第二ステージへ
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4.

 屋敷を後にした若菜は壁沿いに無言で突き進んでいた。足取りは強く荒い。それでも厚志には簡単に追いつかれる。
「何怒ってる?」
「それも分からないお前に怒ってる」
 低く唸ると鼻で笑われた。横に並ばれ、腕をつかまれる。思い切り振り解くと、拍子に反対の手が壁に当たって痛んだ。
 呻いた若菜に、厚志は横を向いて吹き出した。
「さっき紗江さんたちに言った、婚約披露のことか?」
 笑う厚志など無視して先ほどよりも早く歩いた若菜だが、再び追いつかれた。
(もうこうなったら自棄で走り出してやろうか)
 そんなことを思ったが、それはそれでまた簡単に追いつかれそうな気がした。
「また私に何も言わないで勝手に決めて。紗江さんに言われたからって、急に決めるな。怒るに決まってるでしょう」
 再び隣に並んだ厚志は肩を竦め、車の鍵を指で回す。ジャラジャラという金属音が耳障りだ。
「だいたい、何でいきなりそんなことになるのよ」
「だってお前、俺のこと好きだろ」
 若菜は反射的に隣を歩く足を思い切り蹴り飛ばした。
 衝撃で鍵が飛んでいく。道路に落ちて、車に踏まれて行方が分からなくなる――だったら面白いのだが、鍵が空中を飛んでる間に厚志は易々とつかみ取った。素晴らしい動体視力に悪態が出る。
「好きじゃない!」
 怒鳴りつければ厚志は肩を竦める。
「いや、好きだ」
「勝手に決めるな!」
「いいじゃん、決めても」
「お前は私か!」
 怒りのためにか、出てくる言葉は酷く短い。顔を真っ赤にして怒鳴りつける若菜を、厚志は楽しげに見下ろしている。
 若菜は壁を後ろにして足を止め、厚志を睨みつけるように見上げて対峙した。
「俺様主義もいいところだ!」
「いいところだったらいいだろ」
「訳分からん!」
 頭が絶対に回っていない会話だ。
 見透かされそうなほど真っ直ぐな視線を向けられる。
 若菜は居心地が悪くて視線を逸らした。表情と態度には怒りを宿したまま、何かないかと周囲に漂わせる。
 唇を引き結んでいると肩が軽く押された。若菜はよろけて一歩後退しようとする。だが背後の壁にぶつかり、自分の肩も壁に当たっただけで厚志に視線を戻す。次いで覆いかぶさってきた影に瞳を瞠った。
(あれ?)
 長身を屈めるようにして口付けられていた。
 厚志とのキスは、夏の終わりに一度した。今回は深い。
 顔を上げ、伸びた若菜の背中に腕が回され、軽く抱え上げられる。若菜は爪先までピンと力を入れて伸ばし、厚志の肩をつかんだ。
「や、やめてよね!」
 一瞬離された合間に必死で叫ぶ。厚志の胸を打つと案外簡単に離れられた。
 足は地面に着いたものの、力が入らず座りこみかけた。壁に寄りかかるようにして何とか保つ。涼しげな顔をしている厚志が憎らしい。
「だ、誰も見てないところでしたって意味がないでしょうっ」
「誰か見てた方がいいのか? 別に俺はそれでもいいけど」
「良くない!」
 何がなんだか分からず、若菜は混乱したまま叫ぶ。とりあえず厚志の言葉はすべて否定しておく。熱があるようだ。体全体が発熱し、頭が痛い。
 若菜は二の句が告げずに唇を引き結んだ。
 一瞬の隙を突いて厚志の指から車の鍵を奪い、走り出す。
「若菜?」
「先に戻る!」
 目尻の端に涙が滲んだのは悟られたくない。
 若菜は全力疾走して叫ぶ。幸いにも厚志が追ってくる気配はない。そのことに安堵する。きっと笑っていると予想できて、絶対に振り返らない。振り返ってたまるものかと思う。
(ああもう、悔しい悔しい悔しい。何か分からないけどすっごく悔しい!)
 あともう少しで借金返済の目標値に届くというのに、これ以上踏み込まれると困る。
 先ほどのキスを思い出すと更に体が熱くなる。
 若菜は走る速度を更に上げた。大声で叫び出したい気分だ。未知の領域が恐ろしくて、無我夢中でただ走る。
 駐車場までそれほど離れてはいなかったが、辿り着いたとき、若菜は激しく息切れしていた。
 急には止まらない。苦しいが、それでも見慣れた厚志の車までは早足で駆ける。握り締めた鍵は汗と体温で温くなっていた。それを運転席側のドアに差し込もうとしたとき、駐車場に他の車が入ってきた。
 若菜は貧血と眩暈が同時に襲ってくるような感覚に耐えた。その車が横に並んだことに瞳を瞬かせる。こちらの車も、どこかで見たことがあるような車だ。
 ひとまず相手の車から人が下りてからこちらのドアを開けるか、と待っていた若菜は瞳を見開いた。その車から出てきたのは大輝だ。
 大輝は駐車場に入ってきたときから若菜に気付いていたらしい。車から下りると、普段通りに笑いかけてきた。
「珍しいね、阿部さん。こんなところで会うなんて――て言っても、俺は予想できてたけど」
 笑みを苦笑に変える大輝に、若菜は言葉の意味を考える余裕もなく嬉しくなって駆け寄った。厚志の後だと余計に癒される。
「すごい偶然ですね、先輩! 今日はどうしたんですか?」
「これからお世話になる人に挨拶をね」
 走り寄る若菜に微笑んだ大輝はスーツを直す。その表情はどことなく張り詰めていて、顔色が青い。
「大丈夫ですか?」
 眉を寄せて首を傾げると、「少し緊張してる」と声が返って来た。
「何しろ偉い人と会うもんだからさ。粗相はするなって、親から散々言い含められてきた」
 肩を竦める大輝は困ったようにため息をつく。
「先輩も大変なんですねぇ」
 大輝と一緒にいると、こちらの思考や言葉がゆっくりした物に変わっていくような気がした。厚志の傍にいると張り詰めて体が伸びるのだが、大輝はこちらを宥めるような、安らぐことができるような雰囲気を持っている。
 若菜は間延びしそうになる声を必至で繕わなければいけなかった。
 仕事中はそれでも幾らか頭が回るのだが、こうして外に出て、彼と何を話せばいいのか分からない。ただ穏やかな雰囲気に流されそうなだけである。
 ただ沈黙を享受していると、ふと大輝が口を開いた。
「阿部さんは、平気?」
「はい?」
「色々と、そっちも忙しそうじゃない?」
 仕事のことか、私生活か。
 厚志と再会を果たしてから確かに自分の時間が少なくなった。ほとんどの時間を厚志と共有している。忙しいと言えば忙しいのだが、赤の他人と一緒にいるよりかは気が楽だ。
(素のままの自分を知られてるからなぁ。繕わなくてもいいっていうのはかなり楽)
 ずっと昔から一緒にいたような、不思議な感覚だ。幼馴染とはそういう存在だっただろうか。
「まぁ忙しいと言えば忙しいんですけどね。仕事もはかどりませんし」
 大輝が肩を竦めた。
「ごめんね。俺が抜けるばっかりに。来年には阿部さん、更に忙しくさせちゃうね」
「大丈夫ですって。忙しいのは本望ですし。いままで大輝先輩に頼りすぎてたんです。大輝先輩こそ少し休んで下さい。あんな仕事量こなしてたなんて、凄すぎですよ」
 大輝の引継ぎを思い出すにつれて若菜の表情は険しくなる。
 大輝は「やぶへびかぁ」と呟いて笑った。気負いのない笑顔だ。
「でも本当、来年は阿部さん、かなり忙しくなると思うよ。俺ばかりか美智子まで抜けるからさ」
「美智子先輩もっ?」
 それは初耳だ。
 艶やかな黒髪美人を思い浮かべて素っ頓狂な声を上げた。まるで知らなかった、と呟くと「まだ極秘だから」と笑われた。
「本当にごめんね。美智子は俺の婚約者だから」
「……はい?」
 若菜は数秒固まって大輝を見た。
 よっぽど呆けた顔をしていたのだろう。大輝はたまらないように笑い出した。車に寄りかかりながら腹を抱える。
「えっと……いつから、ですか?」
 気付かなかったが、大輝には銀色の指輪が嵌められていた。政府からの恋人指輪だ。若菜も現在は首からかけている。
 そうか、だから大輝を取り巻いていた女性の波が引いたのか、とようやく納得できた。
「美智子が前の奴と別れて――ああ、でもわりと最近かな」
 思い出すような瞳をしながら大輝は首を傾げた。
「ぜんぜん気付きませんでした……」
「俺も美智子もベタベタした関係じゃないからね。むしろ腐れ縁。というか、俺は単なる当て馬で契約恋人なんだけど」
「はい?」
 更に信じられない言葉に、若菜はただ同じ言葉を繰り返した。
「阿部さんさ、高橋や課長に頼まれたことがあるだろ。美智子の身辺を探ってくれって」
 若菜はドキリとした。後ろめたい思いが湧きあがる。やはり大輝にはばれていたのかと気まずい。
「聞いてるかもしれないけど美智子の家って結構厳しくてね。前の奴は家の品格にそぐわないから別れろって圧力が掛かってたんだ。まぁ、それが原因で分かれた訳じゃないんだけど、家は直ぐに次の恋人を用意したらしくてね。美智子が凄い剣幕で切れて、俺に災難が降りかかったって訳だよ」
「美智子先輩が切れるのって、想像できない……」
「そう? 皆の前では猫被ってるだけだよ。最近じゃ、阿部さんの前では剥がれてきてるけど」
 大輝はにこやかに言い切った。
「そ、そうですか」
 身近にそんな存在がいるから、だから大輝は自分を見透かすのだろうか。
 複雑な心境だ。
「さてと。結構長くなったな。俺はそろそろ行かないと」
「あ、そうですよね。引き止めてごめんなさい。用事があるって言ってたのに」
 車から背を離し、腕時計を見る大輝に謝る。大輝は笑って「いいよ」と首を振る。
「阿部さんのおかげで緊張も取れてきたし。俺としては話せて嬉しいしね」
「そうですか? なら良かった。頑張ってきてくださいね」
 大輝の意図を見事に理解しない若菜に、大輝はもう笑いを堪えるのに力を入れながら頷いた。
「阿部さんもね。これから頑張って」
 大輝の手が伸びてきて、頭を撫でる。
 厚志が見下ろしてくるのは非常に不愉快だが、大輝にされると腹が立たない。彼が放つ雰囲気と人徳であろう。
 そんなことを思っていた矢先。
 大輝の体が急に遠ざかり、若菜は瞳を瞠らせた。
「――っと」
 バランスを崩した大輝は何とか持ち直す。自分の襟首をつかむ腕を辿って振り返る。
「厚志……」
 すっかり忘れられていた厚志がそこにいた。ようやく追いついてきたらしい。
「君ね。一応俺、年上なんだからさ」
 後ろから襟をつかまれて引っ張られ、やや苦しそうな声で大輝が抗議した。厚志の冷たい一瞥が彼を捉える。
「関係あるか、そんなこと。若菜から離れろ」
 聞く耳持たない厚志に、大輝は苦笑した。つかまれていた腕を振り払って向き直る。
「人聞きの悪い。俺が阿部さんをどうこうしてる訳じゃないよ。俺の隣にいるのは彼女の意志だ」
「この……っ」
「こうして君と話すのは初めてだよね」
 激昂しかけた厚志を何気なく誘導して話題を変える。さすがは年上だ。
「俺のこと知ってる?」
「……萩山の末っ子だろ」
 つかんでいた手を振り払われた厚志は邪険に睨んだ。敵意に満ちた瞳に大輝は笑う。
「君にそう言われると複雑だけど――ああ、本当に時間がないや。じゃあね。また話せる機会は直ぐに来ると思うから」
 厚志は体をずらし、大輝が通る道を開けた。車と車の間で話していたため、通路は狭い。
 大輝は礼を言いながら手を振り、少し小走りになって去っていった。
 黙ったまま見送った若菜は色んな情報に頭が回らず立ち尽くす。厚志が目の前に立ち、若菜はただ見上げた。
 不機嫌な顔で厚志は若菜の頭を撫でる。撫でるというより、髪の毛をかき混ざると言った方が正しい乱暴さだ。
「何するのよっ?」
 当然ながら怒った若菜に、厚志は「よし」と頷いて鍵を奪うと、運転席側に回る。
「よしじゃないだろ!」
 若菜は頬を膨らませて髪を直し、足を踏み鳴らせた。
 憤然としたまま助手席に乗った。

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