第二ステージへ
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5.

 厚志が勝手に決めた婚約披露。由紀子に教えたらどれほど喜ぶだろう。
 若菜は自宅の玄関前でそんなことを思った。
 善意ではない。投げやりで荒んだ自嘲だ。
 婚約披露、というとテレビや雑誌で芸能人が取材されている場面を思い出してしまう。華やかなドレスを着て、嬉しそうな顔をして、知り合ったきっかけや、相手のことをどう呼んでいるのかや、そんなことを知ってどうするんだという質問攻めにあう場面だ。
 もちろん今回はテレビとは無関係だから、沢山のマイクを突きつけられることはない。だが厚志の立場を考え、安西の言葉を考えると、結構な人数が集まると予想される。それらすべてを欺き通さなければいけないと思うと心が重い。
 若菜は玄関前で立ち尽くし、グルグルとそんなことを考えた。
「何やってんの?」
 横から掛けられた声に肩を揺らせる。
 由紀子が鉢植えを手にして眉を寄せていた。彼女は不思議そうに玄関に手を伸ばす。
「何だ、開くじゃない。鍵掛かってるのかと思ったわよ」
「――別に」
 若菜はため息をついて足を踏み入れた。続いて由紀子が入り、持っていた鉢植えを玄関に置くと、再び外へ出て行った。園芸が趣味の由紀子は鉢植えの数も結構な数を所有している。冬の間外へ置いておくと、寒さに弱い彼らは全滅してしまうため、中へ入れている。
 今年もまた玄関が狭くなるなぁと思いながら、若菜は靴を脱いだ。
 居間へと向かい、ストーブの前を陣取る。コートを脱いで一息ついた。
 やはり人に会えば、知らず疲れが溜まるものだ。
 若菜は瞳を閉じて、湧き上がってきた安らぎに身を委ねる。委ねながら「悔しい」と呟いた。拳を握り締めて眉を寄せる。
「好きなわけないじゃん」
 膝を立ててその上に顎を乗せ、憮然とする。
 確かに厚志が側にいるとドキドキして困るけれど、それは単に自分が男慣れしていなくて滅多にない状況だからだ、と若菜はため息を吐き出す。もし若菜のそんな心情を知ったら厚志の方がため息をつきたい気分になるだろう。
 若菜は何気なく唇に触れて我に返り、真っ赤になって擦った。両耳を塞いだ。それでも厚志の声が脳裏にリピートする。振り払うようにかぶりを振ったが、頭が痛くなるだけだ。
「ムカつく!」
 ダン、と拳を床に叩きつけ、憤然と立ち上がった。
(だから人の心に勝手に入り込んで来ないでって言ってるじゃない!)
 現在側にいない相手へとブツブツと呟く。
(こうやって人に捉われてる自分が一番嫌なんだよ、自分が自分じゃなくなるみたいで! 地に足が着かなくなるみたいなんだから!)
 ズダダダ、と思い切り音を立てて階段を駆け上がった。玄関先にいた由紀子が何事かしらと振り返っていたが、若菜にはそれを気にする余裕がなかった。部屋に飛び込む。久しぶりの晴天で干されていた布団を取り出し、これまでにない素早さで敷いて整え、布団に潜り込んだ。
 さっさと眠ってしまいたかった。


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「酷いわね」
 若菜の顔を見た途端、眉を寄せたのは美智子だった。
「……顔が悪いのは自覚してます」
 給湯室でポットにお湯を入れていた若菜は憮然と返す。美智子が目を瞠って笑った。
「誰がそんなこと言ってるの。でも、当たらずとも遠からずっていうところかしら」
「……言ってるんじゃないですか」
 キュッと蛇口をひねってお湯を止める。手を拭いてため息をついた。
「むくんでます?」
「若菜が自発的にむくれてるんじゃないの?」
「……昨日、嫌なこと聞いたから顔が勝手にむくれてくるんです」
 頬を膨らませながら言ってみると、再び美智子には笑われた。
「厚志君のこと?」
「――そうです」
 一瞬、否定しようか迷った若菜だが素直に頷いた。今までは適当な言い訳を探してその場を逃れてきていたが、美智子相手に繕うのが面倒になった。美智子ならば繕わなくても嫌悪感を抱かないのではないかという、信頼が芽生え始めている。人見知りが激しい性分だが、さすがに二年近く同じ職場にいれば緊張も取れてこよう。
 若菜はポットのお湯詰め第二弾をしながら美智子を振り返る。
「勝手過ぎるんです、何もかも。私の意見なんて聞きもしない」
 美智子はただ笑って頷いた。
「いきなり言われたって、こっちは何も知らないんだから混乱するばっかりじゃないですか」
 お湯が溜まるまで美智子の隣に立ち、彼女と同じく並んで壁に背中をつけた。
 蛍光灯の光が美智子の黒髪に艶やかな筋を作り、若菜は怒りを忘れて魅入った。自分の髪では幾ら梳いても彼女と同じ艶やかさは出ない。おまけに美智子からはいい匂いが漂ってきて、安らぐ。怒りが宥められていく。大人の女性ってこんな感じかぁと、妙に納得してしまう。
「若菜ぐらい力強かったら、厚志君も負けそうな気がするけどね」
「そりゃ、負けるつもりはありませんけど、厚志だって負けないですよ。気の強さはいい勝負なんですから。だから余計に疲れるんです。少しは譲歩を覚えてくれないかと、本っ当に思います」
 美智子はクスクスと肩を震わせて笑う。
「若菜が折れる気はないのね?」
「絶対に嫌」
「それじゃあいつまでも平行線のような気がするわ」
「――そうかも」
 お湯が溢れそうなことに気付いて壁から背を離し、腕を伸ばしながら首を傾げた。
「けどこっちだって、結構譲歩してきましたから」
「そう?」
「絶対そうです」
 断言すると美智子は黙った。
 沈黙が居心地悪くて若菜は俯く。お湯を入れたポットを台に上げながら静かに嘆息する。
 やがて美智子が明るい声を上げた。
「でも、恋人なら少しくらいのわがままも可愛いものじゃない」
「凶悪だから困ってるんです」
 美智子は声を上げておかしそうに笑う。
 お昼休みが終わろうかという時刻に差し迫っていたが、他の部署が給湯室を使う様子はない。職場で出来る会話でもないため、若菜はポットを二つ並べると再び美智子の隣に戻って壁に背をつけた。
「だいたい、厚志とは契約だけで、好きあってる訳じゃないです」
「でも若菜は好きなんでしょう?」
「好……っ、どうして先輩までそんなこと言うんですか」
 二日続いて衝撃的な言葉だ。他人から見ると誤解受けるような行動してるんだろうかと思ったが、確かに厚志の恋人として見えるよう振舞っているのだから、厚志以外にはそう思われてなければ困る、という考えに行き着いた。
 案の定、美智子は不思議そうな目で若菜を見ている。
「あ、いや……厚志とは実はただの契約で――って、あれ? 私、さっきも同じようなこと言いましたよね。ていうか先輩、私たちの関係、知ってたんですか?」
「大輝から聞いてるわよ。厚志君とは契約結んでるんだって」
「大輝先輩が……?」
 なぜ彼が知っているんだろうかと首を傾げたが、病院に行くため車に乗せてもらったときのことを思い出して納得した。確かにそのとき、厚志は敵だと叫んだことがあった。
「そう、です。厚志とは恋人になりたくてなった訳じゃなくて、ただ政府の縁談が面倒だから契約しただけで」
 ついでに言えば母が彼から多額の借金抱えててその担保に私が差し出されてる訳なんですけど、と胸中だけで毒づいた。
「契約は契約として別にいいのよ。肝心なのは貴方の気持ちでしょう? 若菜は好きで厚志君と一緒にいるんじゃないの?」
「冗談じゃないですよ。あんな奴、こっちから願い下げです」
 チクリと胸が痛んだが、若菜は笑い飛ばした。美智子が眉を寄せる。
「好きじゃないなら一緒にいる意味がないような気がするのだけど」
「意味なら話したじゃないですか。縁談免除の料金がかからなくなります」
「それは若菜だけの都合でしょう?」
「え?」
 意外な言葉に若菜は瞳を瞠った。
 気付けば美智子の瞳は鋭くなっていて、普段とは異なる雰囲気に呑まれる。若菜は火照っていた顔からスッと熱が抜けるのを感じた。背中についていた壁から冷たさが滲み出てくるようだ。
「嫌いだと言うなら一緒にいる意味がないのよ、厚志君にとっては。若菜はどうして今一緒にいるの? 好きだからでしょう?」
「いや、じゃなくて、単に幼馴染の関係だし、他の婚約者避けに私が雇われたっていうのもあるし……」
「ああ、純一おじ様のことね。でも、それでも、本当に一緒になるつもりがないなら別れるべきだわ。これからの彼には妻が絶対に必要だから。昔からの偏見がいまだに残ってて嫌になるけど――妻がいた方が、仕事がうまくいくのよね。外交上。今のところ婚約者の筆頭候補は佐藤麻衣子。おじ様は彼女を政府の縁談に組み込んで厚志君の婚約者にするつもりだわ。そうなったら幾ら厚志君でも邪険にはできないでしょう。一緒にいる時間が長ければ長いほど、それだけ情も湧く。若菜は厚志君と彼の結婚相手から時間を奪ってることになるのよ」
 若菜は視線を逸らした。脳裏に麻衣子の姿が浮かぶ。彼女が婚約者となったら、嬉々として厚志に腕を絡ませるだろう。容易に想像できる。そしてまた、厚志が嫌そうな顔をしながらもその腕を解かないだろう場面も。
 若菜が恋人役として隣にいたからこそ、厚志も遠慮なく麻衣子を突き放せた。けれど若菜が別れれば突き放す理由がなくなる。恋人がいないのに女性を近づけさせないのは何か理由があるのではないかと、妙な勘繰りをされてはたまらない。外交が必要な仕事ならば尚のことだ。
 厚志を囲む面々はそんな心配をしているというのだろうか。
 恐らくそうなのだろう、と美智子の言葉を考えながら若菜は視線を落とした。
 麻衣子だったら厚志との結婚願望が強そうだ。そんな彼女と一緒にいれば、厚志の気持ちも徐々にやわらいで、彼女との将来を考えるようになるかもしれない。
 本当に結婚相手が必要ならば、そちらの方がいいのかもしれない。
 なぜだか胸の奥がムカムカとしてきた。酷くもどかしい気持ちになる。
「嫌いな相手に情を湧かせるより、好きな相手と一緒にいた方がいいじゃない。おじ様もそう思って手出ししなかったと思うけど、若菜がそういう気持ちでいるんだったら、私も考えるべきかしらね」
 不穏な言葉に若菜が顔を上げると、美智子の真摯な眼差しが見下ろしていた。
「若菜。本当に厚志君のこと、嫌いなの?」
「嫌い、だけど。男友だちだし、困ってるっぽかったし」
 まるで言い訳のようだ。美智子のため息に、必要以上に体を強張らせる。
「友だちって言い切るからには何もなかったんだと思うけど――キスくらいはした?」
「キ、キ……ッ、くらいって、何ですかっ?」
「まぁ若菜だったらそれが限界よね。厚志君も男だと分かって嬉しいわ」
 若菜が真っ赤になって怒鳴れば、美智子はケロリと受け流した。
「でもそれぐらいだったら傷は浅いわね。別れなさい」
 若菜は絶句した。
「と、まぁ、人に言われるほど嫌なことはないわね。若菜の好きにしたらいいわ。ただ、嫌いなまま厚志君と付き合ってても相手には迷惑なんだってことは覚えておいてね」
 若菜は黙ったまま小さく頷いて顔を上げた。
「大丈夫です。婚約披露が終わったら、別れるつもりですから」
「え?」
「最初から厚志と決めてたんです。婚約披露までは恋人として付き合うって。だからそれが終わったら、厚志とは恋人契約解消です」
 美智子は奇妙な顔をする。
「そう」
 その他に言葉はない。若菜から声をかけることもない。
 休み時間終了を告げる鐘が鳴り響いた。


END
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