第二ステージへ
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2.

 いよいよ年末の大仕事が詰まってきた。
 あまりの忙しさに土曜日まで出勤していた若菜は驚いた。久しぶりに見る気がする、大輝がそこにいた。お昼近くに来た若菜と違い、彼は最初からいたようだ。机の上には大量の資料が積まれている。
 忙しそうに書類を片付ける大輝はまだ若菜に気付いていない。
「大輝先輩。珍しいですね」
 自分の荷物を机に置きながら声をかけると大輝は顔を上げる。手を止めて微笑んだ。
「お疲れ様、阿部さん。こっちを最近さぼり気味だったからね。そろそろ片付けておかないと、すべてが中途半端になりそうだ」
 意味が良く分からなかった若菜はあいまいに微笑むだけに留めた。先に飲み物でも入れようと足を向け、大輝の机に積まれたファイルに瞳を瞬かせる。
 現在の物から二年前の古い資料までが山積みにされている。
 年末に向けてそのような資料が必要な仕事はないはずだ。
 訝る視線に気付いたのか、机の下に頭を潜らせて資料を取り出していた大輝が若菜を見て苦笑した。
「ちょっと机の整理をしてたんだ。本当はこいつら倉庫に持ってかないと駄目なんだけど、頻繁に使ってたからさ。今まで俺の机下に置いてたの。でも、そろそろ戻しておかないと」
「大輝先輩、異動するんですか?」
 不意に湧き上がった不安に問いかけると、大輝は困ったように笑った。
「俺にも分からないけど。そうなる可能性が高いんじゃないかな」
「そんな。大輝先輩がいないと困ります」
 大輝は嬉しそうに笑ったけれど、その笑みが「異動を納得している」笑みに思えた若菜は顔を歪めた。飲み物を入れることも忘れて彼に近づく。
 埃が被っている資料には、若菜がまだ目を通していない資料も多くあった。その資料の豊富さから、大輝が本当に幾つもの仕事を手がけていたのだと容易く知れる。
「でも、どうして突然……」
 浮かんで当然の疑問に若菜は眉を寄せ、答えを求めるように大輝を見た。
 大輝は手を止めて首を傾げる。迷う素振りを見せたが、若菜に凝視され、諦めたように笑った。ここには今、大輝と若菜しかいない。休日出勤が稀な職場のため、今日一日、他の誰かが来ることはないだろう。
「ここの職場ってさ、結構色んな人間の集まりだったんだよ。美智子も俺も、秋永も」
 和人も入るのか。
 若菜は彼らの共通点に頭を悩ませようとしたが、大輝の言葉は続いていた。
「課長もある意味特殊。少子化とは言え、面倒な立場の俺らをとりあえずの異動先が決まるまで、ここで面倒見てもらってたんだ。俺らがいなくなったらようやく本来の職場が戻ってくるよ」
 若菜は眉を寄せた。
 本来の職場、と彼は言うけれど、若菜が入社したときには既に大輝たちがこの場所にいた。若菜にとっての職場には彼らが含まれている。彼の言う「本来」など想像できない。
「……いなくなるんですか?」
 足場が崩れ去るような感覚だった。
 恐らく冗談半分で笑っていた大輝だが、その表情が改められる。
 困らせていると気付き、若菜は我に返った。
 いつも通りに振舞わなければ。それか、差し障りのない言葉を返して場を濁そう。
 そんな強迫観念に囚われて視線を逸らす。悟られないように笑顔を作る。
 どこか遠くで「だから厚志にあんなこと言われるんだ」と素に戻る自分がいる。
「そんなに大勢が異動したら壊滅的ですよね。大輝先輩がいなくなったら高橋さんだって辛いでしょうし、私だって完全に仕事覚えてるわけじゃありませんし」
 手を止めた大輝が見ているのが分かり、若菜は笑いながら背を向ける。置いていかれるような寂しさが湧き上がる。
「ねぇ、阿部さん――」
 今までとは異なる声音に若菜は焦った。振り返ると、大輝の真剣な表情が映る。
「時間はまだありますし、大丈夫ですよね。というか異動になるかはまだ決まってないんですよね? 損失を食い止めるために、何としても異動の話は取り消して貰わないと」
 大輝は何か言いたげに口を開いていたが、若菜に遮られたあとは何も続けなかった。
 若菜は棚に戻って自分のコップを取り出す。棚のガラス越しに、まだ大輝の視線が自分に向けられていると知って、背中を向け続ける。意味もなくお湯を注いでみる。
 他の男に向けるような警戒心は湧かないが、今は大輝と二人きりでいることに抵抗を覚えていた。沈黙が耐え難い。他の誰かが出勤してきてくれないかと願う。
 すべてを見透かされそうな視線だ。
 初めて大輝のことを“怖い”と感じた。


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 久しぶりに訪れた安西家は相変わらず閑散としていた。
 頑丈に造られた門扉が開くのを待ちきれずに顔を覗かせる。漂う静けさに不思議な心地を覚える。植木に遮られた玄関から紗江が出てこないだろうかと背伸びしたが、彼女の姿は確認できなかった。
「なに止まってんだよ。さっさと入れ」
 背中を押された若菜はつんのめる。唇を尖らせて振り返る。
「誰もいないって、今聞いた。勝手に入るなんて失礼じゃない」
「失礼じゃない。先に入って待っててくれって言ったのは安西さんだ。俺が強制したわけじゃない」
 訝る若菜の視線に気付いたのか、厚志は不機嫌とも取れる声音で若菜を促す。
 招待されたとの言葉通り、厚志の手には安西家の鍵が握られている。渡されている以上、彼の言葉は本物なのだろう。玄関先で燻っているのは鬱陶しいが、それでも、誰もいない他人の家に上がり込むのは気が引ける。
 厚志は門扉でまだ迷う若菜を呆れたように見下ろした。フッとため息をついて若菜の脇を通り抜ける。
「あ、ちょっと」
 慌てた若菜は彼の腕をつかもうと手を伸ばした。しかしそれは避けられ、若菜の腰に腕が回る。衝撃に息を止めたのも束の間、若菜は抱え上げられた。厚志は片腕だ。
「――また軽くなったんじゃね?」
 抱え上げられた若菜は真っ赤な顔で口を開く。「失礼な」「誰がストレス溜めてるんだ」とどちらを言おうか迷ったが、厚志が歩き出すと震動で舌を噛みそうになり、何も言うことはできなかった。
 厚志の肩越しに、閉まっていく門扉が見えて顔をしかめる。
「下ろして。自分で歩ける」
「今更だろ。もう玄関まで直ぐだ」
 担がれたまま振り返ろうとした若菜はバランスを崩して落ちかけた。慌てた厚志が「こら」と舌打ちし、再び抱え直す。荷物のように肩に担がれた。腹にかかった衝撃で息が苦しい。
 そんな若菜の苦しみなど意に介さず厚志は悠々と進む。憎らしい限りである。
 玄関に辿り着いたのか引き戸を開ける音が聞こえてきた。
 若菜は顔を上げて庭園を眺め見る。
 視界の木々にはすべて手が加えられ、丁寧に整えられていた。少し先には人工の小川が流れている。水音が清々しい音を立てていた。また、紗江が餌付けでもしているのか小さな雀たちが集まってはさえずっている。手作りと思われる飼育箱まである。雀たちはそこを根城にしているのか、出入りが激しい。
 不意に靴を脱がされて寒気を覚えた。
 そうかと思うと直ぐに下ろされ、若菜は玄関に立ち尽くす。
 唐突な視界の変化についていけず、立ち眩みを覚えた若菜は厚志の腕に支えられた。
「二人が帰ってくるまで休ませて貰おうぜ」
 若菜が二、三瞬きすると、厚志は隣に座って靴を脱ぐ。
「……すっごい居心地悪いんだけど」
 泥棒にでもなった気分だ。
 若菜が憮然と呟くと厚志は笑う。立ち上がって再び若菜の背中を押した。
 ここに来てまで逆らっても無駄だ。今度は若菜も素直に従う。
 これまで何度か通された客間へと足を踏み入れる。
 家主が戻るまでどうしていればいいんだろうと悩んだところで外から車の音が聞こえてきた。悩みは杞憂となり、若菜は安堵の息をつく。
 若菜たちが入ってきた通用門とは別の、車専用の門が開いて黒い車が入ってきた。
「早かったな」
 気付いた厚志も窓からそちらを見やり、再び玄関へ戻る。若菜も慌てて後を追いかけた。
 車には安西夫婦しか乗っていないようだ。運転手が扉を開けると笑顔の二人が見えた。
「あらまぁ、早かったのね。お構いできずにごめんなさいね。私、客間にお菓子を用意していなかったかしら」
「ああ、見ました。俺らも今入ったばっかりだったんですよ。待ったりはしませんでしたから」
「そうでしたか」
 先に車から下りた紗江が頬を緩ませ、振り返って邦光の腕を取った。
 車から下りた邦光は力強く大地を踏みしめる。紗江の手に軽く頷いて厚志を見る。その表情は少し疲れて見えた。目の下には隈も窺える。
 若菜は声を掛けることも忘れてその顔を見つめる。邦光が気付いて視線を向け、まるで安心させるように微笑んだ。若菜は切なさに息を詰まらせる。
「彼も後から来るよ」
「彼?」
 厚志に向けた邦光の言葉に、若菜は訳が分からず首を傾げた。小さな声だったのか誰にも気付かれなかったようだ。邦光と厚志の会話は進んでいく。
「来年度には大規模な異動ができますね」
「私としては少し寂しい気持ちもあるけどね。これで私の役目はすべて終わった」
「まだまだですよ。勝手に隠居されたら困ります」
 邦光は朗らかな笑い声を響かせて玄関に入る。冷たい風が吹きつけている。病み上がりの老体に鞭を振るうのは酷だ。先に中へ入ってきた紗江が暖かな羽織を持ってきて邦光へ渡し、邦光は代わりにコートを紗江に預けた。
 最後に玄関に入った若菜は振り返り、車が門を出て行くことを確認する。門の両脇には人がいて、車が出て行ったのを見計らって門を閉じていた。先ほどまでは誰もいなかったのに、どこから出てきたのだろう。
 彼らがどこへ戻るのか分からないが、とりあえず玄関を閉めてしまっても平気か、と腕に力を入れる。
 と、後ろから回された厚志の腕に抱えられ、若菜は一息に持ち上げられた。
「ぐっ!?」
 腹に腕が食い込んだ。変な呻き声が出る。厚志は自分で玄関を閉め、そのまま家に上がる。見ていた紗江が苦笑する。
「いつもながら乱暴ね。平気、若菜さん?」
「は、い」
 慌てて靴を脱ぎ、紗江に頷く。
 厚志を睨んだが彼は頓着せず上がりこみ、再び若菜を抱えようと腕を伸ばしてきた。
「いい加減に人を荷物扱いしないでよね!」
 手の甲を強く叩いて肩を怒らせると紗江が笑った。厚志はようやく視線を合わせ、驚いたように瞳を瞠らせる。先に居間へ入っていた邦光が不思議そうに顔を覗かせた。
「いつまでもここにいては体が冷えるでしょう。部屋に参りましょう」
 紗江に促され、若菜は頷いて歩き出した。厚志の脇を通り抜けて邦光が待つ場所へ急ぐ。後ろから厚志がついてくる気配を感じた。
 いったい何のつもりなんだか、と若菜は唇を尖らせる。
「奥様。ただいま戻りました」
「あら……ごめんなさい。失礼しますね」
 部屋に入り、テーブルを取り囲んでようやくひと心地つこうとしたとき、玄関から女性の声がした。ビニール袋を幾つか床に置く声も聞こえてきた。お手伝いさんは買物に行っていたらしい。
 紗江が断りを入れて部屋を出て行く。
 手伝おうかと若菜が腰を上げたが、呆れたようにため息をついた厚志に止められた。
「いいから落ち着いてろよ」
 腕をつかまれて引き戻される。心持ち距離が近い。
 若菜は身じろぎして距離を離そうとしたが、徒労に終わった。挙句には厚志に「何してるんだ?」と不思議そうに聞かれる始末である。
 動揺しているのが馬鹿らしく、若菜は意地になってそのままの位置に腰を落ち着けた。

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