第二ステージへ
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3.

 お手伝いさんが戻るとキッチンからは美味しそうな音が響き出した。
 一段落ついた紗江が客間に戻る。
 見るだけで幸せそうな笑顔を浮かべ、紗江は邦光の横に腰を落ち着けた。
 それまで何をするでもなく座っていた若菜は微笑み返す。厚志は茶菓子に伸ばしていた手を休める。
 邦光はしきりの若菜と厚志の様子を聞きたがったが、無粋ですよと睨まれて口を閉ざしていた。厚志に唇を尖らせる彼は距離が近く思える。これまで抱いてきた印象を一変させる。
「まずはこれをお返しします」
 役者が揃ったところで厚志は鞄の中から封筒を取り出した。
 卓上に滑らせたそれを見たが、何の変哲もない茶封筒。若菜には見当もつかない。
「仕方ないな」
 邦光は苦いため息を吐き出してそれを受け取った。紗江も心なしか残念そうな顔をする。
「最初から予想はついていたが……やはり厚志君は駄目か」
「長らくご迷惑お掛けしました」
 若菜には分からないやり取りが交わされる。
 邦光は受け取った封筒を開くと書類を取り出した。複数枚ある。
 チラリと覗いた大きな題目には「譲渡」や「承継」といった単語が並び、若菜は喉を鳴らせた。水面下で厚志が関わっていた、養子とやらの話だろうか。
 若菜が見守る前で邦光は書類を引き裂く。
「私自身、長くはなさそうだと焦ってしまったのかな」
 辛そうに瞳を細めたものの、破る手に迷いはない。紗江も残念そうにため息をついた。
 厚志は揺らがず、目の前で破られていく書類の結末まで見届ける。
「若菜さんには要らない迷惑をかけてしまったわね」
「いえ――」
 今日という日が特別だと思ってこなかった若菜は、心構えもなく直面させられて言葉もない。少しくらい事前情報を流してくれよ、と厚志を窺ったが、彼は素知らぬフリで通すだけだ。その横顔が憎らしい。若菜の視線に気付いているだろうに、厚志は意に介さず身を乗り出した。
「邦光さんたちこそ、1月には」
「その頃には時代が変わっているよ。私はここから動くつもりはない。若い者たちに任せよう。彼はなかなか優秀なようだしね」
「そう、ですか……」
 心持ち肩を落として、厚志はうな垂れた。長年心の頼りにしていた人物が戦線離脱するのはやはり寂しいのだろう。
「……では、俺たちはそろそろ帰りますね。このあと彼と約束をしているのでしょう?」
 立ち上がる厚志は若菜の分までコートを抱えた。促されるように若菜も立ち上がる。いつもなら紗江の引き伸ばしも手伝って去るのがなかなか難しいが、今回は無理な引きとめはない。
「確かにそろそろだが、できれば厚志君も一緒に」
 少しだけ腰を浮かせた邦光に、厚志は笑って手を振った。
「冗談。願い下げですよ。俺は残念ながら彼のことが苦手でね」
 紗江が軽く吹き出し、口許を手で押さえる。
「あの、何か?」
 厚志はもちろん、邦光や紗江まで意味が分かっているのに、若菜には分からない。まるで自分ひとりだけが仲間外れだ。顎を引く。
 と、先に下がろうとした厚志の腕が若菜の腹に回った。そのまま引かれ、若菜は後ろ向きに倒れる。しかし厚志の胸に抱えられただけだった。
 倒れかけた若菜に紗江は驚いた顔をして立ち上がるが、直ぐに瞳を和ませてため息をついた。
「日華里の前でそんな強引さ、見せたこともなかったわよね」
「こいつを日華里と一緒にしないで下さい。野生で育って、丈夫ですから」
 厚志の気配が不機嫌さを醸したが、それは直ぐに拭われ、茶化す口調に転じる。
 そうして若菜は強く引き寄せられ、腕で囲うように抱き締められた。
「ぎゃあ!」
 耳元まで包まれる熱に若菜は悲鳴を上げた。追った厚志の顔から視線を逸らす。
 邦光が頬を緩めた。
「純一の若いときを見ているようだ」
 その瞬間、厚志は若菜を解放し、彼に抱えられていた若菜はその場に尻餅をついた。厚志の足を叩く。
「ちょっと、いきなり危ないでしょう!」
「……おお、すまん」
「すまんじゃない!」
 腰が抜けたのかもしれない。立ち上がれない。若菜は顔を真っ赤にさせたまま怒鳴りつけた。邦光がくつくつと喉を鳴らして笑い、若菜は釈然としない面持ちで彼を見る。厚志もまた憮然とした顔で邦光を見つめる。
「――じゃあ、そろそろ帰りますんで」
「ああ、そうだわ二人とも」
 今度こそ廊下へ出ようとした厚志を止めたのは紗江だった。
 彼女は笑顔で尋ねる。
「結納はいつの予定なの?」
 彼女が由紀子に見えた若菜は眩暈がし、背後の厚志は言葉を失った。紗江はそんな空気に気付かず純粋な瞳で二人を見つめる。
「――それは、近いうちに」
 確かめるようにゆっくり淡々と厚志は返す。声音には隠し切れない戸惑いが見られた。窺うように視線を向けられた若菜は悩む。邦光と紗江の視線も若菜に向けられ、頬が引き攣るのを自覚しながら口を開く。
「そ、そうです、ね。近いうちに」
 内心ではかなり動揺して言葉も怪しいが、何とか微笑んで告げた。
 そういえばこの夫婦は自分たちが本当に好きで一緒にいると思っているんだろうか、と疑問に思う。
(今じゃ特に嫌いでもなくなってきたけど、そう簡単に態度翻すのも癪だしな。それに、そろそろ貯金もできてきたし……)
 厚志との関係は恋人同士というより、仲の良い友だちといった関係に近いと思う。
 仲の良い、とつけるには多少の抵抗を覚えるが、それでもそのように変わってきた。毛嫌いしていた当初から見ると大した進歩である、と若菜は勝手に思う。
 そんな若菜の返答にどう思ったのか、厚志が嘆息する。どんな表情をしているのか気になり、振り返ろうとした若菜は紗江が零した「あら?」という言葉に意識をそがれた。
「厚志君、まだそういう関係保」
 と、若菜はそれ以上の言葉を聞き取ることができなかった。なぜなら背後の厚志により、思い切り両耳を塞がれたからだ。勢い良く顔を挟まれた。まるで叩かれたような感覚で、若菜は本気で眩暈がした。頭ごと引き寄せられて厚志の胸にぶつかる。
「紗江さん」
 厚志の両手ごしに、くぐもった彼の声が聞こえる。据わった目で睨む厚志の表情が想像できるような声だ。紗江が僅かに狼狽して頭を下げる。
「ごめんなさい。無粋だったわね」
「そういう問題じゃないです」
 厚志にしては珍しく、紗江に向かって不機嫌を露にしている。
 いい加減耳に熱が篭って耐え切れなくなった若菜は両手で厚志の手をつかむ。
「痛いんだけど」
「おう」
「いや、おうじゃなくて」
 直ぐに放されるものと思っていたが、一向に離れる気配がない。両耳を挟まれる強さは変わらない。熱も上昇していく。
 若菜は厚志を見上げようとした。
「いいんだよ、別に」
 何がいいのか。厚志は若菜から手を放す間際にそう告げた。
 若菜は不審に思いながらも追究はせず、部屋を出て行く厚志を追いかける。後ろからは紗江が追い、座ったままだった邦光が腰を上げた。
「じゃあ、俺らは帰りますから」
 玄関に辿り着いた厚志は、ポケットから車の鍵を取り出しながら振り返った。
「ゆっくりして行ってと言えないことが残念だわ」
「それでいいんですよ」
 嬉しげに、穏やかに微笑んで。視線を移された若菜は厚志に手を伸ばされた。それが玄関の階段を下りるための支えなのだと気付いて手を取る。と言っても階段はたった二段しかないので妙な気分になる。
 また抱えられても面倒だし、と心の中で言い訳する。
「これからまた忙しくなるな」
「俺は少し休ませて貰いますよ」
 邦光の呟きを捉えた厚志は視線を向けて笑った。邦光が苦笑する。
「こいつとの婚約披露の準備も進めないといけませんしね」
 は? という若菜の声は出なかった。
 靴を履こうとしていた若菜は手を引かれ、またしても厚志に抱き締められる。額が思い切り厚志の肩に当たる。
(今日は何なのよっ?)
 せっかく手を取ってやったのに、と苦々しく思う。調子が狂わされてばかりだ。更に言えば、厚志が人前でこのような態度を取るのも珍しく思えた。契約を結んでいる若菜は露骨に嫌がることもできない。誰もいなければ遠慮なく暴れるのに、と奥歯を噛み締める。
 若菜が抵抗する前に厚志は解放した。玄関先に下ろされる。睨みつけた先には底意地の悪そうな笑顔があった。絶対に面白がっている。乱れた前髪を直されたが、若菜はその指に噛み付きたくなった。
「楽しみだわ」
 他意のない紗江の言葉に、若菜は心を重くした。

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