたとき、自分の中の記憶は激しく抵抗するんだろうか、と今は思い出せない幼い恐怖を未来に馳せる。けれどそんなことになっても隣にいるこの男は失望したりしないだろう。面倒には思っても、最後まで一緒にいてくれるだろうという、妙な確信がある。
 若菜はそこまで思って我に返った。なぜ厚志前提で考えているのか、意味が分からない。
 体を強張らせた若菜に気付いたのか、軽くまどろんでいたらしい厚志の視線が向けられたが、若菜には到底彼の瞳を見返すことはできなかった。


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